溢れるニュースの中で

日々、新たなニュースが伝えられその都度、「驚き」「喜び」「悲しみ」そして、嘆き、怒り、期待をしています。この半月余りを振り返っても、いろいろな出来事がありました。

5月19日(土)、英国のヘンリー王子と米国出身女優メーガン・マークルさんとの結婚式が、ロンドン郊外のウインザー城でありました。

5月23日(水)、日大アメフト部の宮川選手(20歳)の会見が行われました。冒頭、「危険タックル」をしたことについて謝罪。『監督らの指示だと受け止めた。』、練習を外され危機感があったが、『たとえ「指示」されたとしても私自身がやらないと判断できなかったことが原因。』と証言しました。 記者達の質問に対し、言葉を選び、真摯に答える態度はとても二十歳とは思えない姿で、これまで何もして来なかった日本大学や監督らとは対照的でした。

5月25日(金)、米国トランプ大統領が突然、シンガポールで予定していた「米朝首脳会の中止」を伝えました。いよいよ、会談の中身が煮詰まってきたと思うとともに、最後まで自国の利益を求める厳しい政治の駆け引きを見せつけられました。

5月30日(水)、春日野部屋で56年ぶりに大関が誕生。昇進伝達式で、栃ノ心は『親方の教えを守り、稽古に精進します』と、一昔前の日本人のようでした。*栃ノ心30歳、本名レバニ・ゴルガゼ、ジョージア出身

この日、国会では森友・加計学園問題について党首討論が行われましたが、安倍総理は従来の答弁を繰り返し、外交政策で熱弁をふるっていました。これまでの委員会審議と同様、ほとんど何も進まないものでした。

5月31日(木)には、大阪地検特捜部が佐川氏(元財務省理財局長)の不起訴を決定。「やっぱり」という感じです。

6月6日(水)、東京目黒で5歳児を虐待し衰弱死させた両親が逮捕されました。長期にわたる虐待のストレスで、女児の臓器は委縮していたといいます。何とも痛ましく、悲しみと怒りを覚えます。33歳の父親と25歳の母は、なぜ我が子にそのような仕打ちをしたのでしょうか。日本中で起こっている育児放棄や虐待は両親や保護者の責任ですが、それだけの問題とも思えません。

昨日、「万引き家族」という映画を見ました。カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した作品です。映画の中でネグレクト(育児放棄)や妻への暴力、家族と疑似家族、万引きと性風俗とモラル、教育(学歴)と豊かさ(仕事)との関係等、今の日本社会の一面を見せています。家族と親・行政・地域そして他人との関係が描かれています。問題提起をしている様に思います。

大相撲、アメフト会見、国会審議、そして「ロイヤルウエディング」をテレビのライブ中継で見ました。挙式を見終え、「英王室」の変化と世界が「多様性への新たな時代」に向かって行く予感を強く感じました。

伝統ある英王室の王子が、米国籍でアフリカ系の母を持つ離婚歴のある女優と結婚する。政治家を招かず、黒人らの混声合唱で「スタンド・バイ・ミー」が歌われる。異例づくめの挙式でした。

人類の2大革命は紀元前8000年頃、メソポタミアで始まった「農業革命」と18世紀後半に始まった英国の「産業革命」です。

蒸気機関の開発により、マニファクチャー(工場制手工業)に代わり機械設備を持った大規模工場生産が始まりました。労働者と資本家の階層が生まれ、都市への人口集中、大量生産・大量消費社会が出現しました。公害・CO2 等の環境問題も「産業革命」がスタートです。市民革命、植民地支配、女性の社会進出等々、「社会構造」が変化し近代資本主義社会が確立しました。

「産業革命」は、ヨーロッパ各国やアメリカへ広がり、19世紀末にはロシアや日本へも伝わりました。今日の世界を築いた大元が英国です。

今回の「ロイヤルウエディング」は、「自由と平等」そして「多様性社会」へと繋がって行くものだと思います。人類(世界)にとって「3番目の革命」になると期待しています。

*6月10日追記:①「万引き家族」に主演した安藤サクラさんの「泣く」シーンを見たいと思い行きました。「言葉と涙の自然な関係」を演技とは思えぬ姿(演技?)で表現していました。優れた女優さんだと思います。

②学生時代、教員免許(社会科)を取得するための「教育実習」に母校(國學院久我山高校)へ行きました。担当教師から、『これを読んでおくように』と3冊の本を渡されました。「産業革命」の歴史的経過等が書かれたものでした。私が行う授業は「産業革命」の中の「資本の原始的蓄積」でした。少し読んでみましたが、よく分からない内容でした。その時、それ程勉強が好きでもない自分は、やはり教師には向いていないと再確認しました。

③英国市民が、ヘンリー王子とメーガン・マークルさんの結婚に反対した最大理由は、彼女が「アメリカ人」だからだそうです。人種や離婚歴等よりも「アメリカ人」だということです。英国民がアメリカ合衆国に対し懐く、「感情」、歴史的な「思い」を改めて知りました。

「漂流郵便局」

読売新聞夕刊に、密着ドキュメント「漂流郵便局」が連載されています。

5月28日から始まり、昨日(6月Ⅰ日)までに5回掲載され、まだ続くようです。

「漂流郵便局」は香川県の粟島にあり、元郵便局長の方がボランティアで局長を務めています。

瀬戸内海の島々を舞台に3年に1度、開催される「瀬戸内国際芸術祭」の2013年秋の出品作で、旧粟島郵便局を改装して造られたものです。 現代美術家の久保田沙耶さん(30)が、東京芸大の大学院生だった2013年に考えたアートで、瀬戸内国際芸術祭の作品として作り、芸術祭後も手紙が送られてくるので以来、そのまま置かれているそうです。

「届けられない手紙」を預かる郵便局です。過去・現在・未来、もの・ひと・こと、すべての手紙を受け付けています。

開局して5年、3万通の手紙が届き、現在も月に数百通が届いています。 ただ送るだけで、返事はきません。行って、自由に読むことが出来ます。手紙が自分あてだと感じれば、持ち帰ってもよいそうです。

『あの世に単身赴任中のあなた、そちらはいかが?私はとても寂しいです』や『一番の友達のKちゃんがクラスの中でいじめられた。自分もいじめられるのが怖くて、友達でいるのをやめました。私はKちゃんが好きだったのに…。謝らせてください。今、幸せに暮らしていることを祈っています。』等。

行き場のない悲しみやつらさを書くことで、気持ちの整理をしているのだと思います。

これまで生きてきた中で、さまざまな出会いと出来事を人は、経験しています。振り返れば、『あの時、なぜあんなことをしたのだろう』、『あの時、なぜあんなことを言ったのだろう』ということは、誰にもあることだと思います。

しかしどんなに反省しても、時は戻りません。

私も多くの人を傷つけ、そして傷つけられてきました。

 

生きるという事は、そういう事だとも思います。

それでも尚、「あの時、ひと声かけられなかったのか」、「話を聞かなかったのか」、「行動しなかったのか」と悔やまれることがあります。

「漂流郵便局」は、人が持つ、忘れることが出来ない「感情」や「気持ち」の存在を改めて思い起こさせます。自らが、「過去」・「現在」・「未来」へ行き、関わりのあった「もの」・「ひと」・「こと」について思いを伝える所です。

自らが参加し、向き合い、癒される。そんなアートを考え、創りだした若き芸術家に新たな時代を感じます。

 

*久保田 沙耶(くぼたさや) 1987年、茨城県生まれ、幼少期を香港で過ごす。筑波大学芸術専門学群卒業。東京芸術大学大学院美術研究科卒業。ロンドン留学(2015年)。

 

災害時のトイレ

これから、「災害時トイレ衛生講習会」へ行きます。今日で2日目です。

日本トイレ研究所の主催で、内閣府、文部科学省、厚生労働省、国土交通省、環境省関東地方環境事務所が後援をしています。 講習会の案内には、-水洗トイレが使えなくなった時の健康と衛生対策を学ぶー とあります。

ポイントは、●災害時のトイレの課題と対応方法・健康管理に関する基礎知識 ●災害用トイレの選定や備蓄数量 ●し尿処理の仕組み ●災害時トイレを衛生的に保つための方策 ●関係機関や専門家との連携・協力などについて理解し知識を身につけるための講習です。

東京の新橋で開催されていますが、全国から60人位参加しています。参加者は、東京都をはじめ自治体の職員と関係者(し尿要処理等)が多いようです。

また、マンホールトイレのメーカーや浄化槽の検査会社、物流会社でリスクマネッジメントを担当している方、看護士、介護従事者等、幅広い職種の方々です。NPOに関わっている方もいました。

デイサービスやグループホームを運営し、ノーマライゼーションと共生型地域社会づくりを進めている元市議会議員もおりました。

昨日は、○トイレ対策の基本的考え方と問題共有 ○建築設備と汚水処理 ○健康管理について学びました。

講習会の後に交流会があり、一部の参加者と共に私も参加しました。 日本トイレ研究所のスタッフと参加者、浄化槽・し尿収集、下水道BCP・マンホールトイレの仕組みを担当された講師や排便・排尿ケアの基礎知識担当の私立病院・市民病院の先生方がご一緒でした。

医師(部長)の一人が、『私は、ビールを飲みながら「おしっこ」の話をするのが好きなんです』と言っていましたが、皆さん、「トイレ」や「大・小便」について、中華料理を食べ、飲みながら真面目に話をされていました。

食事をしながら、「うんちとおしっこ」、「トイレ」について熱く語ります。 外からは相当、「変な集団」に見えると思いますが、私も真面目に話合いに参加してきました。

 

「運動会」

5月19日(土)、今日は吉川小学校「春季運動会」の日でした。

来週の26日(土)が、関・栄・北谷・中曽根そして美南小で、旭と三輪野江小は秋(9月)の開催です。 中学校では「体育祭」になります。9月開催だったと思います。

今朝は4時半頃起きて、マンションのベランダから眺めると、下の公園と周辺道路が濡れており小雨が降っていました。6時頃には雨も上がっていましたが、空は「暗く」どんより」として、今にも雨が降りそうな空模様でした。

7時半過ぎに学校へ電話をすると、予定通り8時40分~開会式を始める。とのことでした。

『競技・演技中に雨や落雷がなければいいな』『せめて午前中だけでも天気が持つように』と思いながら学校へ向かいました。予備日は20日(日)と23日(水)ですが、予定どうりに出来るのが一番です。20日(日)でも影響がありますが、平日の開催になると保護者が激減し、応援もさみしい感じになってしまいます。子ども達にとってはやはり、両親や祖父母そして地域の人が大勢見守る中で、自分の姿を見てもらいたいのではないでしょうか。

幸いにして、競技プログラム最初の応援合戦が終わり、4年の徒競走80m走が始まった頃から晴れ間が見えてきました。

毎年、感じることですが1年生の「適応力」に驚かされます。4月10日に入学して、まだ2か月足らずです。実際に通学している日数は30日程度です。開会式は、12項目あり30分以上かかります。学年毎に入場行進をして、整列後に始まります。学校長の挨拶をはじめに退場(行進)するまで、沢山の話を聞き、「運動会の歌」を歌い、「準備運動」、「吉小エアロビクス」を上級生と一緒にやっていました。

本当に短い期間で覚え、よくできると思います。勿論、「運動会」の練習はするのでしようが、学ぶことはそれだけではありません。

幼稚園や保育園で、皆と一緒に歌い、遊び、お遊戯などをしたり、「運動会」も体験しているのかも知れません。それにしても、「個人」として、「集団」として判断し、行動するために必要な能力を身に付ける、「吸収力」、「成長力」の大きさには感嘆します。

子ども達がこの勢いで成長し続けたら、「人間」はスゴイことになるのではと思います。「世界」はスゴイことになると思います。

植物や動物も、水、空気、太陽と栄養で成長し命をつないでいますが、永遠に大きくなることはありません。農作物を育てる土には、水と栄養がありますが、一定の所で農作物の成長は止まります。水耕栽培と違い、土には成長を抑える力もあるようです。

人間の能力が成長し続けないのは、やはり自然界のバランスを崩さないために、見えない「力」が働いているのかも知れません。

 

 

「地域猫」

大型連休も終わり5月中旬に入ってきたのに、『猫』が起きてきません。

真冬の時期を除き、朝の散歩の時には大体、『猫』が私を出迎えてくれます。朝の6時前後です。

レイクタウンへ向かう途中、最後にお参りする神社の隣にいる三毛猫ですが、「地域猫」として生きており、神社の隣家のおばあちゃんが、面倒を見ています。 おばあちゃんから毎日、エサをもらっているようで「毛並」もそれ程悪くはありません。

冬の間は玄関横に置いてある段ボールで寝ているようですが、暖かくなってくると、駐車場にある椅子の上で寝ています。

いつもは家の前で待っていて、鳴きながら寄ってきます。私がうつ柏手で来たことが分かるようです。しゃがんで撫ぜてあげると、膝などに身体を擦り付け「ニャー、ニャー」と鳴いている。 それがこの2か月程、もう明るくなっているのに椅子の上で眠っている。

門の外から2・.3回「舌を鳴らして」呼ぶと、目をうっすらと開け小さい声で「ニャー」と一声鳴くが、また目を閉じて寝てしまう。

5月が「晩春」なのか「向夏」なのかはっきりしませんが、『猫』にとってはまだ、「春眠暁を覚えず」の世界にいるようです。私たちにも「新緑」のいい季節ですが、『猫』には最高の時なのかも知れません。

『猫』が彼か彼女か知りませんが、もうしばらく寝せてあげようと思っています。

『猫』の名前は「ガーヤ」です。

*越谷の『地域猫』なので、「ガーヤ」と名付けました。時々、『おばあちゃん』ともお会いします。その時はご挨拶をします。雨が降ってきたりすると、私に傘を貸してくれる方です。

「柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)」

柚木沙弥郎の染色-もようと色彩-を見てきました。

駒場の日本民藝館へ行ったら、柚木沙弥郎の染色-もようと色彩-【4月3日(火)~6月24日(日)が開催されていました。

玄関広間をはじめ、2階の展示会場(大展示室・第3室)に作品が展示されています。 型染布の飾布や着物が中心ですが、ポスター等もありました。

展示会のタイトルにもなっていますが、何んと言っても『模様と色彩』がスゴイ。 『模様』は大胆で明るく力強い、飾らず余計なものがない。ユーモラスでかわいい。『色彩』もオレンジや藍、小豆色や茶等。改めて古くから伝わる染色の技術に驚かされます。 一言で言えば「美しい」。

やはり、いいものはいい。 生活の中で、のれんや間仕切り等に使えたら、楽しく豊かな気持ちになれると思います。

柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)のことは、知りませんでした。パンフレットには、1922年(大正11年)東京で生まれ、柳宗悦の思想と、芹沢銈介(以前のブログ、川上澄生の中で紹介)の作品に啓発されて染色家の道を志した。主軸は布への染色ですが、ガラス絵・版画・立体・絵本・ポスター等、いろいろな分野で取り組んできた、とあります。

現在96歳になるそうですが、型染めの第一人者として今なお創作を続け国内外での展覧会を開催する等、元気に活躍されているそうです。 尚、本人による記念講演 『自作と日本民藝館』が、5月19日(土)18:00-19:30に予定(要予約)されています。ご興味のある方は参加されたらいかがかと思います。

柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)と染色・染織について少し調べてみました。本当に知らないことばかりです。「オモシロイこと」は、まだまだたくさんある。と改めて思うとともに、訪ねたい所が次々と浮かんできました。

まずは、「正雪紺屋」。江戸時代の兵学者由井(由比)正雪の生家ですが代々続く染物屋です。柚木沙弥郎が芹沢銈介の弟子入り後に、芹沢の勧めで「布の扱いと染の基本」を住み込みで学んだところです。静岡県の由比町にあります。

(5月6日追記)*柚木沙弥郎は芹沢銈介が型染めした「暦」に出会い、勤めていた大原美術館を辞めて弟子入りをしたといいます。棟方志功は、川上澄生の「初夏の風」を見て、画家(油絵)になることを止めて版画家になりました。一つの作品が、進む道を変えてしまうというのは大変なことだと思います。作品はおそらく、生き生きとした力強い「生命力と品位」を持って「魂」に迫るものだと思われますが、その「本質」を感じるとる「直観力」がなければ理解できないことだと思います。

私には、到底理解できない世界です。そういえば昔、百貨店時代に、同僚に言われたことがあります。『いながきさん、リンゴの裏が見えますか?。ちゃんと見れば見えるんです!』と。2人は、私が入社した翌年に採用された後輩でした。東京芸大で油絵を描いていた人です。数年後、一人はデザイン事務所へ、もう一人は教員になりました。変人の私から見ても、さらに上をいく方々でしたが充実した人生を送られてきたようです。

芹沢銈介美術館(静岡市立)は駿河区の登呂遺跡のそばにあります。出来れば年内には、由比町の「正雪紺屋」と芹沢銈介美術館そして登呂遺跡を訪ねたいと思います。

 

 

 

再び「川上澄生」

先日、知人から思わぬものを送って頂いた。展示会図録です。

川上澄生美術館が2009年6月に出したもので、「川上澄生と民藝ー濱田庄司・芹沢銈介・塚田泰三郎・棟方志功と共にー。 2009年6月5日(金)~8月30日(日)まで開催された時に発行されたものです。

川上作品を、「民藝」の視点からスポットをあてると共に、民藝運動に関わった仲間で当時交流の深かった濱田庄司(陶芸)、芹沢銈介(染織)、塚田泰三郎(和時計研究)、棟方志功(版画)の作品を同時に紹介した展覧会でした。 栃木県の黎明期の民藝運動について、関わった人物をたどりながら紹介した企画展です。

知人は、私が3月10日に書いたブログ、「川上澄生」を読んで美術館へ行ってみたとのことでした。嬉しいことです。 すでに、吉川から転居されている方ですが、美術館で見つけた展示会図録を購入し、送ってくださいました。有難いことです。

図録は79ページにわたり、彼らの作品や活動、柳宗悦、バーナードリーチ等との交流が紹介されています。 そして、日本民藝協会が発行した「工藝」の中で、濱田・塚田・棟方・柳が、「川上澄生」について書いたものや、川上が自身のことを書いたものが民藝関係資料としてまとめられています。*昭和13年~31年に発行された工藝」の中より

濱田庄司や柳宗悦の人物評もオモシロイですが、川上本人の版画三十年(我流身の上話)の中で書かれている版画制作の自伝的取り組みや画因(制作動機・モチーフ)等は興味深い内容です。両方を読んで、「川上澄生」の実像が近づいてきたように思いました。一つ一つの作品の背景が浮かび、「川上澄生」の思いが伝わってくるように感じます。

「自分のことは己がよく分かっている」と思いがちですが、そうでもないようです。自分と他人の目は違います。 自身の長所・短所、仕事に対する評価、人との関係等、自分が思っていることと、他人が感じていることには相当「ズレ」があると思います。 それは自身の声や姿を、自分では見ることも聞くことも出来ないことと同じ理屈のようです。

この「ズレ」を埋めるには、どうしたらよいのでしょうか。

 私の手帳には、『為さざるなり、能わざるに非ざるなり。』と書かれています。何年もの間、毎日これを見ています。 『出来ないのではない、しようとしないのである。』出来ないのは己の責任、と言い聞かせています。その時、『どう生きるのか』が問われているのだと思っています。

自分では、「難しいことほど難しい」のですが、他人から見ると、「それ程難しいことではない」のかも知れません。

*(追記4/28PM9:10分)『どう生きるのか』は、人それぞれで違うと思いますが、私は、『素直』『感謝』『挑戦』だと思います。在籍していた会社の社訓でした。在籍時は特に感じませんでしたが、会社を離れてみると改めて大切な姿勢だと気づきます。『どう生きるのか』に対する基本的な態度、心構えだと思います。

生きていく中で、それらを阻む人や出来事(状況)が余りにも多くあり簡単に続けられることではありません。だからこそ、目標となるのだと思います。

 

「花粉症」

久しぶりに今年は、「花粉症」の症状が出ています。

朝起きると、鼻水が止まらず目の「かゆみ」が続き、寝る時には鼻がつまり、目覚めると口が渇いています。

以前、「血液検査」を受けたことがあります。結果は、スギ➔ヒノキ➔ダニ・ハウスダスト➔?の順に影響を受けることが分かりました。

以来、「花粉症」対策を続けています。2月後半から4月末までは、①外出時のマスク着用 ②花粉の付きにくい上着を着る ③洗濯物の室内干し(お風呂場) ④空気清浄器の24時間稼働 ⑤薬等です。薬は出来るだけ使わないようにしていますが、症状がひどい時は、「目薬」と「アレルギー性鼻炎」の薬を、また、花粉の侵入を防ぐ塗り薬(鼻)を使うこともあります。

20年位前からは「体質改善」を図る為、毎日、ヨーグルトを食べています。腸内細菌の正常化に役立つ食品の摂取も心がけています。そのせいか、高齢化による影響なのかは分かりませんが60歳を超えたあたりから、症状が軽くなってきました。生活にそれ程困るような影響は出ていませんでした。

私の場合は、高校時代から毎年、3月・4月頃になると、くしゃみ、鼻水・つまり、目のかゆみ等の症状が出ました。いつの間にか治まっていた為、そのままにしていました。その頃は、「花粉症」という言葉ありませんでした。いつ頃からその言葉が使われ、原因や対策についてもいつ頃に明らかにされたのか、よく分かりません。

 最近はテレビで毎朝、「花粉情報」が流されています。「スギ・ヒノキ」、「多い・やや多い・少ない」が、地域ごとに示されています。多くの人が、「花粉症」になっているという事です。

原因物質の「スギ・ヒノキ」という言葉を聞くたびに思うことですが、身体が示す「アレルギー反応」の原因はそれだけなのかという事です。 毎日飲んでいる「水」、24時間吸う「空気」、食べている「食品」の影響はないのでしょうか。

加工食品や調理済み食品の利用が飛躍的に増えてきました。「食品添加物」との関わりです。「水」、「空気」、「食品」の複合的な原因は考えられないのでしょうか。

携帯電話、パソコン、電子レンジ、テレビ等が出す「電磁波 」。洗濯用洗剤の香料、柔軟剤。住宅に使われている建材、壁紙に使っている「接着剤・のり」等との関わりはないのでしょうか。普段、日常生活の中で利用しているもので「アレルギー反応や身体的支障」が出ている方もいます。

私が最も心配しているのば、「携帯電話」です。「脳」に近い所で使用しますので、「脳」への影響があると思います。 すでに数年前から、携帯電話基地局周辺住民の健康被害が表面化しています。

ある日突然、人々がとんでもない行動をし、社会全体が混乱・パニックに陥ることが起こることのないよう、安全な電話(通信手段)の開発・改良を進めるべきだと考えています。

豊かで便利な生活を送れることは、ありがたいことです。しかしその前提は「安全」です。

*以前は、「花粉」の量が多い日には「花粉」が顔に突き刺さるような痛みがありました。刺さった花粉で、顔が突っ張るように感じました。最近はありませんので助かっています。

「花粉症」については、医師の診察を受け処方薬を飲む方も多いと思いますが、そうでない方もいます。この時期、マスクをつけている人が目立ちますが、種類も価格もいろいろです。他に、空気清浄器・除湿機・衣類乾燥機、薬(目薬や鼻炎用)、ヨーグルト等の食品等、「花粉症対策関連市場」は相当な規模になっていると思います。

「花粉症」の症状が続く2か月間を仕事への影響から見ると、クリエイティブ・専門的・単純業務のどれであっても「能率」の低下は大きいと思います。「花粉症対策関連市場」の経済効果と比べれば、やはり社会全体にとって「マイナス」になっているのではないでしょうか。(追記4/22)

 

初めてのこと

選挙は3回経験していますが、初めて「選挙ポスター」を貼りました。

久喜市の市議会議員選挙(市長選挙も)が今日から始まりました。

勉強会の仲間で、1977年(昭和52年)に26歳で初当選した無所属市民派議員の応援です。 議員生活40年以上の大ベテランですが、支援者が高齢化し、 ポスター貼りの人手が足りないというので、私の所属会派(市民の会・無所属)の議員と一緒に行きました。

朝7時30分に迎えに来てもらい、車で久喜へ向かいました。雨がかなり強く降っていましたので、山で使う雨カッパ、着替えやタオル、帽子そして大きい傘を用意し、万全の準備をしました。

フロントガラスについた大粒の雨をワイパーが振り払いますが、不安がよぎります。雨の中で、ポスターを掲示版にうまく張ることが出来るか心配でした。

最近の選挙ポスターは、裏面が全て糊付けされていますので掲示板が乾いていれば、完全に張ることが出来ます。10年前の私の選挙の時は、一枚づつ裏面まわりに両面テープを使って準備をしました。

彼の自宅が選挙事務所ですが、到着して掲示場所(番号)が決まるまで待機していました。番号の連絡が入り、事務所を出る頃には、幸いにして雨もほとんど止んでいました。これも、やはり「日頃の行い」と勝手に解釈しました。

一緒に行った議員が昔、久喜に住んでいたことがあり、土地勘のある地域を任されたので、20数箇所をスムーズに張り終えることが出来ました。

事務所の責任者から、貼り終えたポスターの隅8か所を画鋲でとめるよう指示されました。吉川ではやっていないと思いますが、久喜では他の候補も同じようにしていました。

他候補のポスター貼りの方と一緒になりました。二人一組でやる支援者もいれば、一人でやってる人もいました。また、車の他にオートバイや自転車を使って移動している方もいました。

ポスターの掲示一つとっても、やり方はさまざまです。選対、選挙事務所、ビラまき、選挙カーの運転手・ウグイス、選挙ハガキの宛名書き、食事、電話担当等、地域や候補者によってやり方は様々ですが、これからどうしていくのかは共通の課題です。

選挙は「いろんな方の支援がなければ出来ないし、一人では戦えない」ことです。お力添えをいただけることは、本当に「有難いことです」。しかし時代が、地域が、人々が変わる中、「今までのやり方は続けられない」と改めて思った「初めてのポスター貼り」でした。

*ブログの更新が大変遅くなり、申し訳ありません。

ペンタゴン・ペーパーズ

一昨日、映画を見ました。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書。 主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。監督はスティーブン・スピルバーグです。

1970年代初め、泥沼化していたベトナム戦争について調査・分析した政府の機密文書を報じたワシントン・ポスト紙の実話に基づく物語です。

35代大統領ジョン・F・ケネディ、36代リンドン・ジョンソン大統領の下で1968年迄、国務長官を務めたロバート・マクナマラがまとめた政府の「機密文書」を入手し、これを公表するか、見送るかの判断を迫られるワシントン・ポスト社主(メリル・ストリープ)の苦悩を描いています。

編集主幹(トム・ハンクス)は掲載を主張するが、会社の重役陣や顧問弁護士等は、『会社そのものが無くなり、逮捕される恐れがある危険な賭け』と反対。

ライバル紙のニューヨーク・タイムズが少し前にスクープをしたが、裁判所から出版差し止め命令を受けている状況の中、社主(メリル・ストリープ)が下した判断は、『報道の自由を守る』。

ケネディ大統領を含む歴代政権がつき続けてきた「ウソ」を暴き、掲載しました。

ニューヨーク・タイムズとともにワシントン・ポスト関係者が最高裁判所に呼ばれる。この時の大統領が37代リチャード・ニクソンです。 下された判断は、『新聞は、権力者のためでなく、国民のためにある』。

トランプ大統領が国内外を驚かすことを次々と行う中、スピルバーグ監督が皆に言いたいことだと思いました。 日本でも安倍政権が続いています。私もそう思います。

ベトナム戦争が終結したのは、1975年4月30日ですが、いつから始まったのかについては諸説あります。一般的には、ケネディ大統領の時代、1961年に起こした、アメリカの本格的軍事行動を戦争の始まりとしています。宣戦布告なき戦争と言われています。元々の始まりは、南ベトナムでの内戦です。

第2次世界大戦後、フランスの植民地であったベトナムは、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に別れました。親米の南ベトナムに対し、北ベトナムの後ろにはソビエトがいました。冷戦の時代、アメリカとソビエトの代理戦争的な側面もありました。アメリカは「ドミノ倒し」理論で、『北ベトナムが勝利すればベトナムだけでなく東南アジアが次々と共産化してしまう』。また、『中国共産主義封じ込め』という意味もありました。

一方、北ベトナム側はベトナム民族解放闘争で、南を開放して南北を社会主義国として再統一することを目標としました。そして、アメリカの新植民地主義に対する戦争であると位置づけていました。

映画では、国務長官マクナマラが調査・分析した「機密文書」には、『アメリカはこの戦争には勝てない』。しかし、今公表することは出来ない。将来、ベトナム戦争の歴史的検証を行う時のため、まとめたものである。そして、歴代大統領が戦争を止めることが出来なかったのは、『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』ことだった。戦争を続けた理由の3割が「ドミノ倒し」の防ぐこと、7割は『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』からと描いています。勝てない戦争と分かっていながら、国民にウソをつき、若者を戦場に送り続けたとしています。

この時代は、私が高校・大学そして社会人になった頃でした。アメリカではすさまじい「反戦運動」が起こっていました。日本でも新聞や雑誌、テレビの報道が続いていました。朝日新聞特派員だった開高 健がベトナムから送り続けたルポルタージュ(ベトナム戦記)も出ていました。べ平連(ベトナムに平和を市民連合)が組織され、大学構内には、「戦争反対」の立て看板が置かれアジ演説とデモは日常の風景でした。

新宿西口地下広場では、「戦争反対」のフォーク集会が毎週(土曜日?)開かれていました。広場には、数百人、数千人が集まり「反戦歌」を歌っていました。勤め帰りのサラリーマン・高校生・大学生・オジサン・オバサン達が一緒にフォークソングを歌いシュプレヒコールを叫んでいました。自分の意思で集まってくる人達でした。また、いろんな所にフォークゲリラが出没して、居合わせた人と歌っていました。

やがて「地下広場」は、「地下通路」と改められました。市民が見守る中、警察官と機動隊が、『ここは通路です』『立ち止まらないでください』『座らないでください』とアナウンスするようになりました。

1975年4月、ベトナム戦争は終わりました。

日本では、『横田基地でいいアルバイトがある。ベトナムで死んだ米兵の遺体を洗う仕事は1万円もらえる』。が話題に上らなくなりました。今度は、アメリカへ帰還した人達の中に、『心や身体に傷を負い未だに社会復帰出来ない人や、枯葉剤(ダイオキシン)の影響を受けている方がいる』。『時間を経て、仕事や家庭での生活が難しくなった人もいるようだ』。との話が伝わってきました。

いつの時代でも、犠牲になるのはまず「若者」ですが、家族・友人も心に傷を負います。社会全体が深く傷つくのが「戦争」だと思います。

*追記4月8日 1 新宿西口地下広場での反戦フォーク集会で歌われていた歌は、「受験生ブルース」「自衛隊に入ろう」「機動隊ブルース」「友よ」等でした。2 その後、ワシントン・ポスト紙が追及した事件として、「ウオーターゲート」があります。民主党全国委員会本部へ不法侵入し、盗聴をした事件です。37代大統領リチャード・ニクソンが関わっていたとして、民主党だけでなく共和党からも批判が起こりニクソンは辞任しました。任期中に辞任した大統領は、ニクソンが初めてだそうです。3 ロバート・マクナマラは国務長官を辞めた後、世界銀行の総裁になりました(1968~81年)。