文化祭

昨日、モアステージの「文化祭」が終わりました。

 私が住んでいるマンションの「文化祭」で、今年で8回目の開催になります。

11月8日(木)~10日(土)迄、場所はA棟1階「キッズルーム」での開催です。 かつては、子ども達が遊ぶ部屋でしたが今では、「談話クラブ」が主催するお茶を飲む会や健康マージャンの会場になっています。

都内から吉川のマンションに移り住んで30年近くなります。子どもたちは成人し、いつの間にかいなくなりました。仕事の関係や結婚などで都内をはじめ別の場所で生活しています。(なぜか、私の所はまだいます)

定年を迎え、再雇用も終わり夫婦2人の世帯が多くなりました。連れ合いを亡くし、一人で暮らしている方もおります。

朝、310世帯の子ども達が登校班ごとに、切れ目なく出発していたのがウソのようです。現在の通学班は20人程ですが、来年には半減します。

文化祭に出品される作品は、水彩画や油絵、絵手紙、写真、陶芸、竹芸、木彫(仏像)、押し花絵、手芸、人形等、様々です。 以前、水墨画や川柳もありました。私は「生け花」を出しました。花器を変えたいと思い、友人(マンションの山仲間)の奥さんが作られた花器をお借りして活けました。

30数人が出品し、3日間で延べ150人以上が見に来られました。 趣味でされていることがほとんどですが、「へえー」と驚かされる出来ばえの作品もあります。いろいろな方の興味・関心、多才さに感心します。

私も時間の合間に行きました。日頃、挨拶程度で話をしたことのない方々と「世間話」をしました。作品のことや趣味。子育て・子離れ、お墓、断捨離など、話は尽きません。お互いの距離が縮まり、改めてその方の「人となり」を感じます。

何かのご縁で、同じところで生活することになった方々。顔と名前が一致し、気軽に「世間話」が出来る街。その中で、それぞれの居場所と役割がある。

「まちづくり」の目標は、そんな地域を創ることだと思います。

*また、遅れての更新。スミマセン。

堤 清二

11月2日(金)、池上 彰さんの〈夜間授業〉「“戦後”に挑んだ10人の日本人」第6回堤 清二に行ってきました。

清二は昭和2年(1927)3月30日に西武グループ創始者、衆議院議員の父堤 康次郎、母青山 操の長男として東京府北多摩郡三鷹村下連雀に生まれました。

青山 操は、康次郎の3番目の妻(実質4番)でした。 堤 清二には妹の邦子(元西武百貨店取締役 欧州担当)のほか5人の異母兄弟がいました。 元西武鉄道社長の堤 義明は、実質5番目の妻石塚恒子(未入籍)の長男です。

私が最も知りたかったことは、堤 康次郎が西武グループの中核である西武鉄道・コクド(国土計画)・プリンスホテルを義明に任せ、清二には「西武百貨店」のみを引き継がせたのかということです。

清二は昭和26年(1951)東京大学経済学部を卒業後、肺結核で1年半に及ぶ闘病生活をしました。その後衆議院議長となった康次郎の秘書となり、昭和29年(1954)9月、父の指示で母の弟青山二郎が支配人を務めていた西武百貨店に入社。入社時の肩書は「支配人付」。

当時の西武百貨店(池袋)は、何もない店でラーメンが食べられるぐらいなので、「ラーメンデパート」と比喩されていました。西武鉄道もまた、前身の「武蔵野鉄道」が都内の糞尿を郊外へ運ぶ『うんち電車』のイメージが残っていたと思います。子ども時代、西武線が黄色いのは「うんちを運んでいるから」と私も信じていました。

〈夜間授業〉のレジメには、1共産党で詩人で作家で実業家 2共産党員から「ラーメンデパート」へ 3丸物をパルコへ 4渋谷へ進出 5セゾン文化を創出 6異母弟との確執・インターコンチネンタル買収 7作家・辻井 喬 8セゾン解体 とあります。

これを見ただけで、堤 清二の人柄、やってきたことがおぼろげに分かります。

西武百貨店を全国展開し、池袋本店を単独店舗年間売上全国1位にしただけでなく、西友ストア、ファミリーマート、パルコ、無印良品、ロフト、ホテル西洋銀座、インターコンチネンタルホテル、セゾンカード等、時代を読み、次々と新しい事業に挑戦し作り上げていく実業家。パルコ劇場や軽井沢高輪美術館(現、セゾン現代美術館)の開館。糸井重里を起用した「不思議、大好き。」「おいしい生活。」等、物からことへの提案をした思想家。そして詩集「異邦人」、長編小説「虹の岬」に代表される詩人・作家としての顔を持つ「堤 清二」。

「堤 清二」の全体像像は、掴みきれない。西武百貨店から「セゾングループ」へ発展していく過程、同じ時代の空気を感じながら同業で働く者として、羨望の目で見ていました。「堤 清二」の西武百貨店は輝いており、そこで働く人たちは「私たちは、物だけでなく文化を提案している」という自信を持っているように感じていました。文化を「創造」していくカリスマ経営者の下で働くことを誇りにしていたと思います。

堤 康次郎が清二に、なぜ『西武百貨店』のみを引き継がせたのかということの話はありませんでした。堤 康次郎が心筋梗塞で急死した後、清二は自ら異母弟の義明に鉄道・不動産・ホテルを、自分は『西武百貨店』だけで良い、と申し入れました。また、その後見つかった遺書には、『義明に鉄道・不動産・ホテルを任せる。』とあったそうです。

私は、堤 康次郎が清二の「挑戦的反骨精神」と「自己否定」し続ける「破壊願望」があること。そして母青山 操(詩人)の文学的才能を受け継いでいると感じていたからだと思います。『百貨店』の次に来るものを想像し、変革していく。それが出来るのは「清二」だと分かっていたのではないでしょうか。

*更新が遅れました。お詫びします。

*(11/4追記)就職活動をしたのは、4年生になってからだと思います。「百貨店」か「ホテル」で仕事をしたいと考えていました。当時、都庁が有楽町から新宿西口へ移転することが決まっていました。再開発された西口は元淀橋浄水場の跡地です。秋にはススキが茂り、タヌキも出没するような所でした。夜には、怪しいお姉さんも出没していました。小学校の時、社会科見学にきました。勿論、浄水場です。

京王帝都が京王プラザホテルを作り、大手企業の超高層ビルが建ち始めていました。これからは「新宿」だと思い、新宿のデパートの採用試験を受けました。一方、ホテルでの仕事にも魅力を感じていました。収益を稼ぎ出す「宴会」担当です。結婚式の披露宴よりも、企業の創業記念や販売促進関係のパーティがオモシロイと思っていました。

西武グループの「プリンスホテル」を受けました。プリンスホテルは、西武鉄道本社の採用でした。所沢にあった小学校の校舎みたいな本社で試験を受けました。結果は両方ともダメでした。その後「百貨店」からは、『募集人員が変わったので再度受けませんか』との連絡が来ました。「ホテル」の方は、就職課の課長から『川奈ホテルはどうか。プリンスホテルの系列だし』と紹介されましたが、受けませんでした。

最終的には、新たに上野駅前に出店する「京成百貨店」に一期生として入社しました。開店から閉店までの15年間、他の所では経験できない貴重な体験を、魅力的な人達と一緒に仕事をすることが出来ました。幸せな時間でした。

 

 

 

 

川崎春彦

川崎春彦さんが亡くなりました。

10月5日の読売新聞には、「日本画家の川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんが2日、老衰で死去した。89歳だった。告別式は…」とありました。

父親の川崎小虎(かわさき・しょうこ)と義兄の東山魁夷に学び、主に日展を中心に活躍されていました。 代表作の「朝明けの湖」など、力強い色彩による自然の生命力あふれる風景を描いていました。

我が家に団扇(うちわ)があります。40年以上前のものですが、川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんの作品を基に作られたものです。

そこには、「朝明けの草原」が描かれているように見えます。草原の彼方から朝陽が出る前の風景です。手前の湖に光が複雑に反射しています。夜明け前の藍色の空と、草原、白い光、遠くに小さな木があり、鳥が数羽飛んでいます。 また、夏の日の「夕立」後の風景にも見えます。激しい夕立の後、暗い空の切れ目から光が草原と湖にそそいでいるようにも見えます。

いずれにしても、動きのある自然を描いており、じっと見ているとその場所にたたずんでいるような錯覚になります。描かれた世界に引きこまれそうです。

何年間続けたかは覚えていませんが、夏のご挨拶として「粋筋」にお届けしていました。 普通の団扇の倍以上の大きなもので、裏には百貨店の名前が入っています。 柳橋や新橋の料亭で、旦那方に芸者さんが「やさしく」扇いでいたと思います。

川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんにお願いしたのは、当時社長だった川崎千春(かわさき・ちはる)の親戚だったからだと思います。川崎千春は京成電鉄の社長でしたが、百貨店の社長も兼ねていました。デパートの包装紙も紆余曲折がありましたが、最終的に東山魁夷の作品から作られました。

「川崎天皇」と言われていたワンマン社長で、絶大な権力を持っていました。成田空港への乗り入れや東京ディズニーランドの開設は、あの方がいなければ出来なかったことだと思います。

我が家にはもう一つ、下保昭(かほ・あきら)さんの水墨画を使った団扇(うちわ)があります。独創的な水墨画の幽玄美で知られる方ですが、今年の8月15日に91歳で亡くなりました。岳父は日本画家の小野竹喬(小野・ちっきよう)です。

団扇(うちわ)を見ていると、昔を思い出します。一緒に仕事をしていた同僚や上司のこと、そして川崎千春(かわさき・ちはる)社長に対し、『お辞めください』と言った自分のことを。

*川崎小虎(かわさき・しょうこ)の祖父は、大和絵画家の川崎千虎(かわさき・ちとら)。尾張藩士で徳川家に仕えた代々浮世絵師の家柄。

「人間ドック」

爽やかな朝を迎えました。

我が家のベランダから「富士山」が見えます。雪に覆われています。手前には、奥多摩から丹沢連峰が連なっています。秋の深まりが少しづつ進んでいると感じます。

4日間続けて「9月議会報告」のチラシを配っているせいか、今朝は5時まで寝ていました。

昨日は30,793歩でした。1時間も歩くと全身に汗をかきますが快適です。夏と比べると同じ時間で倍以上のチラシを配布できます。

それにしても、1週間が本当に短く感じます。毎週、ブログを更新していますが感覚としては昨日書いたばかりという思いです。更新当日の朝、布団の中で『何を書こうかな』と考え、思いついたことを書いてきました。普段、考えていることや気になることを書きとめ、いくつか用意しておけば、毎土曜日に悩まずに済むとも思いますが出来ません。

昨日の朝は、「街の様子」を伝えようかなと思いました。2~3か月に一度、ポスティングで2週間近く街を歩きます。アパートの一室へも届けます。街は常に変化しています。そこに住む人の暮らしや思いも変化しているように感じます。歩く中で、見聞きする様子は今の姿です。

数日前、アパートの一室で片づけをされている方からは、『おばあちゃんが亡くなったの。それで片づけに来ている。』『役に立たなくてごめんね』と言われ、自宅の前にたたずむ老人からは、『家の中に人がいる』と入ろうとしない。いろいろ話かけるが、かみ合わない。玄関から何度も声を掛けると、「父親」を介護されている家族の方に、静かに頭を下げられました。「認知症」の父を抱え、疲れているように見えました。

介護の現実を知らされます。歩くことで、いろいろなことが見えてきます。そんなことを書こうと思いましたが、どうも気持ちがのらず今日を迎えました。今朝思ったことは、昨日届いた「人間ドック」の結果、「健康診断ファイル」についてです。

今月の初め「人間ドック」を受診しました。10年ぶりのドックです。東急の大岡山にある「東急病院」の1日コースです。会社にいる頃は毎年、健保の施設で受診していました。何か異常が見つかると、「再検査」を受けなければなりませんでした。再検査で嫌だったのは「胃カメラ」です。苦い麻酔薬を喉にためて麻痺させ、カメラを入れますが、食道と胃が異物の侵入を阻止しようと抵抗します。今回のドックでは最初から胃カメラでの検査でしたので、少し不安でした。

「東急病院」では問診時に相談があり、麻酔の注射をしましたので眠ってしまいました。全く検査の様子は覚えていません。ドックの最後に速報のデータを基に、医師からフィードバックがありました。

「健康診断ファイル」には、基本検査とオプションで実施した検査結果一覧と担当医のコメント・アドバイスが書かれています。看護士からの生活指導もあります。この他、医療機関への依頼状も同封されています。

ショックだったのは、オプションでやった「健康年齢」でした。実際の年齢より「高い」という結果でした。毎日測っている「タニタ」のヘルスメーターでの「健康年齢」は、実年齢より20歳も若く表示されています。

どう考えても、「タニタ」より「ドック」の方が正しい。と思うと余計に悔しくて、この1年ガンバッテ、来年も「ドック」を受ける決意です。

 

 

 

 

 

渡邊恒雄

一昨日、池上彰さんの〈夜間授業〉「“戦後”に挑んだ10人の日本人」に行ってきました。 第5回「渡邊恒雄」です。

池上さんが選んだ、「渡邊恒雄(ナベツネ)」も、やはり毀誉褒貶(きよほうへん)の人だと思います。

これまで、「ナベツネ」と聞くと余り良い印象がありません。 数年前に起きた清武の乱。渡邊会長のコーチ人事への不当介入を告発した、清武英利読売巨人軍球団社長を解任したことやプロ野球再編騒動の渦中、古田敦也選手会長が会談を求めていると聞き、『たかが選手が』と発言する等。そう思ってしまいます。

配布された「渡邊恒雄」年表によると、1945年(昭和20)東京帝国大学哲学科に入学。7月5日、陸軍2等兵として世田谷三宿の砲兵連隊に入営。終戦後復学し、12月日本共産党に入党。1947年(昭22年)9月、*氏家齋一郎、上田耕一郎、堤清二らとともに「東大新人会」を設立。党から分派活動と批判され、離党届を提出し除名処分となる。とあります。

1950年(昭25)読売新聞社に入社。週刊誌「読売ウイークリー」に配属。51年(昭26)「天皇像を描く」で局長賞。52年(昭27)「日本共産党山村工作隊の潜入ルポ」を執筆。本紙社会面に掲載され、政治部へ異動。

68年(昭43)政治部次長に就任。12月ワシントン支局長に就任。72年(昭47)帰国。編集局参与。75年(昭50)編集局次長兼政治部長。創価学会と日本共産党の「創共協定」をスクープ。78年(昭53)江川卓投手「空白の1日」事件処理に奔走。79年(昭54)取締役論説委員長に就任。83年(昭58)専務取締役論説委員長。85年(昭60)専務取締役・主筆兼論説委員長。87年(昭62)取締役副社長主筆・経理・調査研究担当。90年(平成2)代表取締役副社長主筆・調査研究担当。1991年(平3)読売新聞社第11代代表取締役社長・主筆。横綱審議委員会委員に就任。96年(平8)読売ジャイアンツ(巨人軍)オーナーに就任。

2002年(平成14)読売新聞グループを再編成。持ち株会社「読売新聞グループ本社」代表取締役社長・主筆。04年(平16)グループ本社代表取締役会長・主筆。08年(平20)旭日大授章受賞。14年(平26)巨人軍取締役最高顧問。16年(平28)グループ本社会長を退き、代表取締役・主筆に就任。

年表だけ見ると、出世街道を順調に歩んできたように見えます。実際には社内の派閥や権力闘争、そして政治家との関わりの等、いろいろな絡みの中で役職、役割を勝ち取り積み上げてきたことが分かります。

今でこそ発行部数日本一の「読売新聞」ですが、戦後30年位まで日本を代表する新聞は「朝日」と「毎日」でした。「読売」は、弱小新聞で、正力松太郎(元警察官僚・衆議院議員)迎え、発展の基礎を築きました。渡邊が入社した当時の社内は、「社会部王国」と言われるほどで、いわゆる「きったはった」の3面記事が得意な新聞でした。当然、「社会部にあらざれば、人にあらず」だったと思います。

そんな中、「政治部」で仕事をし、次々とスクープ(特ダネ)を取り実績を上げる程、「社会部」との摩擦も嫉妬も起こってきます。さらに「政治部」でも、それぞれの記者が自分が担当する政治家(派閥の長・親父)を首相にしたいと考えるので、政治部内での対立が生まれます。

1968年(昭43)12月、ワシントン支局長に就任しています。「外信部」ワシントン支局長は花形のポストで栄転と見えますが実際は、佐藤・反佐藤の社内抗争に敗れた結果の左遷でした。左遷された渡邊恒雄に近づく人はおらず、苦しい時を過ごしたようです。

政治記者としては、大野伴睦の信頼を得、盟友・中曽根康弘内閣実現のため田中角栄の支持を取り付けるなどに動いています。社内での地位が上がり、権力を持つにつれ保守派の論客として、読売新聞の政治的方向性をはっきりさせてきています。

1991年(平3)に代表取締役社長になり、94年(平6)に発行部数が1,000万部を突破しました。「憲法改正試案」を発表したのはこの年でした。安倍総理が、詳しくは「読売新聞を読んで」と言い、前文科省事務次官前川喜平氏が「出会い系バー」で女性と関係があった。との記事を一面に掲載しました。時の内閣と新聞との関係を考えるとよくないと思います。読売社内では、動揺が広がり転職をする方もいたと言います。

文章の達人であり、政治家との信頼関係を築き、スクープをものにする記者として、そして経営者として発行部数を伸ばし、政権への影響力を持つ「ナベツネ」ですが、彼が去った後の「読売新聞」はどうなって行くのでしょうか。

マスコミの3悪人と言われた、「朝日」の三浦甲子二(みうらきねじ)・「NHK」の島 桂二・そして「読売」の渡邊恒雄氏に共通するものと異なる所は何なのか、興味深いテーマです。

*「読売」を代表する二人、渡邊恒雄氏と長嶋茂雄氏の体調がかなり良くないと伺いました。厳しい状態のようです。

*氏家齋一郎(うじいえせいいちろう):渡邊の朋友で、元読売新聞常務・日本テレビ社長。上田耕一郎(うえだこういちろう):元日本共産党副委員長、元議長の不破哲三は実弟。堤清二(つつみせいじ):元セゾングループ(西武百貨店・西友ストア・パルコ・ファミリーマート・無印良品等)代表。作家、辻井喬(つじいたかし)は、ペンネーム。

*前文科省事務次官前川喜平氏の問題は、「週刊新潮」や他紙が事実関係を報道。政権側の「印象操作」に加担した「読売新聞」の責任が問われるとともに、イメージダウンに繋がることに。

 

「三訓の教え」

以前、橘曙覧(たちばなあけみ・たちばなのあけみ)について書いた時に、気になる言葉がありました。

「三訓の教え」です。

橘曙覧が子ども達に残した、『うそいうな ものほしがるな からだだわるな』という言葉です。 「だわる」は福井の方言で「なまけること」だそうです。

一言でいうと、『正直 知足 勤勉』です。『正直』は、約束を守りなさい・卑怯なことはしてはなりません。『知足』は、足るを知りなさい・欲望は身を滅ぼします。『勤勉』は、骨身を惜しまず働きなさい。という意味でしょう。

もう少し考えると、『正直』は、人に対しても自分に対しても、そうしなさい。『知足』は、身の程をわきまえ、生きなさい。『勤勉』は、容易な方へ流されず、より難しいことに挑みなさい。と言っているように思います。

橘曙覧(たちばなあけみ)については、*以前にも少し紹介しましたが、江戸末期の歌人・国学者で、越前(福井)の人です。

赤貧の中で詠んだ、「たのしみは朝おきいでて昨日(きのう)まで無かりし花の咲ける見る時」にもあるように、日常の生活全てを楽しみに変えてしまう「生き方」を通した人です。

また藩主松平慶永(春岳)の覚えも愛でたい人でしたが、春岳が出した使いに、「仕官」を辞退したと言います。

「三訓の教え」が子ども達に、「このように生きなさい。」と言っているのか「私はこのように生きて死んだ。」と言っているのか分かりませんが、本当に実践することは、当時でも今でも難しいことだと思います。

「そのようにありたい」と思い、願う、気持ちはあるのでしょうが貫きとおすことは至難です。今の時代、人から「食べ物」と「住まい」を取り上げたら、3日で乞食になると言います。橘曙覧が生きた時代の「貧困」がどのようなものか分かりませんが、「そのように生きた人々がいた」ことに、改めて人間の「強さ」を思います。

難しい「生き方」だからこそ、「三訓の教え」として残したのではないでしょうか。

*2018年7月28日のブログで、橘曙覧について紹介しています。

【10/7追記】:与えられた人生。「自分に正直に、多くを求めず、成長しなさい」ということだと思いますが、同時にどんな「生き方」をしようが、「自然」や「歴史」の中では、「とるに足らぬ」こと。権力や富・名誉そして、幸福も不幸も、「一瞬の夢」だと言っているようにも感じます。

 

 

オハツキイチョウ

先日、「銀杏」を頂きました。

秋の訪れを感じます。割って薄皮を剝くと緑の宝石のようです。

独特の味わいで、茶わん蒸しに入ると一味変わります。酒のつまみにもなりますが、一度に沢山食べない方が良いと聞きます。一回に2つ3つ食べれば十分です。

8月の終わりに植え替えたイチョウの木ですが、実生から育ったものです。ベランダに置いてありますが10年位は経っていると思います。鉢植えですのでそれ程は大きくありません。

これまで植え替えもせずにいたら、この夏の暑さで樹勢がなくなり上の方が枯れてきてしまいました。 何んとか元気を取り戻してほしいと、土を入れ替え水をあげていますが、まだどうなるか分かりません。

以前、山梨県身延町へ行ったときに上沢寺(だったと思います)のご住職から頂いた「銀杏」から生まれたものです。 身延町へは11月の終わりにイチョウの木を2本見に行きました。八木沢の「オハツキイチョウ」と下山の上沢寺(じょうたくじ)の「オハツキイチョウ」です。

八木沢へは甲府から身延線に乗り換え富士川沿いに走り、下部温泉で下りて行きました。雄の木で樹齢は300年、樹高25m、幹周3.0mです。対岸へはタクシーを利用しました。

上沢寺は富士川の対岸にある日蓮宗のお寺です。境内にある「オハツキイチョウ」は雌の木で、幹周6.8m、樹高38m、樹齢は700年。 花粉が富士川を渡り、受精して実を付けます。

我々が熱心に「オハツキイチョウ」を眺めていると住職が出てこられ、木を見ながらしばらく話をしました。帰る時に「銀杏」を沢山頂きました。境内には大きな桶(樽)で作った庵のようなものがありました。住職は、『この中でお経を読むこともある』というので、なぜかと伺うと『足る(樽)を知る』と答えました。

「オハツキイチョウ」はイチョウの変種で、葉の上に実を結ぶ珍しい木です。全国で20本位と言われていますが、身延町周辺に多く見られます。 ほとんどが、日蓮上人が植えたと伝えられており、日蓮宗のお寺です。

イチョウは生きている化石とも言われ、イチョウの仲間はイチョウしかいないようです。それ自体が珍しい木です。あの独特な葉っぱの形状は他には見られないと思います。見れば見るほど不思議な葉っぱです。11月中ごろから黄葉、一晩で全て落葉することもあります。 一緒に行った「樹木」の先生からは、『もともと日本には無い木で中国から伝わった。保水力が強いので、「防火と人集め」のために多くの神社仏閣が植えた』と聞きました。

確かに延焼を防ぎ、半分枯れた木が時々見られます。 火災の類焼を防ぎ、珍しい木で人を集める「一石二鳥」を狙ったようです。何時の時代も、人は珍しいものを見たがるようです。

いつになるか分かりませんが、我が家の「オハツキイチョウ」が実を結んだら、お見せしたいと思います。

*更新がⅠ日遅れました。申しわけありません。

9月議会が終わりました

昨日(9月21日)、9月定例会が終了しました。

9月議会は「決算議会」と言われるように、中心の議案は、「平成29年度決算」です。

「決算」の審議・審査の目的は、市民の税金が本当に必要な事業に効果的に使われたかどうかをチェックするためのものです。 事業の必要性・有効性・効果と課題等を検証し、その事業を継続(拡大・縮小)あるいは廃止、終了すべきかを検討するためのものです。

市の事業は全部で548事業(H29年度)ですが、委員会別にそれぞれの担当分を審査します。2日間の審査ですので、新たに始めたものや執行額の大きい事業を中心に行います。

9月Ⅰ日のブログでも触れましたが、現状は本来の目的を十分に果たしているとは言えません。新たに、「決算特別委員会」を設置し、数か月かけてしっかりと審査し、事業の継続(拡大・縮小)、実施主体・手段の変更、廃止・終了を提案できるようにすることが必要だと思います。

毎年、新規事業がスタートし事業数は増え続けますが、廃止・終了事業はほとんどありません。お金と人は無限にあるわけではありません。

昨日はまた、「一般質問」の最終日で最後が伊藤議員でした。●新庁舎での業務がスタートして●働き方改革に関連して●市長キャラバンについての質問でした。残り時間が2分を切った時、「市長キャラバンについて」の中で、『不適切発言』があったのでは、と休憩に入りました。

およそ2時間後、伊藤議員が「発言の取り消しとお詫び」をして再開されました。

次期市長選挙に再選を目指して立候補を表明(9月19日)した「中原市長」に対し、これまでの「市政運営」全般について厳しい指摘と提案をされたと思います。

本会議のライブ中継は終わっていますが、録画映像が数日後に配信されますのでご覧頂ければ有難いと思います。吉川市のホームページで「吉川市議会」の所から入って行くことが出来ます。

実際の「映像と言葉」を、皆様はどのように受け止め、どうお感じになられるでしょうか。

*伊藤議員の一般質問 9月21日(金)

*「市長キャラバン」及び「次年度への思い(市長選挙)」については、私も9月20日(木)に一般質問で行っております。合わせてご覧頂ければ幸いです。

*先程(9月27日夕刻に確認)、伊藤さんの録画映像がアップされました。

秋刀魚(さんま)

大型船(120~130t)でのサンマ漁が8月20日解禁になりました。

豊漁が伝えられ、いよいよ美味しいサンマが食べられると思っていたら、9月6日(木)3時08分、震度7の北海道胆振(いぶり)東部地震が起き、浜値が4倍にもなりました。

サンマ漁は8月~12月頃まで続きますが、9・10月がピークで、大型船の解禁に合わせて、全国から北海道の漁場へ向かいます。気仙沼や小名浜、銚子をはじめ西伊豆や富山の方からも行くようです。

今は根室から襟裳岬沖が主漁場ですが、震源に近い胆振・日高あたりも漁場です。その後サンマは北海道から南下をはじめ、漁場も三陸沖(金華山)、千葉県銚子、和歌山県熊野へと移ります。

春から北上をはじめて、秋には南下します。行も帰りもプランクトンを食べながら大きくなっていきます。相当前ですが、春に北上するサンマの群れが東京湾から隅田川に迷い込んだことがありました。食べた人は、「パサパサで美味しくなかった」と言っていました。やはりサンマは秋です。脂ののった塩焼きは本当に美味しいと思います。

サンマ漁は江戸時代初期、紀州・熊野で獲ったのが始まりと言われています。三重県志摩半島から熊野灘一帯です。和歌山県新宮市の名物に「サンマ寿司」がありますが、奈良県十津川村でも昔から食べられていますので、その頃からの食べ方の一つだと思います。伊豆下田にも、「サンマ寿司」がありますが起源は知りません。

*「サンマ棒受け網漁」が始まって80年近く経ちます。現在は中型船(40トン以下)が中心ですが、かつては小型船(10~20t)での沿岸漁業だったと思います。最近は、韓国・台湾・中国などが大型船で大量にとって行きます。

*「サンマ棒受け網漁」: 夜間、船の右側の集魚灯・誘導灯を点け魚群をおびき寄せます。その間、左側で網を敷く。準備が出来たら右側の集魚灯・誘導灯を後ろから順に消し、左側の集魚灯・誘導灯を前から点けてサンマを誘導。群れがまとまったら、網を一気に手繰り寄せて獲ります。氷を混ぜながら魚倉に入れます。入り切れないサンマは海へ返します。

今年、小型船(10~20t)の解禁は8月10日でした。個人や少人数でやっている零細漁業者を守るため、一番最初に漁が出来るようにしています。当然、収穫量も少なく走りですので高価格となります。

以前勤めていた店で生鮮食品(肉・魚・野菜)を担当したことはありませんが、テナントの「鮮魚店」は毎日覗いていました。 最初、一尾1500~1800円。少し経つと1200~1000円。そして800円・700円・500円と下がって行きました。

最盛期、スーパーでは100円以下で売られることもありましたが、その時でも300円位していたと思います。当時、 一尾1500円とか1000円でも購入されるお客様がいました。やはり、本当に食べたい人にとってはそれだけの価値があると考えているのだと思います。

近い将来、サンマが取れなくなって高級魚「サンマ」1000円、1500円の時代か来るかも知れません。

「サンマの手づかみ漁」というのがあります。以前NHKテレビで紹介されたことがあります。

江戸時代から伝わる方法ですが、漂流物に卵を産み付ける習性(春・秋)を利用したもので す。

小舟の横に、海藻・米俵・むしろ・すのこ等を海面に浮かべ、集まったサンマを手づかみ(時には手網)する漁獲方法です。佐渡沖で「むしろ」を浮かべてやっている姿を映していました。今も続いているのかは分かりません。

サンマが枯渇し取れなくなった時、大型船・中型船での操業は採算面から出来なくなります。その時、どうしても食べたい人のために「サンマの手づかみ漁」が復活するかも知れません。

一体、一尾いくらになるのでしょうか。