上野駅

またまたNHKの朝ドラで恐縮です。「ひよっこ」のシーンで「上野駅」が出てきました。
ドラマでの撮影は、実際には上野駅ではありませんでしたが、昭和40年頃の駅の映像があったように思います。

私は昭和45年4月~62年1月まで上野に通勤をしていました。駅前の百貨店に15年間、残りの1年間はチェーンストアです。どちらの開店にも関わりました。
「上野駅」が東北や上越への玄関口だった頃の時代です。

「上野」は社会人になって初めて仕事をし、16年間働いていた所ですので、思いで深く懐かしい所です。妻と初めて出会い、結婚するまでの間、同じ百貨店で過ごしたところです。

その頃の「上野駅」。旧盆には、地方から東京に働きに来ていた方や東京が新たな「ふるさと」となった方々が帰省するため、駅前のテントに徹夜で並んでいました。その集団は、まるで民族の大移動のようでした。身近な人達の間でも、『切符が取れない!誰か、国鉄の関係者を知らないか』等という会話がありました。年末には、駅もアメ横そして街に人が一杯で、大晦日の賑わい、喧噪はものすごいものでした。
食品売り場の売り上げは、12月31日が年間で最大でした。

また、お花見の上野公園もすごかった。3月の後半から4月前半は桜の季節です。
花見の時は、前日からビールを大量に冷やし、大量のつまみを用意していました。
社員自ら、焼き鳥やイカを焼き販売をしました。味付けも社員がやりました。仕入は原材料分だけですので、かなり儲かりました。

今では許されないことですが、お中元・お歳暮そしてこのような大イベントの時は、日常の品減り(品耗)を埋めるチャンスでした。当時は年間の品耗率は3厘と決まっていました。

帰省されるお客様の手土産も大量に売れました。文明堂のカステラが、まだ温かい状態で納品される程、売れました。宅配便の普及で、東京土産を帰省先へ送る方が増え、直接持って帰るのが少なくなりました。時代とともに、点数が減って行きました。親戚中に配っていたお土産が、家族中心になって行ったのだと思います。

新幹線の東京駅乗り入れにより、乗降客数は少なくなっていったように思います。

昭和40年代の後半、紳士服売り場にいました。開店直後にスカートにハイヒールを履き、口紅をつけた男性客が来ました。事情を聴いてみると、村の仲間たちに『お前、東京に行くのにそんな恰好をしていたら笑われるぞ。東京に行くんだったらスカート履いて、口紅くらいつけてなければバカにされる。』と言われ、『この格好で来た。』と言う。

来てみたら、皆そんな恰好はしていないしジロジロ見られる。それで、スラックスやシャツの売り場でキョロキョロしていたようです。隣りの売り場責任者に事情を話し、売れ残っているカジュアルパンツとシャツを値下げして販売。着替えてもらった。パンツの裾直しは、リペアへ持って行き、『15分でやって』とお願いした。全国の高島屋と系列店で販売していたものだったので、それなりの商品だったと思います。靴をどうしたのかは、はっきり覚えていませんが、同じようにしたと思います。

『今朝、亭主と別れてきた。掃除の仕事はないか』という夫人も来た。店には、いろいろな人が来られた。

昭和50年代中頃、9階のレストラン街・各階の喫茶、屋上(ビアガーデン・ペットショップ・盆栽)を管理する担当をしていました。夏の暑い時でした。一人の青年が、『冷房の効くところで休ませてもらえませんか。犬と一緒に歩いていたが、この暑さで犬が弱ってしまった。どこか涼しい所で休ませたい。』と頼まれた。羽田に着いてホテルを探したが、泊まれるところがなくて上野まで来た、とも。沖縄から来た青年で、『犬を連れてアメリカへ行くところ』だという。アメリカ軍人の家庭で、「ハウスキーパー」をしていたが、その一家はすでに帰国している。犬は検疫の関係で遅れて連れて行くことになった。という。彼は、16.17歳に見えた。

9階の事務所に案内し、犬と青年に休んでもらった。しばらくすると突然、犬の具合が悪くなり死んでしまった。完全に動かない。青年はオロオロ、私もビックリ。

『まずは電話をしたら。飼い主に事情を話した方が良いのでは。』と言い、電話を貸した。『She  is dead』とかなんとか話していた。動物の死体は、飛行機に乗せられないだろうと思い、動物の火葬場を調べると、板橋区(北区だったかも)にあることが分かった。そこに、場所や時間、料金を聞き、青年に伝えた。

そして、食品売り場のアイスクリーム店とレストラン・喫茶店でドライアイスを持っていそうな所を回り、ドライアイスを集めた。氷はいろいろな所で製氷機を使っているので沢山ありますが、ドライアイスは毎日、必要量が届けられていました。とりあえず、各店から最低限を残して借りることにし、追加手配をお願いした。

犬をビニールの袋に入れ、ドライアイスと氷で冷やすようにし、段ボールの箱に入れ持ち運び出来るようにして青年に渡しました。

翌日の午後、青年が事務所に私を訪ねてきました。今日アメリカへ行く。お世話になったと言って、箱に入った「巨峰」を置いていきました。その翌日だったと思います。冷蔵庫に入れておいた「巨峰」を箱をから取り出すと、大きな粒は枝から外れ、机の上や床に転がって行きました。

青年がなぜ、「ハウスキーパー」をしているのか、何を目指しているのかは分かりません。

「巨峰」の粒を見ながら、飼い主の所へ遺骨を届けた後、彼はどうするのだろうか。ふと、そんなことを考えました。おそらく、2度と会うこともない方だと思いましたが、今のガンバリが、『将来のいい人生に繋がる。そうあってほしい。』と思いました。

*当時、アメ横で売られている物の中には粗悪品もありました。猫も、またいで通るという「猫またぎサケ」。10帖1000円のかみ切れない「海苔」。箱から出すとバラバラになる「巨峰」もその一つでした。

*この頃、かつて見た風景や聞いた言葉、匂い等に出会ったとき、それまで全く考えていなかった出来事や人の姿を突然思い出すことがあります。やはり、歳のせいでしょうか。