9月議会が始まります

44日間の夏休みが終わり、明後日(9月2日)から学校が始まります。

やり残した宿題の追い込みで、大変な子ども達もいると思います。

議会も2日(月)が開会日で、議案が上程されます。「一般質問」の通告締め切りは、昨日でしたが「議案質疑」締め切りは開会日の4時となっています。

今、私も大変です。

「朝顔」もそろそろ終わりのようです。今年は3本の苗を植えました。紫・青・赤の3色ですが、余り咲きませんでした。
7月に雨が多く、梅雨寒が続いたせいでしょうか。

久しぶりに今朝は、薄いピンクと赤い花が咲きました。赤は直径3センチ位の小さなものです。

何で、薄いピンクになったのか分かりませんがいよいよ「夏」も終わりだと感じます。

豊島(てしま)

50年ぶりに高松です。
当時は宇野から連絡船に乗って高松に渡り、平家物語に係わる史跡の一つ、屋島の「平家の舟かくし」を訪ねました。

8月22日(木)、今回は高松空港からリムジンバスでJR高松駅へ。隣接したフェリー乗り場から水上タクシーで40分、豊島へ向かいました。

家浦(いえうら)港に到着すると石井 亮(とおる)さんが迎えてくれました。
石井さんは「豊島事件」で住民運動に身を投じた一人で、養鶏や農業に従事し、香川県議会議員を2期務めていました。

一緒に行ったのは20人の地方議員(市議・県議)で、「全国政策研究集会【8/23日(金)・24日(土)開催】のオプショナルツアーに豊島を選び、参加した人達です。

豊島は、産業廃棄物不法投棄により甚大な健康被害と環境汚染をもたらした「ゴミの島」と言われた所です。我が国最大の有害産業廃棄物不法投棄事件が起きた島です。

日本中から、持ち込まれた産業廃棄物は100万トンを超え、現地でシュレッダーダスト等を野焼きしたため「鉛」が高濃度に濃縮され、プラスチックからは「ダイオキシン」が生成。PCB、ベンゼン、トリクロロエチレン等の有害物質等も土壌と地下水を汚染させました。

産廃90万トンの撤去を実現するため、戦い続けてきた歴史と現状を学ぶためのツアーです。

早速、事件の現場となった島の西部、「水ヶ浦」の投棄場所へ向かい、現地で石井さんの説明を受けました。

国立公園の指定を受けている美しい白砂青松の地ですが、事件を起こした会社が海岸の砂やまわりの山を削って土砂を販売していた場所です。山を削り、売れるものは売り尽くした後、広大な土砂採取場跡地を利用して産業廃棄物の処理事業を計画したのが始まりでした。

香川県の許可は、汚泥・木くず・家畜のふんを「ミミズ養殖による土壌改良剤化事業」ですが、実際に持ち込まれたのはそれ以外の産業廃棄物でした。最も多かったのは、車のシュレッダーダストだったそうです。

事件が表面化したのは1990年(平成2年)、*兵庫県警の摘発ですが、発端は1975年(昭和50年)に豊島総合観光開発㈱が産業廃棄物処理の許可申請をしたときから豊島問題は始まりました。

44年にわたる住民運動の結果、2017年(平成29年)に産廃90万トンの撤去は実現されました。長い道のりだったと思います。反対運動、公害調停申請、36回の公害調停を経て最終合意そして産廃の撤去、気の遠くなるような時間です。

処分場の跡地に当時、事業者が使っていた事務所が現在は「心の資料館」になっています。40年間の取り組み・運動が年表に記され資料が保存されています。公害調停の申し立て人549名の名前もあります。半数以上の方が亡くなっています。また、廃棄物をはぎ取った断面が壁に架けられ、「ここで何があったのか」を静かに問いかけています。

写真の中に、筑紫哲也や中坊公平の姿がありました。そういえば、テレビでも豊島の問題を何度も取り上げていました。

ここに来るまでは、豊島の問題はすでに終わっていると思っていましたがそうではありませんでした。現在もなお土壌と地下水の汚染は続いており最終的にその処理が何時までかかるかは不明です。
海岸線360mに、深さ2mから18mの遮水壁(矢板)が打込まれ、土壌改良実験や水処理も行われていますが、終わりなき戦いになるかも知れません。

かつては5メートルもの産廃が積み上げられ、野焼きの煙が県庁からも見えたといいます。県は見て見ぬふりをしていました。

現在は、産廃が持ち込まれる前の土砂採取場跡地のようです。所々に草が生え、水たまりがあります。山の斜面は機械で削った後がそのまま見えました。

「金」の為なら何でもやった事業者。香川県の判断の誤り・黙認、ウソとごまかし、共同正犯ともいえる行政の対応。世間の無理解。反対に、全国からの支援や県庁職員の応援も。そんな中で島民間の対立や分裂をしつつも運動を続け、産業廃棄物の全面撤去を実現した人達の姿と、山と積まれた有害廃棄物が見えてくる場所でした。

丁度、瀬戸内国際芸術祭2019が開かれており、島には国際色豊かに大勢の若者達が来ていました。

*本来は香川県警が摘発する事案ですが、その責任が県知事に及ぶため出来なかった(しなかった)そうです。当時の兵庫県警察本部長は、國松孝次さん(警察庁長官の時狙撃された)でした。

お知らせ

明日8月22日(木)から、「全国政策研究集会」出席のため香川県高松市へ参ります。
ブログの更新は、25日(日)に行いたいと思います。

夏の終わりに

台風10号の西日本直撃で、「お盆」に大きな混乱が生じました。

交通機関を始め、海・山・行楽地、お祭り、そして帰省先からのUターンにも影響がありました。多くの方が帰京の予定日を早めたり、遅らせたりして「やっと」帰ってきたという感じを受けます。

台風一過で猛暑となった昨日と今日、そういう中での移動。お疲れのことと思います。大変な1週間が終わり、明日18日(月)からまた「日常」に戻ります。

私も今週から「日常」が始まります。20日(火)は民生委員の推薦会。22日(木)~「全国政策研究会」参加のため、香川県の高松へ行ってきます。

22日は瀬戸内海に浮かぶ豊島(てしま)。かつて「ゴミの島」と呼ばれたこの島で、何が起こったのかを住民リーダーの一人に案内してもらいます。研究集会での基調講演は前川喜平さん(元文部科学事務次官)で、テーマは「教育と憲法」です。来週は、議会運営委員会(議運)を開き、9月議会の確認。また、勉強会も2日間予定されています。

日韓対立、香港への武力介入、北朝鮮のミサイル、インド・パキスタンの対立、米中貿易戦争、英国のEU離脱等、世界中で紛争や対立、困った問題が続いています。とても心配です。

どれもこれも、解決するのは簡単ではありません。一歩間違え、最悪な結果を迎えることになるのでは。と考えると、何んとも恐ろしいことです。
それ程簡単に、とんでもないことは「しないだろう」「起こらないだろう」とも思いますが、先のことは分かりません。

いろいろな問題がありますが、個人も国も、出来ることは相当限られています。当事者以外は、ほとんど何も出来ないと思います。

私達は皆多かれ少なかれ、「不安」や「心配」をもって生きています。人間・国民・市民として共通のこともあれば、個人的なこともあります。どんなことを「不安」「心配」と考えるかは人さまざまです。

大きなことと考えるのか、些細なことと思うかも。そして時の経過の中で、変わることもあるように思います。

*更新が遅れ申し訳ありません。

お盆の帰省

今日8月10日(土)は、お盆の帰省ラッシュがピークです。高速道路や新幹線の駅、空港も大混雑です。
日本中で大移動が始まりました。

親族に子どもの成長を見せて近況を報告。お墓参りに行き、ふるさとの味と自然に、「ほっと」する一時ではないでしょうか。

毎年、この時期が近づくと上野駅前の「テント村」と「帰省みやげ」のことが思い起こされます。かつては、帰省の最大の足は鉄道で、上野駅は上信越・東北方面へのターミナルでした。

この時の混雑ぶりは尋常ではなく、上野の街全体が異様な雰囲気でした。
駅前から広小路への大通りを始め「アメ横」、路地まで人があふれており、「ふるさと」を目指す人々の熱気が漂っていました。

そして上野駅前の「テント村」で夜を過ごす人達の姿は、帰省の風物詩でした。

当時、担当していた名店街での「帰省みやげ」の販売は、大晦日と並ぶ年間最大の商戦でした。お中元・お歳暮は配送伝票での売上ですが、「帰省みやげ」は持ち帰りが中心でした。実際に商品が動くのでかなりの忙しさです。
1千万円以上の売上が続く、緊張感、充実感のある数日間でした。

地下1階入り口の店頭には、20~30分前からお客様が並び「10時開店」を待ちます。
ピークの日には開店時間を早めたことがありますが、それ以外は「10時開店」を守ったと思います。

しかし、時計を見ながらそわそわと焦った様子の方には、列車の時刻を確認し、間に合うように販売したこともありました。正面横から入店してもらい、どんなお土産を探しているのかを伺い相応しい店へ案内しました。
商品が決まれば、最大のサービスは「時間」ですので正確かつ短時間で接客するように努めました。

この時期は何も言わなくても皆、素晴らしい「接客・サービス」をします。社員・アルバイト・パート・派遣社員の意識と行動が同じになるようです。気合が違います。

短い時間で必要な情報を伝え、正確で美しい動きをします。品出し・包装・精算等、連携プレーも見事です。「笑顔」も「ありがとうございます」も、自然に心から出ているように感じる接客です。

繁忙期は余り間違いは起こりませんが、ヒマな時程、集中していないのか「ポカ」がありました。

お盆が終わり、また帰りに来店されるお客様もかなりいたように思います。

自宅へ帰る前に「お礼を言いたい」と立ち寄られたり、「冷蔵庫を空にしてきたから」と、惣菜や生鮮3品のある地下2階へ向かうお客様もおりました。
後姿からは、「安堵の疲労感」と「ふるさと」の「風」が伝わってくるように感じました。

戦没者追悼式 平和のつどい

先程まで「花火」が続いていました。

ベランダへ出てみると、東から西の方まで「花火」が見えました。今日は5か所でした。
三郷・越谷は大きく、東京と野田の方は小さく見えます。

毎年、7月8月の土・日は「花火」の日です。

子ども達が小さい頃は、ベランダから「玉屋~」「鍵屋~」等と叫んでいました。すると、よその階の子ども達も一緒に叫んでいました。

しばらく前から、そんな声を聞くことはなくなりました。

9時頃になると、大きな花火が一度に沢山打ち上げられ華やかに終ります。仕掛け花火で終わる所もあります。
そして静かな夜に戻ります。

戦没者追悼式 平和のつどいへの出席は今年で12回目になります。
毎年、8月最初の土曜日開催だったと思います。

この日の「花火」はとても寂しい「花火」のように感じます。
当時まだ人口も少ない吉川で、400余の戦没者がおられます。
どれ程大きな戦いだったか想像できます。

戦後74年。
遺族の高齢化が進み、亡くなる方も多くなりました。年々、出席される方が少なくなっているように思います。「戦争」を知る世代は少なくなり、「戦争」は遠い昔のことになってきています。追悼式の最後に、出席者全員で「献花」をします。手向けられる「白菊」も少なくなっています。

「戦争」の犠牲となった方々は、今日までの平和と繁栄そしてこれからの時代をどのように見ているのでしょうか。

今を生き、これからを生きていく私たちは、そうした方々の声をどのように受け止めて行くのでしょうか。

*「戦没者追悼式 平和のつどい」については、2018年8月11日・17年8月6日・16年8月6日・15年8月8日のブログで取りあげています。ご参照ください。