望月衣塑子

望月衣塑子(もちづき いそこ)、東京新聞社会部記者。

森友・加計学園事件の取材チームの一員として取材しながら、官房長官会見で質問を続けている記者です。

時には、菅(すが)官房長官へ20回以上の質問を重ね、会見が長時間にもなることもあり、官邸の方々からは余りこころよく思われていない方です。
本質は、隠したい・聞かれたくない・話したくないことをしつこく質問されることが嫌で、目障りな存在だからだと思います。

政治部中心の記者クラブの中で、それまでの慣例にとらわれず突撃取材を繰り返すため、総理秘書官や官邸報道室から質問制限や妨害を受けてきました。

望月記者に対し、「取材する側」からも批判があります。仲間内の約束ごとや空気感を無視し、質問を通じ事実を追及する姿勢に、『一人だけ良いかっこをするな』『俺たちのムラを荒らすな』という雰囲気です。無視されたり、政権側に忖度して「自主規制」するように圧力を受けることもありました。

勿論その逆もあります。望月記者に続いて、さらに突っ込んで質問を重ねる他紙の記者もいます。

昨日(18日)の午後、おあしす 多目的ホールで望月衣塑子さんの講演会があり、行ってきました。9条の会@よしかわが主催で、2周年のつどい・記念講演で、チラシには、望月記者が見る『憲法9条とこの国の平和』とありました。

望月さんのお話しを聞くのは初めてです。細身の小柄な方で、2時間近く早口の高い声で全身を使ってのお話しでした。
これまで社会部記者として、首都圏の県警、東京地検特捜部を始め経済部、社会部遊軍(ゆうぐん)で、歯科医師会の闇献金疑惑や防衛省の武器輸出、詩織さんレイプ事件そして「モリ・かけ」等の取材を通しての思いです。

官邸重視、国会軽視が進む中、いろいろな疑惑の中心に『安倍首相』がいることや、トランプ大統領と進める日米軍一体化、米国製兵器の購入と武器輸出、辺野古埋め立て県民投票、入管法強行採決等の問題を通して、権力との向き合い方、国の将来とメディア・記者の役割について語りました。

その語り口は、東京生まれだそうですが、大阪のおばちゃん予備軍のような印象を持ちました。

個人的にいくつか聞いてみたいこともありましたが、質問時間の関係で伺えませんでした。望月さんの本を2冊(*新聞記者・武器輸出と日本企業)購入してきましたので、その中に書かれているかもしれません。

質問の一つは、菅官房長官に質問を続ける意味と心の持ちようについてです。いつも木で鼻をくくったような態度で、決まり文句を繰り返し、一方的にやりとりを遮断する菅手法です。それでも、めげずにやり続ける気持ちについてです。

「市議会」も同じです。やり続けなければ真実は見えず、続けることで変わって行くのだと思います。

*「新聞記者」は映画化され、6月28日(水)より上映されます。主演はシム・ウンギョンと松坂桃李です。

*遊軍でも仕事をしていたということですので、取材力は勿論、記事を書く能力も相当高いと思います。遊軍は、大きな事件や大事故・大災害時に応援に入るメンバーです。フットワークの良さと相手から信頼される人柄でなければ務まらない部署です。

*更新がⅠ日遅れました。申し訳ありません。

「10連休」の最後に

「10連休」の最後5月6日(月)、甲府へ行ってきました。
平成2年夏に引越しをしてきて以来、四半世紀、同じマンションで一緒に過ごした方の「お墓参り」です。
お彼岸に行くことが出来ず、この時期になりました。

入居された時は、国鉄を定年退職し関連の会社にお勤めされていたと思います。北葛飾郡吉川町で、深井町長の時代です。

初代の区長(自治会長)やっていただいたり、管理組合の役員等をお願いしました。310世帯のまとめ役でした。

区長として地域や町の会合に出席する際、いながきさんも「一緒に行って」と誘われ、私もついていきました。お互いに初めての土地で、新鮮で驚くことが沢山ありました。

しばらくして、「町長選挙」がありました。その時、我々も吉川の住民なので、『候補者がどんな「まちづくり」を考えているのかを聞きましょう』ということになり、二人で演説会を企画しました。

当時、ほとんどの入居者が子育て中の現役世代で、吉川は寝に帰ってくる所という感覚でした。しかし、子ども達にとっては吉川が「ふるさと」になる所ですので、私たちはもっと町への関心を持たなければいけない。という思いでした。

現職の深井町長と対立候補(齋藤さん)から直接その主張を聞き、その上でそれぞれの判断で「投票」してもらう機会になればよい。と考え実施しました。
演説会の案内には「吉川のことをもっと知ろう。座布団もって集合!」そんなチラシを配りました。

平成29年10月、その方はガンで亡くなりました。
私の「後援会長」でした。
ホスピスの病棟で、最後まで私の心配をして下さった方です。

旧田中家住宅

仕事が一段落しましたので、今日、旧田中家住宅と埼玉県立歴史と民俗の博物館へ行ってきました。

博物館(大宮公園下車)では、特別展「東国の地獄極楽」 ー地獄極楽をめぐる旅ー が開催されています。5月6日までですが、間に合いました。

旧田中家住宅は昨年10月20日、朝日新聞埼玉(東部)版に国の重要文化財に指定される見通しという記事が載り、気になっておりました。

川口市末広町にある旧田中家住宅は、県内唯一という木造煉瓦造り3階建ての洋館と、木造一部2階建ての寄せ棟屋根をのせた数寄屋造りの落ち着いた建物(和館)です。洋館は大正10年3月に起工、10月に上棟し12年に完成。和館は昭和9年1月起工、5月上棟です。

建てたのは4代目田中徳兵衛です。2代目徳兵衛が材木商と麦みその醸造を始め財を築きましたが、4代目徳兵衛がさらに家業を発展させ、巨額の富を築きあげたそうです(東京や千葉・新潟等に100万平方メートルの土地を所有)。4代目は家業の他に、埼玉味噌醸造組合理事長を始め県議会議員、貴族院多額納税者議員にも就任しました。

「田中徳兵衛」という名を初めて聞いたのは、30年位前です。丸井が初めて上野店で、「食品売り場」を開設するということで、その準備のため上野にいました。百貨店時代の職場が食品売り場(酒担当課長)でしたので、配属されたようです。

当時の「田中徳兵衛」さんの会社概要を見ると、BMWの正規ディーラーや自動車教習所等をやっていたので、オモシロイ会社だと思いました。さらに興味深く感じたのは、「味噌汁」を提供するお店をやっていることでした。確か、「みそーる」という名前だったと思います。

日本人にとって「味噌」は古くから使ってきた基礎調味料で、「醤油」も「味噌」から生まれました。日々の生活に欠かす事の出来ない代表的な発酵食品の一つで、健康食品です。

「みそーる」は必ず成功すると思っていましたが、うまく行かなかったようです。
時代が早すぎたのかも知れません。

今、やるとすれば美味しい「ごはんとみそ汁」を基本にして、美味しい「お漬物(糠漬け)、梅干し、海苔、たまご、豆腐、かつお節、醤油等」をチョイスする定食が良いと思います。多分、どこかでやっていると思いますが。

*【5月5日追記】 川口というと一昔前は、「キューポラのある町」で鋳物工場が沢山ありました。赤羽に住んでいた頃、時々川沿いの工場を外から見ていました。真っ赤な鉄が流れ出る様子を近くで見ることが出来ました。

江戸末期のころから味噌作りが行われていたようですが、この地区で味噌醸造業が発展したのは原料となる良質な麦が取れたことと、水質の良い豊富な水あったことです。そして世界一の大都市であった消費地「江戸」に近かったことです。また、芝川沿いにあったことで水運にも恵まれていました。明治・大正・昭和の時代、味噌醸造は発展し栄えてきました(10工場)が、戦後しだいに生産は減少し、昭和50年頃にはほとんど行われなくなりました。

*田中邸の設計監督技師は櫻井忍夫(さくらいしのぶ)です。京都東本願寺本堂を建築した宮大工の九代目伊藤平左衛門平作について建築法を修め、三菱合資・東京電気鉄道・東京倉庫を経て独立した建築家です。58歳の時に設計した小岩井農場本部事務所が現存しています。機会があれば、ぜひ見に行きたいと思います。

手紙

爽やかな朝です。
富士山の静かな佇まいに見とれてしまいます。手前の山並みもくっきりとその姿を現しています。新緑の季節。春爛漫ですが、富士山は白く輝いています。

昨日から、なにを書こうかと悩んでいました。
最初に思い浮かんだのは吉川の「花事情」。お花の紹介です。

先週から「3月議会報告」のチラシ(いとう・いながき)のポスティングを始めました。街を歩くと、あちらこちらでハナミズキや藤、やまぶき、牡丹等を目にします。先日は黄色い牡丹に出会いました。黄色い牡丹は初めて見ました。美しさに感激しました。

また小学校の授業参観にも行きました。吉川美南小と関小の子ども達と保護者の様子と違いについても、オモシロイと思いました。しかし、この4月に開園した保育園、「コビープリスクールよしかわみなみ」と吉川団地の「よしかわフラワー保育園」も興味深く見てきましたので、その様子を伝えてもよいのではと考えました。

文科省・厚労省の縦割り行政と関わりなく、現場ではその垣根がなくなっているのを目の当たりにしました。夫婦の働き方が大きく変わった中で、「保育に欠ける」という意味も内容も変わったように思います。保育所をみると現実の社会が見えます。

先々週は、21日に投開票が行われた「統一地方選挙」でした。勉強会仲間の応援に行きましたが、越谷市と白井(千葉県)で聞いた彼女・彼らの「言葉」について書こうと思いました。

「思い」を自分の「言葉」にして伝える事の大切さと、その効果についてです。心に触れる言葉は、相手に届くと感じました。

いろいろと考えているうちに、今朝を迎えました。

今、一番伝えたいことは、昨日の議会報告会で頂いた「手紙」についてです。
それは、スーパーマルサンの出店による騒音・悪臭被害で他市へ引越しをされた一家の娘さんからのものです。ご両親から直接頂きました。

手紙には、当時の騒音被害の深刻さが綴られています。
早朝から深夜まで続く騒音で苦しむ生活の中、健康を害し精神的・肉体的に疲れ果て、家族崩壊寸前の状況。そして行政の無理解と対応、職員の資質等について書かれています。
また、現在のおだやかな生活と私への感謝が述べられています。

一市民が、大きな事業者や行政を相手に主張し、要求を実現させることは大変なことです。

以前の静かな環境を取り戻すのは困難で、少しの改善すら簡単ではありません。戦いを挑むには、気力・体力だけでなくお金もかかります。
問題への対応で生活は一変。心配と不安はどんどん広がり、精神的重圧も大きくなり近所の人まで敵にすら見えてくる状況になります。

病気やケガいろいろな困りごとは、自分の身に起きて実際に体験しなければ本当に理解することは出来ません。痛い目に遭って初めて分かります。
多くの人にとって自分に関わりのない困りごとは、「他人ごと」です。

吉川市が道路法32条の解釈を誤り、マルサンに「道路占用許可」を下ろして5年が経過。市は3月に道路法24条に基づく「請願工事」を認め、実施させ、店舗と倉庫をつなぐ橋を使えるようにしました。これにより違法状態はなくなりました。

議員の役割、仕事の一つは、「困っている人を一人にしない」ことです。しっかりと話を聴き、想像力を働かせ「寄り添う」ことです。

お金は掛かりませんが問題によっては、長い「時間」と「気力」・「体力」が必要です。大変な経験ですが、勉強になります。世の中が見えてきます。

地獄極楽

友人から展示会図録を送っていただきました。
埼玉県立歴史と民俗の博物館で開かれている「特別展 東国の地獄極楽」の図録です。埼玉県を中心に東国で展開された「浄土信仰」に関する歴史と美術を紹介した展覧会で、仏教絵画や仏教彫刻、*聖教(しょうぎょう)等が納められています。

曼荼羅図に描かれた極楽の世界もよいのですが、やはり六道の世界の一つである「地獄」の八大地獄、十王地獄図等、地獄図を描いたものが興味深いと感じます。

常に死を意識せざるを得ない時代の中で、「死後はどうなるのか」は大きな関心事だったと思います。地獄を厭い、極楽の世界に行きたいと願う「浄土信仰」ですが、人々の切実な思いだからこそ、急速に広がったのではないでしょうか。

仏教における世界観は、輪廻、六道の世界です。
①天(天人)②人(人間)③修羅(戦いに明け暮れる)④畜生(人以外の動物。襲い襲われ、使役される)⑤餓鬼(飢餓から逃れることが出来ない)⑥地獄(地下で際限のない責め苦に遭い続ける)の6つに分かれた世界で、輪のように繋がっているそうです。

命のあるものは六道をめぐり、どの世界に生まれるかは生前の行い(悪行と善行)によって変わります。それを決定するのが、閻魔王をはじめとする十王です。

死んだ後の旅は、十王の裁きを受けてから始まります。

地獄の世界は、八つの地獄(八大地獄)に分かれ、罪の大きさで変わります。
一番軽い等活(とうかつ)は、殺生を犯した罪人が墜ちる所で、鬼に鉄棒などで痛めつけられ苦しみが続くことになっています。最も重いのは、阿鼻(あび)で、父母や僧侶を殺したものが行く地獄の最下層です。ここに墜ちるまで2000年かかり、責め苦が終わるまで、349京2413兆4400億年かかります。

5番目は大叫喚(だいきょうかん)で、ウソつきが墜ちる地獄です。酒にまつわる悪事をしたものが大釜で茹でられる(4番 叫喚)苦しみの10倍の苦しみを受けることになります。

地獄・極楽の曼荼羅や絵図は、よりよい世界に生まれ変わるためには、善行を積むことが極楽浄土へ繋がる道だと示しています。

浄土宗が広がって行った時代。人々の、「輪廻」や「善悪」についての思いはどのようなものだったのでしょうか。どのような「善行」を積んでいたのでしょうか。

*聖教(しょうぎょう): 釈迦の説いた教えやそれをしるした仏教の経典・書物

*「特別展 東国の地獄極楽」は5月6日まで。休館日は月曜日ですが、4月29・5月6日は開館。私も、GW中には行きたいと思っています。

*4月22日追記:人は一生の中で、「良いことも悪いこと」もして終わるものだと思います。生まれた時からの極悪人はいません。これまで私と関わった人達を見ても、善人も時には悪いことをします。その反対もあります。私もその一人です。閻魔様をはじめとする十王は、どんな基準で判決を下すのでしょうか。

入学式

4月8日(月)は中央中学校。翌9日(火)は吉川小学校の入学式に出席しました。

中央中へ入学した生徒は7クラス248名です。3月末まで三輪野江小学校校長の吉田豊彦先生が新任の校長です。
小・中学校間での教諭の異動は、教員免許(小学校・中学校教科)の関係で出来ませんが、校長はどちらの免許でも良いそうです。校長は授業をやらないのが、前提のようです。

吉川小は、3クラス76名の新1年生です。校長は、美南小から小山悟校長が異動されました。

小学校の入学式は、いつも新鮮です。

皆かわいらしく、男の子も女の子もオシャレをしてきます。座っている間、一人一人が豊かな表情で、その子らしさが見られます。たまに、変な顔をしたりオモシロイことをボソボソ言う子もいます。

両親がそろって出席されている方が多く、入場から退場まで我が子の様子を真剣に見守っています。

小学校の入学式は開式から閉式までおよそ30分程です。

「開式の言葉」に続き「国家斉唱」ですが、「君が代」を歌える子はまずいません。皆、戸惑っている感じです。

子ども達の緊張が続くのは大体15分です。時々立ってお辞儀をしたりしますが、15分位から「あくび」をし始め、足を「ブラブラ」させたりします。また、周りの子ども達の様子や私達の方を伺う子もいます。

20分を過ぎると、ウトウトする子が出てきます。昼食後の13時30分スタートですので、緊張と疲れで眠くなるようです。

校長先生の挨拶で多いのは、『早寝・早起き・朝ごはん』の勧めですが、小山校長は、『早寝・早起き・朝ごはん・朝うんち』と言いました。

以前から議会で、『うんち教育』を提唱している私にとって、いいご挨拶だと思いました。

人間にとって、「よい食品を食べ、良いうんちをする」ことは、生きて行く上で、最も基本的で大切な事だからです。

〈夜間授業〉第10回「天皇陛下と美智子さま」

池上彰さんの〈夜間授業〉「〝戦後〟に挑んだ10人の日本人」第10回「天皇陛下と美智子さま」へ行ってきました。

昨年の4月27日、第1回「田中角栄」から始まり、江副博正・小泉純一郎・中内功・渡邊恒雄・堤清二・村上世彰と堀江貴文・石原慎太郎・池田大作と創価学会そして最終回が「天皇陛下と美智子さま」です。

私は第2回江副博正さんからの出席ですので、9回目となります。
文藝春秋社と因縁のある田中角栄元総理が初回というのも、なかなかの選定ですが、天皇退位に伴う改元が4月Ⅰ日に発表される直前の3月28日に「天皇陛下と美智子さま」というのも、戦後を読み直す趣旨から相応しいと思います。

これまで選ばれた戦後日本を代表する人物は皆、既成の秩序や規制、タブーに挑んだ人達で、強烈な個性を持ち、功罪相半ばする「毀誉褒貶」の魅力的な人だと言えます。

今回のレジュメには、1「戦後に挑んだ」とはどういう意味か 2吹上御所での夜のお茶会 3「象徴」の意味を考え続けられた 4アメリカ女性の家庭教師がついた 5テニスコートの恋 6平民出身皇后への二度のバッシング 7被災者への慰問がバッシングを呼ぶ 8慰霊への旅 9朝鮮半島への思い 10退位への思い とあります。

年譜には、1933年(昭和8)皇太子さま誕生から2019年(平成31)2月の在位30周年記念式典まで、お二人の記事が書かれています。それらを見ると、改めて『そういうこともあった』と思うとともに、レジメの内容に繋がってきます。

1959年(昭和34)4月10日、ご成婚のパレードのテレビ中継がありました。

皇居二重橋から東宮仮御所まで、6頭立ての馬車で、お供の馬車と皇宮警察・警視庁の騎馬隊が長い隊列を組んでいたのが印象的でした。沿道には沢山の人が見ていました。
まだ白黒のテレビでしたが、青山通りをゆっくりと走る馬車に乗った皇太子ご夫妻の表情をテレビカメラがとらえていました。

「天皇陛下」はこれまで、『象徴』の意味、『象徴天皇』とは何か、を考え続け、具体的な行動で示してこられたのではないでしょうか。しかも、かなり過激かつ大胆な判断に基づく行動だと思います。美智子さまは、陛下のよき理解者としてささえてこられたと思います。

日本の歴史上初めて、一般人と結婚。生まれた子どもの世話は乳母でなく、自分の母乳で育て、一家が一緒に暮らす。夫と子どもの食事を自ら料理する。
世間では当たり前のことですが、皇室内の側近は震え上がりヒンシュクをかったことでした。宮内庁内部から週刊誌へリークされた記事も多くありました。

被災者への慰問や慰霊の旅も、江藤淳や渡辺昇一等、保守の論客からバッシングを受けました。
1991年の雲仙普賢岳噴火でお見舞いへ行ったとき、両陛下が床に膝をつき、被災者と言葉を交わしました。この事も批判を受けました。地上戦で大きな犠牲者が出た沖縄への慰霊の旅についても、『天皇の仕事は、国家と国民のためにお祈りをしていればよい。』と批判されました。

「深く傷ついた」そうです。しかし、やり続けています。深い思いがあると思います。その思いを理解し応援する美智子さまの存在があって、貫いて来られたように思います。

昭和天皇が米国人家庭教師を依頼したといいます。狂信的なキリスト教徒ではないこと、日本ズレしていないことを条件にしたそうです。

昭和天皇が「人間宣言」をされた1946年(昭和21)、アメリカ人の児童文学者エリザベス・ヴァイニング(ヴァイニング婦人)が家庭教師に招かれました。

その後帰国した婦人が著書の中で、『皇太子は全てにわたり「受身」であった。私は、貴方はどうされますか?と問うた』と書かれています。

右派からは「米国によって、ばい菌を付けられた」と言われましたが、ヴァイニング婦人の教育は、象徴天皇の意味を考える一歩、また美智子さまとの交際、プロポーズに繋がったのではないかと思います。

戦後の日本。
農耕民族としての長い歴史、伝統に対する考え方、暮らしは、急激に変わってきました。
自然に対する畏敬の念、地域や家族とのつながり、周りを思いやる心は薄れ、過去の過ち、忘れてはいけないことも忘れられつつあります。

改めてご成婚60年を振り返ると、美智子さまは戦後日本の民主化の象徴として、「象徴天皇」とともに、皇室の果たす新たな役割を担ってこられたと思います。

*【4月8日追記】ご成婚の翌年(1960年・昭和35)2月23日、宮内庁病院で第一子浩宮徳仁親王(現皇太子殿下)誕生。出産後4日目から授乳を始められました。その時、詠まれた歌です。

含む乳の真白きにごり溢れいづ子の紅の唇生きて

(ふふむちの ましろきにごり あふれいづ このくれなゐの くちびるいきて)

*〈夜間授業〉については第2回以降(第4回中内功を除く)、ブログで取りあげましたので、ご参照頂ければ幸いです。

卒業証書授与式2

3月25日(月)、吉川小学校の卒業証書授与式に出席しました。
今年の卒業生は103名。3クラスで男子48女子55名です。

開校は明治6年6月20日。延命寺を仮校舎として芳川小学校と名付けられましたがその後、各地域の学校を合一し芳川尋常小学校となりました。埼玉県の小学校では初めて「校歌」が制定されています。

これまでの卒業生数は正確には分かりません。途中から卒業証書に番号を入れたようです。今年、卒業証書の最後の番号は14,942号です。実数はおそらく16,000は超えていると思います。

現在の校長は、第38代目です。

卒業生のクラス名簿には、一人一人名前と将来の夢・中学校で頑張りたいことが書かれています。名前を見ただけでは、男女の区別はつきません。男女ともに同じ漢字で同じ読み方があります。

将来の夢は、主に就きたい仕事が書かれています。
サッカー選手・大工・検察官・一級建築士・獣医師・ハンドボール選手。化学研究者・幼稚園の先生・プロダンサー・ゲームクリエイター・医師・ミュージカル女優・小説家・保育士・プロ野球選手・特別高度救助隊・美容師・弁護士・歯科衛生士・自転車競技・新薬研究科学者・パティシエ・水泳選手・発展途上国で困っている人を助ける仕事等さまざまで、「時代」と「現実」を反映しているように思います。

卒業生の多くは、中学校の制服を着用しています。吉川市立の南中学41名、中央中55名、東中へ1名が進みます。私立中学は5名、その他1名です。

市立中学校へ進学する児童(中学では生徒)は、それぞれ各校の制服を着用しています。女児は、上着は同じですが、スカートは自分の気に入ったものをはいているようです。少しオシャレをしています。私立は勿論その学校の制服です。

女性教諭(担任)は、以前から袴での出席が多く見られましたが、最近話題になっている女児の袴姿が増えたように思います。女子55名中12人、男子は1名おりました。今後、増えると思います。

校長式辞の中で、今年定年を迎える校長が「最後の授業」をしました。
漢字の授業でした。

怒・悲・悪、 喜・善、 兆(逃・挑) そして 難(苦難・困難・災難と無難・有難い) という漢字を使って、生きていく上での注意や指針に繋がる話でした。

一つ紹介すると、
『これからの人生、辛いことがあるだろう。その時は、逃げてもいい。やがて立ち止まる。その後、挑戦する。』

面白い授業でした。

*全て説明するとつまらないので、校長がこれらの漢字を使って、なにを言ったのかをお考えください。

*第38代蔦森邦雄校長は昨年の入学式で「絵」を使い、学校と自宅での生活について説明し、守るべきお約束を1年生としました。着任してから毎年続けていたと思います。吉川交番前の横断歩道では、旗を持って通学班の安全指導も毎日続けておりました。ありがとうございます。

「一般質問」

3月定例会が3月20日(水)に閉会しました。
最後の3日間が「一般質問」です。議員が市長や担当部長と直接やり合う場で、今回は16人が質問に立ちました。

それぞれの議員にとって、「気がかり」な事業や政策について、「こうあるべき」・「ここが問題」ではと指摘し、要望、提案を交えて質問するものです。
事前の調査、勉強をきちんとしなければ出来ません。

また市長や担当部署から、「これを聞いてもらいたい」との意向を受けて、質問されることもあるように思います。
今進めていることや、これから進めたい事業や政策について質問をしてもらい、これを受けて推進するためです。
一概に悪いとは言えませんが、事前に細かい打ち合わせをやりすぎると、片山(元鳥取県知事)さんが言った「学芸会」になってしまいます。中途半端だと、聞いてもいないことに答えたりして、おかしなやり取りになります。

答弁者は市長・教育長・担当部長ですが、質問内容によって答弁者は変わります。市長しか答えられないことを聞けば、基本的には市長が答えますが、担当部長が答える時もあります。

執行側が触れられたくないことや聞いてほしくない質問の1回目答弁では、ほぼ肝心なことは答えません。
答をはぐらかしたり聞かれていないからと、答えない事もあります。国会でのごはん論争のようなものです。

中原市長の答弁は、「ウソではないが真実でない」ものが多いと感じます。また答えたくないことについて、「言っている意味が分かりません」ということもあります。

担当部長も問題によっては、何度も執拗に聞かないと本当のことは言いません。

執拗に聞くと、時には言葉尻を捕えて発言の取り消し、謝罪を求められることがあります。かつては他の議員からでしたが、中原市長になってからは市長が求めることも多くなりました。その度に、議会は紛糾し長時間ストップします。

これまで何度か発言の取り消し、謝罪をしていますので、今ここで何も言わなければ、問題が起きないことは分かります。
しかし、「市民が知りたいこと、聞きたいこと」を質問するのが役割であり、「自分がやらずに誰がやるのか」という気持ちがあります。

「自分の後ろには市民がいる」。

良心に従い「やらなければ」との思いですが、時に面倒になったり、「何も起きない」誘惑に負けそうになることもあります。

卒業証書授与式

3月15日(金)、中央中学校の卒業証書授与式に出席しました。
平成30年度第38回の授与式です。

今年卒業を迎えたのは、3年1組(1クラス37名)から6組の合計224名で、これまでの卒業生は9,519人になりました。

何んと言っても、式典のメインの一つは卒業証書の授与です。ステージで、校長より一人一人に卒業証書が手渡されます。
この時、柔らかな緊張感の中で生徒と校長の思いが伝わってきます。そして、それを見守っている保護者の姿が印象的でした。

「一同礼」で始まり、開式のことば・国歌並びに校歌斉唱・卒業証書授与・校長式辞・教育委員会告辞・来賓祝辞・来賓紹介並びに祝電披露・卒業記念品贈呈・在校生送辞・卒業生答辞・式歌合唱・閉式のことば、そして「一同礼」で終わる式典。

いかにも日本的で、形式を重んじる式典だと思われる方もおられるとは思いますが、大人へと向かう彼らを見守り、期待する気持を伝えていると思います。「義務教育」を終える節目に、卒業を祝い、将来の目標や夢に向かって頑張ってほしいと願い、応援していることを伝えているのではないでしょうか。

在校生送辞に続いた卒業生答辞の途中、卒業生全員が立ち上がり保護者・在校生と向き合い、『YELL』という歌を合唱しました。
『「“わたし”は今 どこに在るの」と踏みしめた足跡を 何度も見つめ返す 枯葉を抱き 秋めく窓辺に かじかんだ指先で 夢を描いた…  』
初めて聞く、長い歌でした。

答辞が終わり、式歌。卒業生、在校生そして教職員も一緒だったと思いますが『旅立ちの日に』が歌われました。
『白い光の中に 山並みは萌えて はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ…  』

歌詞の「言葉」に、それぞれの心に触れる「これまでの思い」と「これからの思い」があるのだと思います。緊張と興奮が広がり、涙ぐむ生徒もおりました。
やはり歌の力は大きいと感じました。

「平成」最後の卒業生を送り出した 校長 豊田 正一氏も退職です。
長い間、お疲れ様でした。