吉川駅の手前、中川に架かる武蔵野線の鉄橋の少し下流に『赤い橋』があります。水道管を渡しているようですが、人や自転車も通行できます。
吉川に移り住んで四半世紀になりますが、朝の散歩の帰り道、越谷側から初めて渡った。橋の上から見る吉川の街並みや下流の景観が良いです。ゆったりとした気持ちになります。夕暮れ時にも来てみたい場所です。
橋のある地域は、『千疋』という。『千疋屋総本店』の名前の由来の地名だと聞いていましたが、本当にありました。創業者がこの地域の出身だったとのことです。現在の地名は越谷市東町になっているが、自治会や農業センターなどは、『千疋』という名で残っていました。
『千疋屋総本店』の創業は古く、天保5年(1834年)に武蔵野国埼玉郡千疋の郷の侍だった初代弁蔵が、江戸に出て現在の日本橋人形町で果物と野菜類を扱う店を構えたのが始まりと言います。
日本橋の、『千疋屋総本店』が発祥の高級フルーツ店ですが、銀座千疋屋等のれん分けしたお店もあります。私が百貨店の食品部にいた頃、取引がありました。お中元やお歳暮のギフト商品がメインでした。多分自分で買って食べることはない「高級メロン」のイメージが強くありました。ギフト以外では時折、催事で「シャーベット」を販売することもありました。
ある朝、出社すると冷凍ケースの電源が切れ、「シャーベット」が融けはじめていたことがありました。
冷凍庫に入れ、数時間おけば再び固まりますが、品質が劣化した物を売ることはお客様を欺くことになりそれは出来ません。千疋屋さんと店の信用にもかかわります。もし販売して万が一、事故が起きたら取り返しのつかないことになってしまいます。
直ちに商品手配をして、数時間後には販売を再開することができたと思います。
融けはじめた「シャーベット」は、冷凍庫に入れ、サンプルとして抜き取ったものを検査品として食品検査室へ出しました。数日後、検査結果が出ました。細菌検査の結果は全く問題はありませんでした。さすが『千疋屋』さんだと感心をして、実際に食べてみました。数人で試食しましたが、味も変わらず品質の劣化は感じられませんでした。販売することは出来ませんがおいしく食べられるので、「欲しい人にはあげよう」ということになり、それぞれ持ち帰りました。検査室の女性たち(玉川大学の農芸化学出身)にも差し上げたと思います。
事故報告書を書いたり保険請求をした記憶がありませんので、食品部の責任で処理していたと思います。おそらく当時(昭和50年代初め)は、いろいろな形で発生したロスを伝統的な手法で埋めていました。お中元やお歳暮等、商品が大量に動く時に売価や原価を調整して、帳尻を合わせていました。商品のロス、品耗率は3厘とかと決まっていましたので棚卸は実際には棚合わせでした。いい加減な管理ですが、それが出来ないと役職者の資格・能力がないと言われた時代でした。
売上至上主義の頃で、店全体の売上目標が届かない時には、外商部が他の百貨店の外商部と連携して売り上げを融通してもらうことも一般的に行われていました。お互いに売上を融通し合うことから、「キャッチボール」と言われ、どこの百貨店でもやっていたと思います。当時の外商部員は、交際費を持っていました。夕方になると取引先の担当者から、『今日帰りに寄るから』と電話が入り、よく接待をしていました。年間の取引額によって、接待の内容も変わりますが、何軒も一緒に酒を飲んだりいろんな付き合いをしていました。自分や奥さんの買い物のつけを払わない担当者もいて、外商部員も大変でした。名前を聞けばみんなが知っている一部上場企業の方々でした。
私の上司(部長)は、日本橋にある老舗百貨店から出向されていた方でした。真面目で優秀な方で、何事にも一生懸命でした。普段の朝礼以外に、毎週、役職者全員で簡単な朝食を取りながら(部長持ちです)、『朝のミーテイング』を催したり、閉店後に部全員で『試食会』を毎月実施していました。新商品を中心に皆で食べて飲みました。各人がそれぞれの商品について感想言い、情報を共有しました。残った酒やサンプル品は若い人たちに持ち帰らせていました。ある時、カニ缶を試食しました。日本の高級なカニ缶とロシアで作られたものを比べ試食しました。缶を開けた時、中に入っているカニ足の並べ方に驚いた。蟹工船で加工しているのだろうが、日本のものは並べ方から形状まで違っていた。見事に美しく並んでいました。普段数千円もするカニ缶を買って食べることはないので、こうした勉強会はありがたかった。お客様に自信を持って商品説明が出来ました。
私が課長になった時、8階催事場で開催する「秋の北海道物産展」を任された。『自分でやってみなければ分からない、力がつかない』と、全てを任せてくれた。どんな商品をどのくらい仕入、どう見せて売るのか。実演販売では何を売るのか。日替わりや目玉商品を選び、価格と販売量を決める。商品本部会議(提携店)で発注するものと、現地の業者と直接交渉するもの、常備売り場の取引先にお願いをするもの等、大変だがやり甲斐のある仕事でした。昨年の販売実績や同業他社の品ぞろえや価格などの調査もしなければならない。ジャガイモや玉ねぎなどは、昨年まとめて買っていただいた方や近隣の飲食店・行きつけの飲み屋等に、催事のご案内をして事前に購入を頼んでおいた。
実際に物産展が始まると、売れると思ったものが売れず、まあこのくらいだろうと入れた商品が売れてしまう。あわてて追加発注したり、動きの鈍いものを どうしたら売ることが出来るか考え工夫する。それでもやはり売れ残るものもある。今度はそれをどう売るかを考えなければならない。中途半端に残った商品は売りにくい。上司には、そんな時 にも助けていただいた。
毎日、メーカーや代理店、問屋さんの担当者が商談に来る。一見、良い話のような提案も、そうでないこともある。売れ残った商品や売れない商品を、何とか押し込もうとしようとする担当者もいる。売れ残った商品や売れない商品がダメともいえない。店頭では売れないが、外商の取引先によっては、条件(商品内容・価格・個数等)が合えば買ってもらえる。そんな時は、商品の供給先も販売先も店も満足することになる。商売は難しい。私にはあまり向いていなかったのかもしれない。
『もっと出来たことも、やらねばならないこともあった』、『何で、もっと仕事に打ち込んでこなかったのか』と、悔やまれる。今頃気づいても遅いが、せめて、今やっている仕事ではそんな反省をしなくて済むように、と思いながら取り組んでいる。手を抜かず、一歩ずつしっかりと仕事をしている。同じ反省はしたくない。
上司は日本橋にある百貨店の商品本部へ戻り、退職後は酒売り場に立ちながらワインの研究に取り組んでいた。数年前、「亡くなった」と、奥様からハガキを頂いた。私を含め、出来の悪い部下を一生懸命育てようと力を尽くしてきた上司や先輩は偉い方々だったと改めて思う。また、それが日本的経営の一つの形でした。今思えば、日本社会全体がゆとりのある古きよき時代でした。