豊島(てしま)

50年ぶりに高松です。
当時は宇野から連絡船に乗って高松に渡り、平家物語に係わる史跡の一つ、屋島の「平家の舟かくし」を訪ねました。

8月22日(木)、今回は高松空港からリムジンバスでJR高松駅へ。隣接したフェリー乗り場から水上タクシーで40分、豊島へ向かいました。

家浦(いえうら)港に到着すると石井 亮(とおる)さんが迎えてくれました。
石井さんは「豊島事件」で住民運動に身を投じた一人で、養鶏や農業に従事し、香川県議会議員を2期務めていました。

一緒に行ったのは20人の地方議員(市議・県議)で、「全国政策研究集会【8/23日(金)・24日(土)開催】のオプショナルツアーに豊島を選び、参加した人達です。

豊島は、産業廃棄物不法投棄により甚大な健康被害と環境汚染をもたらした「ゴミの島」と言われた所です。我が国最大の有害産業廃棄物不法投棄事件が起きた島です。

日本中から、持ち込まれた産業廃棄物は100万トンを超え、現地でシュレッダーダスト等を野焼きしたため「鉛」が高濃度に濃縮され、プラスチックからは「ダイオキシン」が生成。PCB、ベンゼン、トリクロロエチレン等の有害物質等も土壌と地下水を汚染させました。

産廃90万トンの撤去を実現するため、戦い続けてきた歴史と現状を学ぶためのツアーです。

早速、事件の現場となった島の西部、「水ヶ浦」の投棄場所へ向かい、現地で石井さんの説明を受けました。

国立公園の指定を受けている美しい白砂青松の地ですが、事件を起こした会社が海岸の砂やまわりの山を削って土砂を販売していた場所です。山を削り、売れるものは売り尽くした後、広大な土砂採取場跡地を利用して産業廃棄物の処理事業を計画したのが始まりでした。

香川県の許可は、汚泥・木くず・家畜のふんを「ミミズ養殖による土壌改良剤化事業」ですが、実際に持ち込まれたのはそれ以外の産業廃棄物でした。最も多かったのは、車のシュレッダーダストだったそうです。

事件が表面化したのは1990年(平成2年)、*兵庫県警の摘発ですが、発端は1975年(昭和50年)に豊島総合観光開発㈱が産業廃棄物処理の許可申請をしたときから豊島問題は始まりました。

44年にわたる住民運動の結果、2017年(平成29年)に産廃90万トンの撤去は実現されました。長い道のりだったと思います。反対運動、公害調停申請、36回の公害調停を経て最終合意そして産廃の撤去、気の遠くなるような時間です。

処分場の跡地に当時、事業者が使っていた事務所が現在は「心の資料館」になっています。40年間の取り組み・運動が年表に記され資料が保存されています。公害調停の申し立て人549名の名前もあります。半数以上の方が亡くなっています。また、廃棄物をはぎ取った断面が壁に架けられ、「ここで何があったのか」を静かに問いかけています。

写真の中に、筑紫哲也や中坊公平の姿がありました。そういえば、テレビでも豊島の問題を何度も取り上げていました。

ここに来るまでは、豊島の問題はすでに終わっていると思っていましたがそうではありませんでした。現在もなお土壌と地下水の汚染は続いており最終的にその処理が何時までかかるかは不明です。
海岸線360mに、深さ2mから18mの遮水壁(矢板)が打込まれ、土壌改良実験や水処理も行われていますが、終わりなき戦いになるかも知れません。

かつては5メートルもの産廃が積み上げられ、野焼きの煙が県庁からも見えたといいます。県は見て見ぬふりをしていました。

現在は、産廃が持ち込まれる前の土砂採取場跡地のようです。所々に草が生え、水たまりがあります。山の斜面は機械で削った後がそのまま見えました。

「金」の為なら何でもやった事業者。香川県の判断の誤り・黙認、ウソとごまかし、共同正犯ともいえる行政の対応。世間の無理解。反対に、全国からの支援や県庁職員の応援も。そんな中で島民間の対立や分裂をしつつも運動を続け、産業廃棄物の全面撤去を実現した人達の姿と、山と積まれた有害廃棄物が見えてくる場所でした。

丁度、瀬戸内国際芸術祭2019が開かれており、島には国際色豊かに大勢の若者達が来ていました。

*本来は香川県警が摘発する事案ですが、その責任が県知事に及ぶため出来なかった(しなかった)そうです。当時の兵庫県警察本部長は、國松孝次さん(警察庁長官の時狙撃された)でした。