「花粉症」

久しぶりに今年は、「花粉症」の症状が出ています。

朝起きると、鼻水が止まらず目の「かゆみ」が続き、寝る時には鼻がつまり目覚めると口が渇いています。

以前、「血液検査」を受けたことがあります。結果は、スギ➔ヒノキ➔ダニ・ハウスダスト➔?の順に影響を受けることが分かりました。

以来、「花粉症」対策を続けています。2月後半から4月末までは、①外出時のマスク着用 ②花粉の付きにくい上着を着る ③洗濯物の室内干し(お風呂場) ④空気清浄器の24時間稼働 ⑤薬等です。薬は出来るだけ使わないようにしていますが、症状がひどい時は、「目薬」と「アレルギー性鼻炎」の薬を、また、花粉の侵入を防ぐ塗り薬(鼻)を使うこともあります。

20年位前からは「体質改善」を図る為、毎日、ヨーグルトを食べています。腸内細菌の正常化に役立つ食品の摂取も心がけています。そのせいか、高齢化による影響なのかは分かりませんが60歳を超えたあたりから、症状が軽くなってきました。生活にそれ程困るような影響は出ていませんでした。

私の場合は、高校時代から毎年、3月・4月頃になると、くしゃみ、鼻水・つまり、目のかゆみ等の症状が出ました。いつの間にか治まっていた為、そのままにしていました。その頃は、「花粉症」という言葉ありませんでした。いつ頃からその言葉が使われ、原因や対策についてもいつ頃に明らかにされたのか、よく分かりません。

 最近はテレビで毎朝、「花粉情報」が流されています。「スギ・ヒノキ」、「多い・やや多い・少ない」が、地域ごとに示されています。多くの人が、「花粉症」になっているという事です。

原因物質の「スギ・ヒノキ」という言葉を聞くたびに思うことですが、身体が示す「アレルギー反応」の原因はそれだけなのかという事です。 毎日飲んでいる「水」、24時間吸う「空気」、食べている「食品」の影響はないのでしょうか。

加工食品や調理済み食品の利用が飛躍的に増えてきました。「食品添加物」との関わりです。「水」、「空気」、「食品」の複合的な原因は考えられないのでしょうか。

携帯電話、パソコン、電子レンジ、テレビ等が出す「電磁波 」。洗濯用洗剤の香料、柔軟剤。住宅に使われている建材、壁紙に使っている「接着剤・のり」等との関わりはないのでしょうか。普段、日常生活の中で利用しているもので「アレルギー反応や身体的支障」が出ている方もいます。

私が最も心配しているのば、「携帯電話」です。「脳」に近い所で使用しますので、「脳」への影響があると思います。 すでに数年前から、携帯電話基地局周辺住民の健康被害が表面化しています。

ある日突然、人々がとんでもない行動をし、社会全体が混乱・パニックに陥ることが起こることのないよう、安全な電話(通信手段)の開発・改良を進めるべきだと考えています。

豊かで便利な生活を送れることは、ありがたいことです。しかしその前提は「安全」です。

初めてのこと

選挙は3回経験していますが、初めて「選挙ポスター」を貼りました。

久喜市の市議会議員選挙(市長選挙も)が今日から始まりました。

勉強会の仲間で、1977年(昭和52年)に26歳で初当選した無所属市民派議員の応援です。 議員生活40年以上の大ベテランですが、支援者が高齢化し、 ポスター貼りの人手が足りないというので、私の所属会派(市民の会・無所属)の議員と一緒に行きました。

朝7時30分に迎えに来てもらい、車で久喜へ向かいました。雨がかなり強く降っていましたので、山で使う雨カッパ、着替えやタオル、帽子そして大きい傘を用意し、万全の準備をしました。

フロントガラスについた大粒の雨をワイパーが振り払いますが、不安がよぎります。雨の中で、ポスターを掲示版にうまく張ることが出来るか心配でした。

最近の選挙ポスターは、裏面が全て糊付けされていますので掲示板が乾いていれば、完全に張ることが出来ます。10年前の私の選挙の時は、一枚づつ裏面まわりに両面テープを使って準備をしました。

彼の自宅が選挙事務所ですが、到着して掲示場所(番号)が決まるまで待機していました。番号の連絡が入り、事務所を出る頃には、幸いにして雨もほとんど止んでいました。これも、やはり「日頃の行い」と勝手に解釈しました。

一緒に行った議員が昔、久喜に住んでいたことがあり、土地勘のある地域を任されたので、20数箇所をスムーズに張り終えることが出来ました。

事務所の責任者から、貼り終えたポスターの隅8か所を画鋲でとめるよう指示されました。吉川ではやっていないと思いますが、久喜では他の候補も同じようにしていました。

他候補のポスター貼りの方と一緒になりました。二人一組でやる支援者もいれば、一人でやってる人もいました。また、車の他にオートバイや自転車を使って移動している方もいました。

ポスターの掲示一つとっても、やり方はさまざまです。選対、選挙事務所、ビラまき、選挙カーの運転手・ウグイス、選挙ハガキの宛名書き、食事、電話担当等、地域や候補者によってやり方は様々ですが、これからどうしていくのかは共通の課題です。

選挙は「いろんな方の支援がなければ出来ないし、一人では戦えない」ことです。お力添えをいただけることは、本当に「有難いことです」。しかし時代が、地域が、人々が変わる中、「今までのやり方は続けられない」と改めて思った「初めてのポスター貼り」でした。

*ブログの更新が大変遅くなり、申し訳ありません。

ペンタゴン・ペーパーズ

一昨日、映画を見ました。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書。 主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。監督はスティーブン・スピルバーグです。

1970年代初め、泥沼化していたベトナム戦争について調査・分析した政府の機密文書を報じたワシントン・ポスト紙の実話に基づく物語です。

35代大統領ジョン・F・ケネディ、36代リンドン・ジョンソン大統領の下で1968年迄、国務長官を務めたロバート・マクナマラがまとめた政府の「機密文書」を入手し、これを公表するか、見送るかの判断を迫られるワシントン・ポスト社主(メリル・ストリープ)の苦悩を描いています。

編集主幹(トム・ハンクス)は掲載を主張するが、会社の重役陣や顧問弁護士等は、『会社そのものが無くなり、逮捕される恐れがある危険な賭け』と反対。

ライバル紙のニューヨーク・タイムズが少し前にスクープをしたが、裁判所から出版差し止め命令を受けている状況の中、社主(メリル・ストリープ)が下した判断は、『報道の自由を守る』。

ケネディ大統領を含む歴代政権がつき続けてきた「ウソ」を暴き、掲載しました。

ニューヨーク・タイムズとともにワシントン・ポスト関係者が最高裁判所に呼ばれる。この時の大統領が37代リチャード・ニクソンです。 下された判断は、『新聞は、権力者のためでなく、国民のためにある』。

トランプ大統領が国内外を驚かすことを次々と行う中、スピルバーグ監督が皆に言いたいことだと思いました。 日本でも安倍政権が続いています。私もそう思います。

ベトナム戦争が終結したのは、1975年4月30日ですが、いつから始まったのかについては諸説あります。一般的には、ケネディ大統領の時代、1961年に起こした、アメリカの本格的軍事行動を戦争の始まりとしています。宣戦布告なき戦争と言われています。元々の始まりは、南ベトナムでの内戦です。

第2次世界大戦後、フランスの植民地であったベトナムは、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に別れました。親米の南ベトナムに対し、北ベトナムの後ろにはソビエトがいました。冷戦の時代、アメリカとソビエトの代理戦争的な側面もありました。アメリカは「ドミノ倒し」理論で、『北ベトナムが勝利すればベトナムだけでなく東南アジアが次々と共産化してしまう』。また、『中国共産主義封じ込め』という意味もありました。

一方、北ベトナム側はベトナム民族解放闘争で、南を開放して南北を社会主義国として再統一することを目標としました。そして、アメリカの新植民地主義に対する戦争であると位置づけていました。

映画では、国務長官マクナマラが調査・分析した「機密文書」には、『アメリカはこの戦争には勝てない』。しかし、今公表することは出来ない。将来、ベトナム戦争の歴史的検証を行う時のため、まとめたものである。そして、歴代大統領が戦争を止めることが出来なかったのは、『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』ことだった。戦争を続けた理由の3割が「ドミノ倒し」の防ぐこと、7割は『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』からと描いています。勝てない戦争と分かっていながら、国民にウソをつき、若者を戦場に送り続けたとしています。

この時代は、私が高校・大学そして社会人になった頃でした。アメリカではすさまじい「反戦運動」が起こっていました。日本でも新聞や雑誌、テレビの報道が続いていました。朝日新聞特派員だった開高 健がベトナムから送り続けたルポルタージュ(ベトナム戦記)も出ていました。べ平連(ベトナムに平和を市民連合)が組織され、大学構内には、「戦争反対」の立て看板が置かれアジ演説とデモは日常の風景でした。

新宿西口地下広場では、「戦争反対」のフォーク集会が毎週(土曜日?)開かれていました。広場には、数百人、数千人が集まり「反戦歌」を歌っていました。勤め帰りのサラリーマン・高校生・大学生・オジサン・オバサン達が一緒にフォークソングを歌いシュプレヒコールを叫んでいました。自分の意思で集まってくる人達でした。また、いろんな所にフォークゲリラが出没して、居合わせた人と歌っていました。

やがて「地下広場」は、「地下通路」と改められました。市民が見守る中、警察官と機動隊が、『ここは通路です』『立ち止まらないでください』『座らないでください』とアナウンスするようになりました。

1975年4月、ベトナム戦争は終わりました。

日本では、『横田基地でいいアルバイトがある。ベトナムで死んだ米兵の遺体を洗う仕事は1万円もらえる』。が話題に上らなくなりました。今度は、アメリカへ帰還した人達の中に、『心や身体に傷を負い未だに社会復帰出来ない人や、枯葉剤(ダイオキシン)の影響を受けている方がいる』。『時間を経て、仕事や家庭での生活が難しくなった人もいるようだ』。との話が伝わってきました。

いつの時代でも、犠牲になるのはまず「若者」ですが、家族・友人も心に傷を負います。社会全体が深く傷つくのが「戦争」だと思います。

*追記4月8日 1 新宿西口地下広場での反戦フォーク集会で歌われていた歌は、「受験生ブルース」「自衛隊に入ろう」「機動隊ブルース」「友よ」等でした。2 その後、ワシントン・ポスト紙が追及した事件として、「ウオーターゲート」があります。民主党全国委員会本部へ不法侵入し、盗聴をした事件です。37代大統領リチャード・ニクソンが関わっていたとして、民主党だけでなく共和党からも批判が起こりニクソンは辞任しました。任期中に辞任した大統領は、ニクソンが初めてだそうです。3 ロバート・マクナマラは国務長官を辞めた後、世界銀行の総裁になりました(1968~81年)。