渡邊恒雄

一昨日、池上彰さんの〈夜間授業〉「“戦後”に挑んだ10人の日本人」に行ってきました。 第5回「渡邊恒雄」です。

池上さんが選んだ、「渡邊恒雄(ナベツネ)」も、やはり毀誉褒貶(きよほうへん)の人だと思います。

これまで、「ナベツネ」と聞くと余り良い印象がありません。 数年前に起きた清武の乱。渡邊会長のコーチ人事への不当介入を告発した、清武英利読売巨人軍球団社長を解任したことやプロ野球再編騒動の渦中、古田敦也選手会長が会談を求めていると聞き、『たかが選手が』と発言する等。そう思ってしまいます。

配布された「渡邊恒雄」年表によると、1945年(昭和20)東京帝国大学哲学科に入学。7月5日、陸軍2等兵として世田谷三宿の砲兵連隊に入営。終戦後復学し、12月日本共産党に入党。1947年(昭22年)9月、*氏家齋一郎、上田耕一郎、堤清二らとともに「東大新人会」を設立。党から分派活動と批判され、離党届を提出し除名処分となる。とあります。

1950年(昭25)読売新聞社に入社。週刊誌「読売ウイークリー」に配属。51年(昭26)「天皇像を描く」で局長賞。52年(昭27)「日本共産党山村工作隊の潜入ルポ」を執筆。本紙社会面に掲載され、政治部へ異動。

68年(昭43)政治部次長に就任。12月ワシントン支局長に就任。72年(昭47)帰国。編集局参与。75年(昭50)編集局次長兼政治部長。創価学会と日本共産党の「創共協定」をスクープ。78年(昭53)江川卓投手「空白の1日」事件処理に奔走。79年(昭54)取締役論説委員長に就任。83年(昭58)専務取締役論説委員長。85年(昭60)専務取締役・主筆兼論説委員長。87年(昭62)取締役副社長主筆・経理・調査研究担当。90年(平成2)代表取締役副社長主筆・調査研究担当。1991年(平3)読売新聞社第11代代表取締役社長・主筆。横綱審議委員会委員に就任。96年(平8)読売ジャイアンツ(巨人軍)オーナーに就任。

2002年(平成14)読売新聞グループを再編成。持ち株会社「読売新聞グループ本社」代表取締役社長・主筆。04年(平16)グループ本社代表取締役会長・主筆。08年(平20)旭日大授章受賞。14年(平26)巨人軍取締役最高顧問。16年(平28)グループ本社会長を退き、代表取締役・主筆に就任。

年表だけ見ると、出世街道を順調に歩んできたように見えます。実際には社内の派閥や権力闘争、そして政治家との関わりの等、いろいろな絡みの中で役職、役割を勝ち取り積み上げてきたことが分かります。

今でこそ発行部数日本一の「読売新聞」ですが、戦後30年位まで日本を代表する新聞は「朝日」と「毎日」でした。「読売」は、弱小新聞で、正力松太郎(元警察官僚・衆議院議員)迎え、発展の基礎を築きました。渡邊が入社した当時の社内は、「社会部王国」と言われるほどで、いわゆる「きったはった」の3面記事が得意な新聞でした。当然、「社会部にあらざれば、人にあらず」だったと思います。

そんな中、「政治部」で仕事をし、次々とスクープ(特ダネ)を取り実績を上げる程、「社会部」との摩擦も嫉妬も起こってきます。さらに「政治部」でも、それぞれの記者が自分が担当する政治家(派閥の長・親父)を首相にしたいと考えるので、政治部内での対立が生まれます。

1968年(昭43)12月、ワシントン支局長に就任しています。「外信部」ワシントン支局長は花形のポストで栄転と見えますが実際は、佐藤・反佐藤の社内抗争に敗れた結果の左遷でした。左遷された渡邊恒雄に近づく人はおらず、苦しい時を過ごしたようです。

政治記者としては、大野伴睦の信頼を得、盟友・中曽根康弘内閣実現のため田中角栄の支持を取り付けるなどに動いています。社内での地位が上がり、権力を持つにつれ保守派の論客として、読売新聞の政治的方向性をはっきりさせてきています。

1991年(平3)に代表取締役社長になり、94年(平6)に発行部数が1,000万部を突破しました。「憲法改正試案」を発表したのはこの年でした。安倍総理が、詳しくは「読売新聞を読んで」と言い、前文科省事務次官前川喜平氏が「出会い系バー」で女性と関係があった。との記事を一面に掲載しました。時の内閣と新聞との関係を考えるとよくないと思います。読売社内では、動揺が広がり転職をする方もいたと言います。

文章の達人であり、政治家との信頼関係を築き、スクープをものにする記者として、そして経営者として発行部数を伸ばし、政権への影響力を持つ「ナベツネ」ですが、彼が去った後の「読売新聞」はどうなって行くのでしょうか。

マスコミの3悪人と言われた、「朝日」の三浦甲子二(みうらきねじ)・「NHK」の島 桂二・そして「読売」の渡邊恒雄氏に共通するものと異なる所は何なのか、興味深いテーマです。

*「読売」を代表する二人、渡邊恒雄氏と長嶋茂雄氏の体調がかなり良くないと伺いました。厳しい状態のようです。

*氏家齋一郎(うじいえせいいちろう):渡邊の朋友で、元読売新聞常務、日本テレビ社長。上田耕一郎(うえだこういちろう):元日本共産党副委員長、元議長の不破哲三は実弟。堤清二(つつみせいじ):元セゾングループ(西武百貨店・西友ストア・パルコ・ファミリーマート・無印良品等)代表。作家、辻井喬(つじいたかし)は、ペンネーム。

*前文科省事務次官前川喜平氏の問題は、「週刊新潮」や他紙が事実関係を報道。政権側の「印象操作」に加担した「読売新聞」の責任が問われるとともに、イメージダウンに繋がることに。

 

「三訓の教え」

以前、橘曙覧(たちばなあけみ・たちばなのあけみ)について書いた時に、気になる言葉がありました。

「三訓の教え」です。

橘曙覧が子ども達に残した、『うそいうな ものほしがるな からだだわるな』という言葉です。 「だわる」は福井の方言で「なまけること」だそうです。

一言でいうと、『正直 知足 勤勉』です。『正直』は、約束を守りなさい・卑怯なことはしてはなりません。『知足』は、足るを知りなさい・欲望は身を滅ぼします。『勤勉』は、骨身を惜しまず働きなさい。という意味でしょう。

もう少し考えると、『正直』は、人に対しても自分に対しても、そうしなさい。『知足』は、身の程をわきまえ、生きなさい。『勤勉』は、容易な方へ流されず、より難しいことに挑みなさい。と言っているように思います。

橘曙覧(たちばなあけみ)については、*以前にも少し紹介しましたが、江戸末期の歌人・国学者で、越前(福井)の人です。

赤貧の中で詠んだ、「たのしみは朝おきいでて昨日(きのう)まで無かりし花の咲ける見る時」にもあるように、日常の生活全てを楽しみに変えてしまう「生き方」を通した人です。

また藩主松平慶永(春岳)の覚えも愛でたい人でしたが、春岳が出した使いに、「仕官」を辞退したと言います。

「三訓の教え」が子ども達に、「このように生きなさい。」と言っているのか「私はこのように生きて死んだ。」と言っているのか分かりませんが、本当に実践することは、当時でも今でも難しいことだと思います。

「そのようにありたい」と思い、願う、気持ちはあるのでしょうが貫きとおすことは至難です。今の時代、人から「食べ物」と「住まい」を取り上げたら、3日で乞食になると言います。橘曙覧が生きた時代の「貧困」がどのようなものか分かりませんが、「そのように生きた人々がいた」ことに、改めて人間の「強さ」を思います。

難しい「生き方」だからこそ、「三訓の教え」として残したのではないでしょうか。

*2018年7月28日のブログで、橘曙覧について紹介しています。

【10/7追記】:与えられた人生。「自分に正直に、多くを求めず、成長しなさい」ということだと思いますが、同時にどんな「生き方」をしようが、「自然」や「歴史」の中では、「とるに足らぬ」こと。権力や富・名誉そして、幸福も不幸も、「一瞬の夢」だと言っているようにも感じます。

 

 

オハツキイチョウ

先日、「銀杏」を頂きました。

秋の訪れを感じます。割って薄皮を剝くと緑の宝石のようです。

独特の味わいで、茶わん蒸しに入ると一味変わります。酒のつまみにもなりますが、一度に沢山食べない方が良いと聞きます。一回に2つ3つ食べれば十分です。

8月の終わりに植え替えたイチョウの木ですが、実生から育ったものです。ベランダに置いてありますが10年位は経っていると思います。鉢植えですのでそれ程は大きくありません。

これまで植え替えもせずにいたら、この夏の暑さで樹勢がなくなり上の方が枯れてきてしまいました。 何んとか元気を取り戻してほしいと、土を入れ替え水をあげていますが、まだどうなるか分かりません。

以前、山梨県身延町へ行ったときに上沢寺(だったと思います)のご住職から頂いた「銀杏」から生まれたものです。 身延町へは11月の終わりにイチョウの木を2本見に行きました。八木沢の「オハツキイチョウ」と下山の上沢寺(じょうたくじ)の「オハツキイチョウ」です。

八木沢へは甲府から身延線に乗り換え富士川沿いに走り、下部温泉で下りて行きました。雄の木で樹齢は300年、樹高25m、幹周3.0mです。対岸へはタクシーを利用しました。

上沢寺は富士川の対岸にある日蓮宗のお寺です。境内にある「オハツキイチョウ」は雌の木で、幹周6.8m、樹高38m、樹齢は700年。 花粉が富士川を渡り、受精して実を付けます。

我々が熱心に「オハツキイチョウ」を眺めていると住職が出てこられ、木を見ながらしばらく話をしました。帰る時に「銀杏」を沢山頂きました。境内には大きな桶(樽)で作った庵のようなものがありました。住職は、『この中でお経を読むこともある』というので、なぜかと伺うと『足る(樽)を知る』と答えました。

「オハツキイチョウ」はイチョウの変種で、葉の上に実を結ぶ珍しい木です。全国で20本位と言われていますが、身延町周辺に多く見られます。 ほとんどが、日蓮上人が植えたと伝えられており、日蓮宗のお寺です。

イチョウは生きている化石とも言われ、イチョウの仲間はイチョウしかいないようです。それ自体が珍しい木です。あの独特な葉っぱの形状は他には見られないと思います。見れば見るほど不思議な葉っぱです。11月中ごろから黄葉、一晩で全て落葉することもあります。 一緒に行った「樹木」の先生からは、『もともと日本には無い木で中国から伝わった。保水力が強いので、「防火と人集め」のために多くの神社仏閣が植えた』と聞きました。

確かに延焼を防ぎ、半分枯れた木が時々見られます。 火災の類焼を防ぎ、珍しい木で人を集める「一石二鳥」を狙ったようです。何時の時代も、人は珍しいものを見たがるようです。

いつになるか分かりませんが、我が家の「オハツキイチョウ」が実を結んだら、お見せしたいと思います。

*更新がⅠ日遅れました。申しわけありません。

9月議会が終わりました

昨日(9月21日)、9月定例会が終了しました。

9月議会は「決算議会」と言われるように、中心の議案は、「平成29年度決算」です。

「決算」の審議・審査の目的は、市民の税金が本当に必要な事業に効果的に使われたかどうかをチェックするためのものです。 事業の必要性・有効性・効果と課題等を検証し、その事業を継続(拡大・縮小)あるいは廃止、終了すべきかを検討するためのものです。

市の事業は全部で548事業(H29年度)ですが、委員会別にそれぞれの担当分を審査します。2日間の審査ですので、新たに始めたものや執行額の大きい事業を中心に行います。

9月Ⅰ日のブログでも触れましたが、現状は本来の目的を十分に果たしているとは言えません。新たに、「決算特別委員会」を設置し、数か月かけてしっかりと審査し、事業の継続(拡大・縮小)、実施主体・手段の変更、廃止・終了を提案できるようにすることが必要だと思います。

毎年、新規事業がスタートし事業数は増え続けますが、廃止・終了事業はほとんどありません。お金と人は無限にあるわけではありません。

昨日はまた、「一般質問」の最終日で最後が伊藤議員でした。●新庁舎での業務がスタートして●働き方改革に関連して●市長キャラバンについての質問でした。残り時間が2分を切った時、「市長キャラバンについて」の中で、『不適切発言』があったのでは、と休憩に入りました。

およそ2時間後、伊藤議員が「発言の取り消しとお詫び」をして再開されました。

次期市長選挙に再選を目指して立候補を表明(9月19日)した「中原市長」に対し、これまでの「市政運営」全般について厳しい指摘と提案をされたと思います。

本会議のライブ中継は終わっていますが、録画映像が数日後に配信されますのでご覧頂ければ有難いと思います。吉川市のホームページで「吉川市議会」の所から入って行くことが出来ます。

実際の「映像と言葉」を、皆様はどのように受け止め、どうお感じになられるでしょうか。

*伊藤議員の一般質問 9月21日(金)

*「市長キャラバン」及び「次年度への思い(市長選挙)」については、私も9月20日(木)に一般質問で行っております。合わせてご覧頂ければ幸いです。

*先程(9月27日夕刻に確認)、伊藤さんの録画映像がアップされました。

秋刀魚(さんま)

大型船(120~130t)でのサンマ漁が8月20日解禁になりました。

豊漁が伝えられ、いよいよ美味しいサンマが食べられると思っていたら、9月6日(木)3時08分、震度7の北海道胆振(いぶり)東部地震が起き、浜値が4倍にもなりました。

サンマ漁は8月~12月頃まで続きますが、9・10月がピークで、大型船の解禁に合わせて、全国から北海道の漁場へ向かいます。気仙沼や小名浜、銚子をはじめ西伊豆や富山の方からも行くようです。

今は根室から襟裳岬沖が主漁場ですが、震源に近い胆振・日高あたりも漁場です。その後サンマは北海道から南下をはじめ、漁場も三陸沖(金華山)、千葉県銚子、和歌山県熊野へと移ります。

春から北上をはじめて、秋には南下します。行も帰りもプランクトンを食べながら大きくなっていきます。相当前ですが、春に北上するサンマの群れが東京湾から隅田川に迷い込んだことがありました。食べた人は、「パサパサで美味しくなかった」と言っていました。やはりサンマは秋です。脂ののった塩焼きは本当に美味しいと思います。

サンマ漁は江戸時代初期、紀州・熊野で獲ったのが始まりと言われています。三重県志摩半島から熊野灘一帯です。和歌山県新宮市の名物に「サンマ寿司」がありますが、奈良県十津川村でも昔から食べられていますので、その頃からの食べ方の一つだと思います。伊豆下田にも、「サンマ寿司」がありますが起源は知りません。

*「サンマ棒受け網漁」が始まって80年近く経ちます。現在は中型船(40トン以下)が中心ですが、かつては小型船(10~20t)での沿岸漁業だったと思います。最近は、韓国・台湾・中国などが大型船で大量にとって行きます。

*「サンマ棒受け網漁」: 夜間、船の右側の集魚灯・誘導灯を点け魚群をおびき寄せます。その間、左側で網を敷く。準備が出来たら右側の集魚灯・誘導灯を後ろから順に消し、左側の集魚灯・誘導灯を前から点けてサンマを誘導。群れがまとまったら、網を一気に手繰り寄せて獲ります。氷を混ぜながら魚倉に入れます。入り切れないサンマは海へ返します。

今年、小型船(10~20t)の解禁は8月10日でした。個人や少人数でやっている零細漁業者を守るため、一番最初に漁が出来るようにしています。当然、収穫量も少なく走りですので高価格となります。

以前勤めていた店で生鮮食品(肉・魚・野菜)を担当したことはありませんが、テナントの「鮮魚店」は毎日覗いていました。 最初、一尾1500~1800円。少し経つと1200~1000円。そして800円・700円・500円と下がって行きました。

最盛期、スーパーでは100円以下で売られることもありましたが、その時でも300円位していたと思います。当時、 一尾1500円とか1000円でも購入されるお客様がいました。やはり、本当に食べたい人にとってはそれだけの価値があると考えているのだと思います。

近い将来、サンマが取れなくなって高級魚「サンマ」1000円、1500円の時代か来るかも知れません。

「サンマの手づかみ漁」というのがあります。以前NHKテレビで紹介されたことがあります。

江戸時代から伝わる方法ですが、漂流物に卵を産み付ける習性(春・秋)を利用したもので す。

小舟の横に、海藻・米俵・むしろ・すのこ等を海面に浮かべ、集まったサンマを手づかみ(時には手網)する漁獲方法です。佐渡沖で「むしろ」を浮かべてやっている姿を映していました。今も続いているのかは分かりません。

サンマが枯渇し取れなくなった時、大型船・中型船での操業は採算面から出来なくなります。その時、どうしても食べたい人のために「サンマの手づかみ漁」が復活するかも知れません。

一体、一尾いくらになるのでしょうか。

災害と備え

「天災は忘れた頃にやってくる」と言われていましたが、最近は忘れる前に次々と起こります。

台風21号による大きな被害が近畿地方を中心にもたらされ、まだ復旧のさ中、今度は「北海道」で震度7の大地震です。

道内すべての電力がダウン。鉄道、空路もストップ、スーパー・コンビニは営業できず、工場の操業も停止。酪農、農業、漁業も。家の電気もつかず、「すすきの」の街も真っ暗となりました。

「市民生活」への影響はもとより、北海道の産業、経済が受けるダメージは大きいと思います。秋は、農業、漁業、観光等、北海道にとって大切な季節です。出来るだけ影響が少ないようにと、祈るばかりです。

今年は、1月に白根山が噴火。4月に震度5強の島根県西部地震。6月は震度6弱大阪北部地震。梅雨明け(6/29)前から異常気象の猛暑が続き、7月は豪雨となり、逆走した変な台風も来ました。そして、北海道胆振(いぶり)東部地震です。

地震後の山崩れや地滑り。空から撮影された写真や動画、テレビに映し出される光景は時間を追うごとに、被害を受けた人々の様子を生々しく伝えています。 倒壊した家の中に残る近親者の「無事」を願い必死に叫ぶ姿や、土砂に向かって『早く見つけてほしい』と祈る姿から、悲しみが伝わってきます。 心配と不安の中で憔悴した方々に、掛ける言葉もありません。

「首都直下型」「東海」大地震もいつ起きるか分かりません。いつ起きても、不思議ではありません。日本列島に、ここは安全という所はないと思います。

時や場所、私たちの生活、政治、経済の状況に関わりなく、「災害」は起こります。

多くの人はこの先、地震・津波・水害そして事故等に『遭うことがあるかも知れない』と考えてはいますが、『自分は大丈夫だろう』『何とかなる』と思っているのではないでしょうか。私もその一人です。

人は日々の生活の中で常に、「災害」を意識して生きている訳ではありません。

「水・食料・燃料・トイレ(便袋)等」の備蓄はしていますが、「電気・水道・ガス・水洗トイレ」を使わない1日を実践していません。やはり、年に一日でも「インフラ」が止まった時の生活を実体験しなければと思います。

25年程前、マンションの電気室が水没し数日間、「電気・水道・ガス・水洗トイレ」の使えない生活をしたことがあります。 快適なマンション生活は、最悪の生活になりました。

11階まで階段を使い、20リットルの水を運び、1階に設置した仮設トイレを利用。お風呂は駅前の温泉に行きました。夜、懐中電灯やローソクの下で何かを食べたように思います。時間とともに、いつの間にか忘れて行ったようです。

今日は私の住んでいるマンションの「防災訓練」の日でした。 「安否確認訓練」と防災講話「災害に強いまちづくり(水害対策)」に参加し、「あの日」を思い出しました。

選択と集中

台風の影響で無残な姿になった朝顔(ベランダの鉢植え)が、1週間ぶりに花をつけました。

最盛期の大きさの四分の一位になって、ミニ朝顔のようです。ツルの下の方を見ると「種」が出来ています。役割を果たし、次の準備をしています。やはり季節の変わり目ですね。

昨日(8/31)から9月議会が始まりました。会期は9月21日(金)までの22日間で、29年度の「決算」の審議・審査が中心です。

市が実施している事業は500~600あると思いますが、それぞれの事業について「成果と課題」を明らかにした上で今後の進め方を検討するためのものです。 継続(拡大・修正・縮小)するのか、止めるのかを判断するためには、多角的な視点としっかりとした検証が必要とされます。

委員会での審査は、主に新たな取り組み(29年度に始まった)や各委員の関心の高い事業についての質疑が中心です。「主要政策成果表」を基準にした答弁となりますが、なかなか今後の方針や進め方を議論するところまでは行っていないのが現状です。

そろそろ「決算特別委員会」を設け、「成果と課題」を検証した上で『改善(実施主体・手段)』や『縮小・廃止・休止』等を議会として提案すべき時期だと思います。手間ひまかかることですが、議会が本来すべき仕事です。

「主要政策成果表」の最後に今後の方針が記載されていますが、ほとんど『現状のまま継続』となっています。所管部署が行う事務事業評価ですので、当然と言えば当然です。継続的にやらなければならない仕事が多くあることも事実ですが、そのやり方(実施主体・手段)については『改善』の余地があると思います。

言葉だけの「選択と集中」としないためにも、やらなければと考えています。

吉川市が出した「事務事業評価」のとりまとめ結果(8/31配布)によれば、2次評価での今後の方針は548事業中、『現状のまま継続』457本83.4%。『改善のうえで継続』73本13.3%。他の事業に統合8本1.5%。廃止・休止2本0.4%。終了・完了8本1.5%となっています。

 

 

 

全国政策研究集会

昨夜、沼津で開かれていた「第10回全国政策研究集会」から戻ってきました。

武蔵野線の車内から見た「月」がきれいでした。まわりの星も輝いていました。しばらく見とれているうちに吉川へ着きました。

数日前から我が家の居間で寝ながら見ていましたが、昨日は「満月」でした。 いにしえの時代から世界中の人が「月」に魅了されてきましたが、やはり「月」はきれいだと思います。

沼津の街は久しぶりです。四半世紀以上経っていると思います。 駅前ロータリーの雰囲気も変わっていました。新しいビルやホテルが増えたように思います。

私が在籍していた時に沼津店は閉店しましたが、店には棚卸しの応援で数回行きました。棚卸が適正に行われているかどうかを確認する仕事です。大型店では棚卸そのものを手伝うこともありましたが、ローカルの中・小店では検査が主でした。

前日から現地に入り、店の各フロアーを回って棚卸準備状況を確認したり、町やお客様のことを聞いたりしていました。 夜は、店長やスタッフと一緒に飲むこともありました。 沼津に限らずいろいろな所へ行きましたが、そこの土地の美味しいものを肴に、店のメンバーと一緒に一杯やるのが楽しみでもありました。

翌日はお互いに、真面目に棚卸業務に励みました。

「全国政策研究集会」へは5年前から参加しています。今回は、『富士山のもとで、地方自治体の未来を考える~憲法・国民投票・地方自治』がテーマです。

8月24日(金)12:50分~主催者の上原公子(元国立市長)と沼津市長(賴重秀一)挨拶、13:10~13:50特別講演「静岡県から地方自治を考える(川勝平太静岡県知事)」、14:00~16:00基調講演「日本一わかりやすい憲法のはなし(大阪国際大学准教授・全日本おばちゃん党代表代行)」、16:15~18:15分科会1-1国民投票と地方自治、1-2憲法・地方自治・議員のめざす姿、1-3地域からのエネルギーシフト!再生可能エネルギーへ。18:45からは交流会でした。分科会は1-2を選びました。

8月25日(土)9:30~分科会2-1「個として繋がり合い、支え合って行ける社会づくり」若者・生活困窮者支援、2-2「自転車×まちづくり」新たな次元の社会政策を考える、2-3超巨大プロジェクト「リニア中央新幹線」が日本を破壊する?!11:50~全体報告と閉会式で12:20分頃に終わりました。分科会は2-1を選択。12:40~はオプショナルツアーへ参加。ツアーは、①「川の流れ」を活かしたまちづくり ②「文化財保護と開発」 ③沼津市のサイクルツーリズムを体験する。 ④「浜岡原発の視察」は8月23日(木)に実施。私は③のサイクルツーリズムの体験に参加しました。

今回の研修で良かったのは、川勝知事の講演と若者・生活困窮者支援そしてサイクルツーリズムの体験ツアーでした。

川勝知事のお話しは初めて伺いました。地方分権については、首都機能を那須野が原へ移し日本を「四洲」に再編、東京一極時代と決別する。憲法9条に「防災と富士山」を規定する、というもの。首都機能の移転や道州制の問題は以前から議論・提案されていることですが、憲法9条に「防災と富士山」を規定するというのは大胆な発想です。またその根拠について、学者らしい?説明をされる姿にオモシロイ方だと思いました。

若者・生活困窮者支援では、静岡県立大学教授津富宏さんのお話しが印象的でした。元少年院の教官だったそうですが現在、NPO法人青少年就労支援ネットワーク静岡の代表でもあります。実践活動家と研究者としての目を通じ、問題の本質を考え、見極め、取り組みをしているように感じました。犯罪学を勉強していたそうですが、人間に対する理解が深い方だと思います。

沼津市のサイクルツーリズム体験では、海岸線を実際に走ってきました。

沼津市では、2020年東京オリンピック自転車競技の一部会場が伊豆市になることを契機に「海越しの富士山が見える日本有数の景観」等の魅力を発信し、沼津・伊豆エリアをサイクリストが選ぶ、日本一・世界一のサイクリストフレンドリーエリアに育てる「創造プロジェクト」を平成28年度からスタートしています。今年3年目ですが、伊豆市・伊豆の国市・函南町とも連携しています。

サイクルステーション、道路状況、見どころ、休憩・買い物ポイント等、これまでの整備事業も確認しながら海岸線を2時間の行程で走りました。車道を一般の車と一緒に走ることで、いろいろな事が分ります。トンネル内の走行は結構怖い感じです。観光スポットでは、横断歩道を渡る団体客やバス・マイカーにも注意が必要でした。

スタート(ゴール)のサイクルステーションは廃校になった小学校でした。ここで、一般道を走る際の注意やツアーコース説明を受け、終了後にはこれまでの取り組み・事業内容、これからの計画等について質疑応答。また、感想等を話し合いました。

私が最も驚いたことは、この「創造プロジェクト」が庁内の組織を横断的に人選したチームだという事でした。リーダーは、産業振興部長、スポーツ交流推進室長ですが他は「地域おこし協力隊(ボランティア)」として参加している職員です。所属部署での仕事をしながら、このプロジェクトに参加しています。

今回のツアーで、「地域おこし協力隊」の職員(10人位はいらした)にお世話になりましたが、皆さんとてもいい顔をされていました。

やはり、「やりたい仕事」をしているからでしょうか。

 

*「自転車×まちづくり」の講師は小林成基さんですが、7月11日に地方政治改革ネットの勉強会に来て頂き「自転車活用推進法」をテーマに、また2月1日の政策研究会(衆議院議員会館)で国交省の担当者と小林さんのお話は伺っていますので、分科会は「若者・生活困窮者支援」、オプショナルツアーを「サイクルツーリズム体験」にしました。

 

 

 

夏の終わりに

昨日・今日と、「涼しい朝」を迎えています。

昨夜、アルミサッシのドアを少し開けて寝ていましたが、4時半頃「冷たい風」で目が覚めました。

湿度が低いので余計に涼しく感じます。 家の中の気温は28℃です。 一気に「秋」の装いですが、まだまだ残暑は続きそうです。

ここ数日、「アイスノン」と魚屋さんでもらった「蓄冷剤」を2段重ねにして、「枕」にしています。今朝は下の「蓄冷剤」はまだ解けていませんでした。

ようやく「沸騰」していた頭が落ち着いてきました。 8月はヒロシマ、ナガサキ、終戦記念日そして旧盆と考えさせられることが続き、加えて市のことや議会のことを考えると頭が一杯になってしまいます。

8月12日(日)、6月議会報告(7/12発行)のポスティングがやっと終わりました。例年は7月中には終わりますが、今年は8月へ入ってしまいました。

厳しい暑さもあり、配布は早朝と夕方以降に集中しましたが、3日程お昼過ぎまでやりました。経験した事のない暑さでした。

そして13日(月)からは、家の「片づけ」とこの10年余の書類や資料の「整理」をしていました。「片づけ」はエアコン設置のためです。28年間続けてきたエアコンのない『生活』が終わります。

先程まで書類整理をやっていましたが、おおよそ片付いてきましたのでこれから「夏休み」に入ります。 まず、ベランダにある「いちょう」の鉢植えの土を入れ替えます。明日は山へ行きたいと思います。今年初めてなので、奥多摩の初心者コース「高水三山」がいいと思います。

来週からは9月議会の準備に入ります。

21日(火)に議案書を頂き、22・23・28日が勉強会。24・25日は「全国政策研究会」で沼津へ行きます。27日は議運。30日は千葉県「白井市」へ行政視察に伺います。そして31日(金)から「9月議会」が始まります。

*追記(8/23): 次回のブログアップは、8月26(日)になります。24・25日開催の「全国政策研究会(自治体議員政策情報センター・虹とみどり)」へ参加のため。

辞世の句

「散る桜 残る桜も 散る桜」、良寛の辞世の句と言われています。

古くから「桜」の木は日本中に見られ、身分に関わりなく親しまれてきた「花」だと思います。

「稲作」とも深い関わりがありました。 桜の「開花」は、種もみを苗代に撒く「種まき」や「田植え」の時期を知らせる役目を果たしていました。暦の上だけではなく、地中の温度や水温を桜の開花と結び付けて判断していたと考えられます。

早い春を迎えるのか遅い春になるのかは、その年によって異なります。 今でも各地に、『種まき桜』や『田植え桜』が見られるのはその名残です。

この句は、太平洋戦争の時、特攻隊員の遺書にも引用されました。桜の花が散る様子を当時、「いさぎよく」死ぬことを美徳とした日本人の「死生観」と一致すると考えたのかも知れません。

良寛は「生まれたからには死ぬ」という意味で詠んだようです。 また、死期の近い良寛がつぶやいたと言われる、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」は愛唱の句で、「思い残すことはない」「死ぬのも生きるのも運命」との考えを表したもので、「いさぎよく」死ぬ、という事ではなかったように思います。

義父は軍艦に乗っていました。

私が預かった海軍士官短剣は全長38㎝、刃渡りは19.5㎝のものです。戦後、刃をグラインダーで削り、切れない短剣にしています(少し縮んだように見えます)。

握る所に2か所、「桜の花びら」が付いています。 何十年ぶりで、手にしました。

*良寛和尚(曹洞宗僧侶): 江戸時代後期、越後の国出雲崎で名主兼神職の長男として生まれ、18歳の頃出家。円通寺(岡山県・倉敷)で12年修業の後、放浪の旅へ。40歳の頃越後へ戻り、粗末な草庵に住み、生命のある全ての自然と子どもを愛し、遊び、書を書き、托鉢で暮らす。多くの和歌(1300)・俳句(100)・漢詩(600)を残した。書の達人(号は大愚)。和歌では、【この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし】等。