竹鶴 政孝Ⅱ

「竹鶴 正孝」のことをもう少し紹介したい。

現在、日本でウイスキーが広く飲まれ、世界的にも高い評価を得ているのは、「竹鶴 正孝」の力が大きいと思います。 「竹鶴 正孝」がウイスキーに興味を持ち、本格的ウイスキーづくりを決意し、イギリス留学により持ち帰った「知識」「技術」。そして生涯持ち続けた「情熱」が、本格的ウイスキーづくりの基礎となったと思います。

『ウイスキーと私』の中で、本人が書いています。 『つくり酒屋の三男坊である自分が、二人の兄が家業を継ぐのを嫌がらなかったら、醸造学を修めることはなかった。摂津酒造の阿部喜兵衛社長が本格的ウイスキーづくりを決意したことで、イギリス(スコットランド)留学が出来た。グラスゴー大学のウイリアム博士、その親友イネー博士(カンベルタウン蒸留所工場長・ブレンダー)、職人さん達の協力でウイスキーづくりを覚えられた。寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎社長が洋酒の将来性を確信し、「金は出すから君に任せる」と言われ、山崎工場を造ることができた。大日本果汁㈱創立では、柳沢伯爵・芝川又四郎・加賀正太郎氏の協力を得た。そして初めてカフェグレーンをつくる時、山本為三郎(元朝日ビール社長)氏の援助があった』と。

そして、『ウイスキーづくりに精進できたのは、皆さんの協力が運命のとびらを次々とあけていって、おのずと私をこの道一本に導いてくれたといっても過言でないのである』と言っています。

数々の偶然や人との出会い、時代背景があって出来たことだと思います。そして、もう一つ大切な要素が、「竹鶴 正孝」の「鼻」だと思います。 8歳の時、二階の階段から転がり落ちて「鼻」を強打し失神。七針も縫う大怪我で、母親がいく晩も寝ずに看病したそうです。 以来、大きい鼻がさらに大きくなり、人が感じない“におい”を感じるようになったと言います。

ウイスキーが琥珀色したピートの香りがついた酒になったのは400年位前で、産業革命の進んだ1830年ころまでは、スコットランドの一部を除いてイギリスでもほとんど飲まれていなかったそうです。 本格的に飲まれるようになったのは、1860年代に入り、グレーンウイスキーとハイランドモルトをブレンドして、今までになく飲みよい『ブレンデッド・ウイスキー』が出てからです。

今のスコッチウイスキーは、『ブレンデッド・ウイスキー』です。ブレンドをするのは、「ブレンダー」です。 「竹鶴 正孝」は、「ブレンダー」として超一流の人でした。イネー博士の特訓もありましたが、もともとの「鼻」が良かったことは間違いありません。

本人も、『人が感じない“におい”を感じるようになり、のちに酒類の芳香を人一倍きき分けられるようになったのも、このケガの後であることから、人生というのも不思議なものである。』『鑑別は、主として鼻が行うといってよい。ちょっと考えると舌のようであるが、そうではない。鼻だ。』と言っています。

以前にも紹介しましたが、日本で最初にワインのソムリエになった方のお話しを聞いた時、『ワインを飲んだ後、鼻から息を吐き出すことでそのワインの特徴がつかめる』と聞きました。つまるところ、ノドごし、ノドは鼻に通じている。鑑別は鼻で行うという事です。イギリスでスペイン人に間違えられたのは「鼻」だったそうですが、この「鼻」がウイスキーづくりに貢献したことは確かです。

さらに言えば、育った環境だと言えます。竹鶴が育った日本酒の酒蔵は、女人禁制、酒づくりの期間は、働く人全て禁欲が常識。酒づくりはよい酵母菌を育て、よい蔵ぐせを維持しなければダメ。一度まずくなると伝統的にまずくなり、悪い癖はなかなか治らない。ことから来ており、神聖な気持ちとからだで酒づくりをしていた父親の厳しい姿を受け継いだからだと思います。

以前、焼津のかつお節工場へ行き、カビ付の工程の時、『この建物の中に、最も良い菌がいる。特にカビ付をしなくても、自然にそのカビが付く』と言われました。また、銀座の有名なパン屋さんの「酒種アンパン」工場でも同じことを言われたことがあります。『伝統』という事でしょうか。

家庭でも社会でも、『よい蔵ぐせ』。良い伝統をつないで行くことは難しいことです。

*リタ夫人のことやウイスキーの正しい飲み方等は、また別の機会に書きたいと思います。現在、酒蔵では若い女性が酒づくりの仕事をしています。これまで、いくつかの蔵元を訪ねていますが、年々増えている様に感じます。皆、真摯に元気に挑戦しています。真冬の寒い朝、冷たい水で米を研いでいます。