6月議会の日程が決まりました

5月27日に開催された議会運営委員会において、平成27年第2回(6月)吉川市議会定例会の日程が確認されました。
会期は6月2日(火)~17日(水)までの16日間です。

6月議会では、いよいよ中原市長が27年度施政方針を発表します。 開会日の6 月2日、市政に対する所信表明と主な施策について説明をされます。
それを受けて翌日(6/3)に代表質問が行われます。各会派1名が質問に立ち、質問回数は2回となっています。1回目は登壇して質問、2回目は質問席からおこないます。市長としての基本的な姿勢、総合振興計画、新庁舎建設・吉川美南東口開発・第4中学校建設等、主な事業について質問をしつつ我々の考え方も伝えていきます。

こまごました質問や2回目の質問はあまりやらないのが慣例ですが、今年はどうなるか分かりません。

「市民改革クラブ」は、同僚の伊藤議員が代表質問に立つ予定です。昨年は私がやりました。質問の順番は輪番制で、今年は市民改革クラブが一番です。昨年一番だった自民・みらいは最後になります。

3月議会では、扶助費や人件費等の義務的経費や継続的事業を中心とした、いわゆる「骨格予算」を審議しました。
今議会では、27年度補正予算として施政方針とも連動した、肉付けされた予算11億6千万円が提案されます。

中原市長の姿勢、思いや考えに基づく事業等もありますので、批判的な質問も活発に行われるかもしれません。いろいろな角度から見て議論していくことは良いことですが、単なる嫌がらせやイジメのための質問は、聞いている方も疲れます。

一般質問は、6月15(月)・16(火)・17(水)の3日間です。いながきは15日(月)の3番目です。「マルサン問題」と「予防接種問題」について質問をします。
中原市長になって、初めての一般質問ですので、日頃質問に立たない議員もやるかもしれません。
久しぶりににぎやかな議会となりそうです。お時間のある方はぜひ議会傍聴にお越しください。
議会の本会議は午前10時~、委員会は9時30分からです。

*これから福島県いわき市へ参ります。今日は主に研修ですが、ポイントは『被災4年2か月、原発事故の現状と健康被害の実像を知る』です。明日(5/31)はスタディツアーです。楢葉町~富岡町へ行き、住民のお話を伺います。また、いわき市放射能市民測定室たらちねβラボを見学する予定です。6月2日(火)から議会が始まりますので、準備等やることはいっぱいありますが、『避難指示解除準備区域』の現状を見てきたいと思い、参加することにしました。

地方×国政策研究会

昨日5月22日(金)、地方×国政策研究会へ行ってきました。主催は自治体議員政策情報センター。午前10時~午後4時まで衆議院議員会館第2会議室で、開催されました。

第1部(午前)は、冨野暉一郎(元逗子市長)による講演、「議会は民主主義に不可欠の機関」その後、冨野氏と上原公子氏(元国立市長)そして福嶋浩彦氏(元我孫子市長)による「鼎談」。
昼食をはさんで午後は12時半~13時半まで、「これからの介護保険を議論するポイント」鏡 諭氏。13時半~15時が「医療・介護総合確保法」厚生労働省医政局・老健局・保健局職員(課長補佐)。最後は、15時~16時「公立病院改革ガイドライン」総務省職員、と盛り沢山の内容でした。

出席者は市町議会議員で、各地から来ていました。北海道や九州からの参加者もおりました。私が入っている地方政治改革ネットのメンバーも4名参加しておりました。
日頃から勉強している議員が多いので、質問も活発でした。

特に印象深かったのは、冨野紀一郎(元逗子市長)のお話と「鼎談」でした。冨野さんの話を聞くのは初めてでしたが、成る程と思うことがたくさんありました。「鼎談」の方は、全員が元首長経験者。実績を残されてこられた方々ですので、議会と行政を知りつくし、実態と課題を鋭く捉えておりました。『首長の情報量は議員の10倍はある。議員の考えていることや、言おうとしていることはほぼ分かる』との発言には、ドキッとしましたが、やっぱり首長個人によって大分違うなという印象です。働かない議員と同じで、次の選挙に繋がることは一生懸命やるが、しっかり勉強して政策の立案や判断が出来ない首長もいます。お神輿に乗っているだけなので、職員は楽だと思います。

私自身日頃、議院内閣制と二元代表制を当然のこととして受け入れ、議会・議員の役割は行政のチェック機関であり、議員は市民の代表だと思っていました。しかし、地方議会はなぜ日本で二元代表制なのか?、 なぜ議会が作られたのか?、議員は誰を代表しているのか?、議会は行政執行に係われないが、議員も係われないのか?、議会基本条例の目的は?など改めて問われると、明確に答えられません。そのことを気づかせ、議員の資質と役割について問われたセミナーでした。

ここ数年全国で、議会や議員の不要論が起こっています。『議会や議員が何をやっているのか分からない。』と感じている市民が増えています。ということは、議員が資質に欠け、役割を果たしていない。議会もまた、本来の権能を果たしていない。ということです。経済や雇用そして生活が厳しくなる中、その声は一層強くなってきています。そして昨年、兵庫県議会の「号泣議員」の出現は議会・議員に対する信頼をさらに貶めたと思います。

吉川市議会も例外ではありません。そのことに最も気づいていないのが、残念ながら議会・議員だと思います。

 

Jpeg

衆議院議員会館

 

Jpeg

参議院議員会館

Jpeg

左から上原さん、福嶋さん、冨野さん

Jpeg

鏡さんと参加者

Jpeg

厚労省職員と参加者

Jpeg

総務省職員

Jpeg

民主党菅元総理(挨拶にきました)

重要なことを1点追記します。鼎談の中で、現状の「議会」の問題点に対する指摘がありました。

行政の本質は「権力」ですが、この権力を合理化し正当性を与えるのが「議会」です。議会は行政に最終的なお墨付きを与える機関であるにも関わらず、その実感、責任を感じていないということです。

議員は議会で議案を可決しても否決しても、その責任を市長に押し付けてしまいます。自分たちが大きな権限を持っていることに対する認識、実感が乏しく、責任を取りません。議員・議会の問題点の一つであるとの指摘です。

 

「グローバル時代の“食”を考える」

昨日(5月15日(金))、時事通信社主催のセミナーに行ってきました。「グローバル時代の“食”を考える」がテーマですが、オープニングスピーチは東京農業大学の小泉武夫教授でした。「食を愉しみ、心豊かな生活を~多国籍食卓時代の食文化~」という演題でした。「和食」が日本人の健康を取り戻し、日本農業の再生につながる。肉を食べる時は、必ず野菜をたくさん食べる。というのが結論だったと思います。

究極のベジタリアンである日本人は、民族と家族の遺伝子を持っている。「和食」の主な材料は、1根菜 2茎 3果物 4山菜・きのこ 5大豆 6海藻 7穀物。副材が1肉 2卵 3魚。これらを長い間食べ続けてきた。主材はみな植物系であり繊維。繊維は便として排泄されるまで腸を刺激し強くする。そして、悪性菌を一緒に排泄してきた。これにより、腸内の乳酸菌は活性化し元気な身体を保っていました。しかし50年位前から、とりわけこの20年で日本人の食生活は大きく変わった。高カロリー高タンパクを中心にした油じみた食生活は、腸内に悪性菌を増加させ、腸に関わるガンや成人病を増加させている。『食べ物は怖い』。子ども時代の食生活は、大人になっても影響を与えます。小中学生の暴力事件激増はミネラル不足等、食事との関係があります。日本人の遺伝子に合う和食、みそ等の発酵食品を見直し、健康を取り戻しましょう!。こんな話でした。

小泉武夫さんは著名な醸造学・発酵学者です。また、福島県の酒造メーカー(蔵元)の家に生まれ育った方ですので、みそ・醤油・漬物・酒等、『発酵』についての話をもっと伺いたかった。食べ物は皆、腐ります。腐るという現象を利用して、逆に「保存」方法の一つとする。同時に、さらに「美味しく」人の体に「有益」なものに変えていく発酵の不思議さ、技術について研究者の話を聞きたい。とても1時間では聞ける話ではないので、3泊4日ぐらいの集中セミナーでもあれば、万難を排しても出席したいと思う。

Jpeg

時事通信社

Jpeg

 

時事通信社のセミナーには、これまで何度か参加しています。『地球温暖化と生物の多様性』がテーマの時には、佐渡島での「トキの保護」と「棚田の再生」の取組について環境省の担当者から話を伺った。現地で活動しているだけに、温暖化と生物の繋がり・関係性が具体的で分かりやすく説得力があった。
また、『観光立国日本』の時には、諸外国から見て日本がいかに魅力的なところなのか。そして、『観光は、基幹産業に匹敵する経済効果をもたらす成長産業である』と、旅行関係の仕事をしている中国人講師から伺った。

『観光資源は、観光地の名所旧跡、風景、名物(美味しいもの)だけではない。水や空気、治安の良さ・安全なまち、交通機関の正確な運行、日本人のマナー・礼儀正しさ、親切さ、やさしさ、自然と街並みの美しさなど等、日本人自身が気づいていない日本文化の全てが資源である』と、将来の日本観光の姿を熱く語っていた。

この数年、海外からの観光客が本当に増えている。銀座や浅草、渋谷・新宿等の繁華街だけでなく郊外の街でも。それも、世界中から来ている感じがする。今でも、中国から来ている方は勿論多い(電車の中や街中で話す声が大きいので目立ちます)と思いますが、イスラム教の国々や南米、ヨーロッパという感じの旅行者もよく見かけます。現在の状況を見ると、確かに「観光産業」は成長しており、東京オリンピックまでは伸び続けると思う。何年前に聞いた話か覚えていませんが、『先を見ている人はよく見ている』『成る程、言っていたことはこのことだ』と改めて思います。

最近、銀座を歩いている人は個人や家族連れ、浅草はツアー客が多いように感じる。銀座は、観光バスの路上駐車はあまり見かけなくなりました。一方浅草は、元々駐車場が少ないため平日でも表通りには両側、横道にも観光バスが駐停車しています。先日行った時には、路線バスの停留所までふさいでいました。

日本へ来る観光客はまだまだ増えると思いますが、やさし過ぎる日本人がストレスに耐えられるかどうか少し心配です。

Jpeg

歌舞伎座

Jpeg

朝の散歩Ⅱ

吉川駅の手前、中川に架かる武蔵野線の鉄橋の少し下流に『赤い橋』があります。水道管を渡しているようですが、人や自転車も通行できます。

吉川に移り住んで四半世紀になりますが、朝の散歩の帰り道、越谷側から初めて渡った。橋の上から見る吉川の街並みや下流の景観が良いです。ゆったりとした気持ちになります。夕暮れ時にも来てみたい場所です。

橋のある地域は、『千疋』という。『千疋屋総本店』の名前の由来の地名だと聞いていましたが、本当にありました。創業者がこの地域の出身だったとのことです。現在の地名は越谷市東町になっているが、自治会や農業センターなどは、『千疋』という名で残っていました。

『千疋屋総本店』の創業は古く、天保5年(1834年)に武蔵野国埼玉郡千疋の郷の侍だった初代弁蔵が、江戸に出て現在の日本橋人形町で果物と野菜類を扱う店を構えたのが始まりと言います。

 

 Jpeg

Jpeg Jpeg

Jpeg Jpeg

 

日本橋の、『千疋屋総本店』が発祥の高級フルーツ店ですが、銀座千疋屋等のれん分けしたお店もあります。私が百貨店の食品部にいた頃、取引がありました。お中元やお歳暮のギフト商品がメインでした。多分自分で買って食べることはない「高級メロン」のイメージが強くありました。ギフト以外では時折、催事で「シャーベット」を販売することもありました。
ある朝、出社すると冷凍ケースの電源が切れ、「シャーベット」が融けはじめていたことがありました。
冷凍庫に入れ、数時間おけば再び固まりますが、品質が劣化した物を売ることはお客様を欺くことになりそれは出来ません。千疋屋さんと店の信用にもかかわります。もし販売して万が一、事故が起きたら取り返しのつかないことになってしまいます。
直ちに商品手配をして、数時間後には販売を再開することができたと思います。

融けはじめた「シャーベット」は、冷凍庫に入れ、サンプルとして抜き取ったものを検査品として食品検査室へ出しました。数日後、検査結果が出ました。細菌検査の結果は全く問題はありませんでした。さすが『千疋屋』さんだと感心をして、実際に食べてみました。数人で試食しましたが、味も変わらず品質の劣化は感じられませんでした。販売することは出来ませんがおいしく食べられるので、「欲しい人にはあげよう」ということになり、それぞれ持ち帰りました。検査室の女性たち(玉川大学の農芸化学出身)にも差し上げたと思います。

Jpeg Jpeg

Jpeg

事故報告書を書いたり保険請求をした記憶がありませんので、食品部の責任で処理していたと思います。おそらく当時(昭和50年代初め)は、いろいろな形で発生したロスを伝統的な手法で埋めていました。お中元やお歳暮等、商品が大量に動く時に売価や原価を調整して、帳尻を合わせていました。商品のロス、品耗率は3厘とかと決まっていましたので棚卸は実際には棚合わせでした。いい加減な管理ですが、それが出来ないと役職者の資格・能力がないと言われた時代でした。

売上至上主義の頃で、店全体の売上目標が届かない時には、外商部が他の百貨店の外商部と連携して売り上げを融通してもらうことも一般的に行われていました。お互いに売上を融通し合うことから、「キャッチボール」と言われ、どこの百貨店でもやっていたと思います。当時の外商部員は、交際費を持っていました。夕方になると取引先の担当者から、『今日帰りに寄るから』と電話が入り、よく接待をしていました。年間の取引額によって、接待の内容も変わりますが、何軒も一緒に酒を飲んだりいろんな付き合いをしていました。自分や奥さんの買い物のつけを払わない担当者もいて、外商部員も大変でした。名前を聞けばみんなが知っている一部上場企業の方々でした。

私の上司(部長)は、日本橋にある老舗百貨店から出向されていた方でした。真面目で優秀な方で、何事にも一生懸命でした。普段の朝礼以外に、毎週、役職者全員で簡単な朝食を取りながら(部長持ちです)、『朝のミーテイング』を催したり、閉店後に部全員で『試食会』を毎月実施していました。新商品を中心に皆で食べて飲みました。各人がそれぞれの商品について感想言い、情報を共有しました。残った酒やサンプル品は若い人たちに持ち帰らせていました。ある時、カニ缶を試食しました。日本の高級なカニ缶とロシアで作られたものを比べ試食しました。缶を開けた時、中に入っているカニ足の並べ方に驚いた。蟹工船で加工しているのだろうが、日本のものは並べ方から形状まで違っていた。見事に美しく並んでいました。普段数千円もするカニ缶を買って食べることはないので、こうした勉強会はありがたかった。お客様に自信を持って商品説明が出来ました。

私が課長になった時、8階催事場で開催する「秋の北海道物産展」を任された。『自分でやってみなければ分からない、力がつかない』と、全てを任せてくれた。どんな商品をどのくらい仕入、どう見せて売るのか。実演販売では何を売るのか。日替わりや目玉商品を選び、価格と販売量を決める。商品本部会議(提携店)で発注するものと、現地の業者と直接交渉するもの、常備売り場の取引先にお願いをするもの等、大変だがやり甲斐のある仕事でした。昨年の販売実績や同業他社の品ぞろえや価格などの調査もしなければならない。ジャガイモや玉ねぎなどは、昨年まとめて買っていただいた方や近隣の飲食店・行きつけの飲み屋等に、催事のご案内をして事前に購入を頼んでおいた。

実際に物産展が始まると、売れると思ったものが売れず、まあこのくらいだろうと入れた商品が売れてしまう。あわてて追加発注したり、動きの鈍いものを どうしたら売ることが出来るか考え工夫する。それでもやはり売れ残るものもある。今度はそれをどう売るかを考えなければならない。中途半端に残った商品は売りにくい。上司には、そんな時 にも助けていただいた。

毎日、メーカーや代理店、問屋さんの担当者が商談に来る。一見、良い話のような提案も、そうでないこともある。売れ残った商品や売れない商品を、何とか押し込もうとしようとする担当者もいる。売れ残った商品や売れない商品がダメともいえない。店頭では売れないが、外商の取引先によっては、条件(商品内容・価格・個数等)が合えば買ってもらえる。そんな時は、商品の供給先も販売先も店も満足することになる。商売は難しい。私にはあまり向いていなかったのかもしれない。

『もっと出来たことも、やらねばならないこともあった』、『何で、もっと仕事に打ち込んでこなかったのか』と、悔やまれる。今頃気づいても遅いが、せめて、今やっている仕事ではそんな反省をしなくて済むように、と思いながら取り組んでいる。手を抜かず、一歩ずつしっかりと仕事をしている。同じ反省はしたくない。

上司は日本橋にある百貨店の商品本部へ戻り、退職後は酒売り場に立ちながらワインの研究に取り組んでいた。数年前、「亡くなった」と、奥様からハガキを頂いた。私を含め、出来の悪い部下を一生懸命育てようと力を尽くしてきた上司や先輩は偉い方々だったと改めて思う。また、それが日本的経営の一つの形でした。今思えば、日本社会全体がゆとりのある古きよき時代でした。

 

朝の散歩

3年ほど前から散歩を始めた。朝食の前、自宅からレイクタウンへ行き、「調節池」を2周して帰ってくる全行程2時間~2時間半の、『朝の散歩』です。少なくても、往復で10kmは歩きます。

「調節池」を1周した時点で、簡単な体操をして身体をほぐす。両腕回しから始め、手を上に組んで伸びをして深呼吸で終わる。その時の気分で、多少長くやるときもあれば、短い時もある。首のストレッチと両手を上に組み伸びをすると、気分がすっきりとします。

先週は朝のビラ配りと選挙応援のため休みましたが、今週から再開しました。良い季節なので、平日は夫婦連れや犬の散歩、マラソンの人も。私と同年代と思われる男性や女性は一人で歩いている方も多い。日曜・祝日は、若いサラリーマンやママ、小中学生が目立ちます。特に3月末から4月の初めは多く見かけましたが、1か月で大分少なくなりました。やはり、続けることは大変なようです。

私も無理はしません。「必ず行く」と決めると挫折するので、行ける時に行くことにしている。体調が良くない時は勿論、ビラ配りや沢山歩く予定の日は行きません。毎日歩いた歩数を記録していますが、ほぼ毎月30万歩を越えています。ビラ配りの月は40~50万歩になります。私の健康は歩くことで保たれていると思います。

1月頃は朝の7時近くまで薄暗く、とても寒かった。首からライトを下げ、手袋をして白い息を吐きながら歩いていた。道路にたまった水が凍っていたり、土のあるところは霜柱が立ち、月明かり下で虫たちが鳴いていました。最近は4時半ごろには明るくなります。1時間近く歩くと汗ばんできます。スギ花粉も少なくなりマスクもいらなくなりました。本当に爽やかな季節だと感じます。

ただ、気がかりなことがあります。以前、6時過ぎによく見かけたご夫婦に半年以上お会いしていないことです。同年代か少し年長の感じの方でした。

いつも、ご主人の後を奥さんがゆっくりと歩いていらした。
時々、奥さんが立ち止まる。ご主人が声をかけ、手を引いたり、励まして歩いておりました。
お名前もどこにお住まいかも分からない方でしたが、しばらくして、『おはようございます』と挨拶をするようになった。 そのうちご主人とすれ違う時に、天気のことや身体のことなどを短く話すようになった。
当初、奥様の『挨拶』はよく分からなかった。何か、違うことを言っていた。それでも、毎日お会いし繰り返しているうちに、なんとなくお互いの意思が通うように感じられた。遠くからお互いの姿を認めると、私に合図をされている様に思えた。

施設にでも入ったのか、散歩をする気力や体力がなくなったのかは分かりません。

夫婦とは不思議な関係だと思う。親や兄弟よりも長く、一緒に同じ時代を生き、時を過ごす。生まれも育ちも性格も違う。人格の異なる個人ですが、自分の一部のように思えたり、二人で一人と思うこともある。

それでも、お互いの喜び・悲しみ・苦しみを理解できないことも多い。

 

Jpeg

散歩の途中、水神社(越谷市)

 

Jpeg

龍のような感じですが髪がポニーテールになっています。

Jpeg Jpeg