東日本大震災と福島原発事故から8年です。
震災と津波そして第一原発の事故。
当日たまたま、障がいをもたれた方のお宅におりました。
少し落ち着いた後、自宅へ電話して状況を聞きました。そして、近所の幼稚園、中学校の被害状況を確認し、市役所へ向かいました。ガードマンから、「いながきさん○番目です」と言われたことを覚えています。
刻々と伝えられるニュース映像で「とんでもないこと」が起こってしまった。原発はどうなるのだろう。被災地の状況とこれからのことへの、「不安と心配」が大きくなっていきました。
吉川市内でも、被害と混乱がありました。
電車が止まり「帰宅困難者」が発生。中央公民館で、一晩過ごしてもらいました(迎えの車が来た方もおりました)。
コンビニ・スーパーでは、おむすびやパンが売り切れ、水道水の放射性物質の心配から、水のペットボトルもなくなりました。乳幼児を抱えたお宅からは、水を求め、市役所・病院への問い合わせが相次ぎました。
私の家では、就職試験のため都内へ行っていた次女が戻れなくなりました。試験会場に留まり、翌日に帰宅しました。
その後計画停電で、市内の街路灯・信号機が消灯しました。暗闇の交差点は恐怖の「危険地帯」でした。
吉川市議会は3月議会中でしたが、市内の被害状況確認や市民生活及び被災地支援の対策業務を優先することを決めました。予定していた一般質問を取り止め、閉会しました。
未曽有の大惨事。おびただしい犠牲者、被災者、避難生活者。それを生み出した地震・津波・原発事故、放射能の恐怖。
皆が、「災害への備え」と「命」について考え、この教訓をどう生かすのかを考えたと思います。
しかし私自身、8年という歳月、日々の生活、溢れる情報の中で、あの時の記憶とこれからの「思い」が薄れてきていると感じます。
これまで学んできた減災対策や被災地での体験から、地域の中で果す役割を思い起こす、「3.11」にしたいと考えます。
*更新が遅れました。申しわけありません。