印刷が出来ません

昨日は朝から、「6月議会活動報告」のチラシを印刷していましたが午後になって、印刷機の調子が悪くなりました。

「印刷」のスタートボタンを押すと、1枚だけ出た後「紙づまり」の案内が表示され、止まってしまいます。 繰り返しやってみましたが動きません。電源を入れ直してもダメでした。

仕方なく、印刷機の修理担当者の携帯や会社へ電話しましたが、修理担当者は出ず、会社の電話は、「土・日・祝日は休み」・「営業時間」の案内テープが流れていました。 営業や管理部門は休みでも、保守部門は「交代で休むのが普通でしょう」。と思いながらあきらめきれず、冷やせば動きですのではないかと30分程、機械を休ませてみましたが動きません。

10年以上前の機械ですが、タッチパネルで操作しパソコンと連動も出来る印刷機です。以前、電気関係の基板を取り換えたこともあります。レトロな発想だと思いながらも、「もしかしたら」と思い、休ませました。

あきらめて、夕方に帰宅しました。

伊藤さんと一緒に「議会活動報告」を出して10年目です。1年半前から「市民の会・無所属」の会派になりました(それまでは「市民改革クラブ」です)が、会派のビラとは別に、二人の「議会活動報告」として継続発行しています。ここ数年は、年間に4回の定例会(議会)の他に2回発行しますので年に6回は印刷しています。

1回の印刷で25、000枚(両面印刷で5万枚)印刷し、新聞折り込みの残り7,500枚をポスティングしています。原稿を整理し、印刷とポスティングは私の担当です。用紙を用意し、印刷と新聞店への持ち込みで3・4日かかります。ポスティングには10日~2週間必要です。2か月に一度は印刷をした後、地域を歩いています。一日3万~5万歩近く歩きます。まちの様子や変化が分かります。直接、住民と話をする機会でもあります。私の「健康」の源にもなっています。

時間と労力そしてお金もかかりますが、地域と住民を知る大切な事だと思っています。印刷にかかる費用はもろもろ入れると、年間90万円ぐらいです。伊藤さんと折半しています。「市民改革クラブ」の時は、政務活動費を活用し、不足分を二人で補っていました。

いまどき、手作りのチラシを出す議員はほとんどいないと思いますが、必要な時に随時だせるのと議会終了後に早く発行できるのは魅力です。印刷当日の朝まで、修正が可能です。最近は、かなり安く印刷をする所もありますし、新聞販売店への持ち込みも業者に頼めます。少し前から検討してきましたが、なかなか決断出来ません。「そろそろ潮時かも」との思いもありますが、まずは、目の前の「6月議会活動報告」を何とかしなければなりません。26日(月)には、新聞店へ持ち込みたいと思います。

日曜日にご迷惑ですが、これから印刷機を置かせていただいているお宅へ行き再度やってみます。

*更新が遅れました。申し訳ありません。

*6/25(日)報告。印刷に行ってきました。印刷機が「復活」し、新聞店折込分の印刷が無事終わりました。一晩休ませたのが良かったのかも知れません。残り(ポスティング分)は26日(月)、新聞店から戻って印刷をします。「おあしす」の折機を借り、二つ折りにして自宅へ持ち帰ります。

ヴィラデストガーデンファーム&ワイナリー

以前、酒売り場の担当者達と一緒に「ヴィラデストガーデンファーム&ワイナリー」を訪ねたことがあります。長野県東御市(とうみし)にあるワイナリーで、オーナーは玉村豊男さん(エッセイスト・画家)です。

長野新幹線上田駅から車で20分程の標高800mの丘にブドウ畑、野菜畑が広がっていました。当時、日本で一番小さなワイナリーと言われていました。 ブドウ畑には、「メルロー」や「シャルドネ」、「ピノ・ノワール」等のブドウの木が植えられ、カフェでは採れたて野菜を使った料理とワインを楽しむことが出来ます。

ワインの歴史やブドウの木の説明を受け、製造工程を見学した後、ランチを食べながらワインを飲みました。 ブドウ畑、野菜畑を見ながらの料理とワインは、田舎のリゾート気分。「ゆったり」とした時間でした。北アルプスの雄大な景色も望めました。

千曲川に沿った段丘に広がる畑には、若い醸造家が移り住んでいました。 元々は信州の「りんご畑」でした。高齢化と後継者不足から、「りんご」つくりが出来なくなった畑を、醸造家が買い、「ブドウ畑」に変えました。山梨から来ている方か多いようでした。

地球温暖化の影響で山梨の気温が高くなり、軽井沢から塩尻にかけての一帯が今後、日本でのワインつくりの中心になると言われていました。 フランスのボルドーより良くなるとの見通しもあり、大手企業が土地を抑えていると聞きました。 最近見たテレビでは、北海道でのワインづくりが拡大している状況を伝えておりました。 作物の「北限」がどんどん伸びています。

ブドウの木の寿命は、日本では30~40年位と言われています。ヨーロッパではもう少し長い(60年位ですが、中には100年も)ようです。つくり手が、自分の思い通りのワインをつくれるのは数十年です。

「ブドウ」は植えてから3年目で使えます。Ⅰ~2年は原料にならないそうです。一本の木に20~30房が実りますが、間引きして5~6房にします。3房でおよそ1㎏で、1本のワインになります。

食べるブドウは、ぎっしりと実が詰まっていますがワイン用のブドウは「スカスカ」の方が良いそうです。 実が詰まっていると風通しが悪く、病気が出ます。病気のブドウは、ワインの味を落とします。

ブドウの「木」は高さが190~200cmですが、「根」は地中深く15~20mにも達します。 ブドウ畑で一番大変なのは、「下草」の手入れです。畑で除草剤を使うと、固い地面になり、水が浸み込みません。 地中深く張った根が、濾過されたミネラルの豊富な水を吸い美味しいブドウになると聞きました。土の柔らかいブドウ畑から美味しいワインが生まれます。

本来、ワインの醸造は、原料のブドウ園がある所に設けられた醸造所で行います。世界のワイン生産地では、自園自醸が中心です。 日本のワイナリーの多くは、原料の大半を輸入しています。また、国産ワインの醸造でも、委託業者から原料を購入して造っています。自園自醸は少数です。

醸造家が個性的な手づくりワインを自園自醸ワイナリーで少量生産する。この流れが 急速に進んでいる様に思います。

「信州」や「北海道」が世界的な生産地になることも、そう遠くないかも知れません。温暖化の影響は、いろいろな所で現れています。

 

竹鶴 政孝Ⅱ

「竹鶴 正孝」のことをもう少し紹介したい。

現在、日本でウイスキーが広く飲まれ、世界的にも高い評価を得ているのは、「竹鶴 正孝」の力が大きいと思います。 「竹鶴 正孝」がウイスキーに興味を持ち、本格的ウイスキーづくりを決意し、イギリス留学により持ち帰った「知識」「技術」。そして生涯持ち続けた「情熱」が、本格的ウイスキーづくりの基礎となったと思います。

『ウイスキーと私』の中で、本人が書いています。 『つくり酒屋の三男坊である自分が、二人の兄が家業を継ぐのを嫌がらなかったら、醸造学を修めることはなかった。摂津酒造の阿部喜兵衛社長が本格的ウイスキーづくりを決意したことで、イギリス(スコットランド)留学が出来た。グラスゴー大学のウイリアム博士、その親友イネー博士(カンベルタウン蒸留所工場長・ブレンダー)、職人さん達の協力でウイスキーづくりを覚えられた。寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎社長が洋酒の将来性を確信し、「金は出すから君に任せる」と言われ、山崎工場を造ることができた。大日本果汁㈱創立では、柳沢伯爵・芝川又四郎・加賀正太郎氏の協力を得た。そして初めてカフェグレーンをつくる時、山本為三郎(元朝日ビール社長)氏の援助があった』と。

そして、『ウイスキーづくりに精進できたのは、皆さんの協力が運命のとびらを次々とあけていって、おのずと私をこの道一本に導いてくれたといっても過言でないのである』と言っています。

数々の偶然や人との出会い、時代背景があって出来たことだと思います。そして、もう一つ大切な要素が、「竹鶴 正孝」の「鼻」だと思います。 8歳の時、二階の階段から転がり落ちて「鼻」を強打し失神。七針も縫う大怪我で、母親がいく晩も寝ずに看病したそうです。 以来、大きい鼻がさらに大きくなり、人が感じない“におい”を感じるようになったと言います。

ウイスキーが琥珀色したピートの香りがついた酒になったのは400年位前で、産業革命の進んだ1830年ころまでは、スコットランドの一部を除いてイギリスでもほとんど飲まれていなかったそうです。 本格的に飲まれるようになったのは、1860年代に入り、グレーンウイスキーとハイランドモルトをブレンドして、今までになく飲みよい『ブレンデッド・ウイスキー』が出てからです。

今のスコッチウイスキーは、『ブレンデッド・ウイスキー』です。ブレンドをするのは、「ブレンダー」です。 「竹鶴 正孝」は、「ブレンダー」として超一流の人でした。イネー博士の特訓もありましたが、もともとの「鼻」が良かったことは間違いありません。

本人も、『人が感じない“におい”を感じるようになり、のちに酒類の芳香を人一倍きき分けられるようになったのも、このケガの後であることから、人生というのも不思議なものである。』『鑑別は、主として鼻が行うといってよい。ちょっと考えると舌のようであるが、そうではない。鼻だ。』と言っています。

以前にも紹介しましたが、日本で最初にワインのソムリエになった方のお話しを聞いた時、『ワインを飲んだ後、鼻から息を吐き出すことでそのワインの特徴がつかめる』と聞きました。つまるところ、ノドごし、ノドは鼻に通じている。鑑別は鼻で行うという事です。イギリスでスペイン人に間違えられたのは「鼻」だったそうですが、この「鼻」がウイスキーづくりに貢献したことは確かです。

さらに言えば、育った環境だと言えます。竹鶴が育った日本酒の酒蔵は、女人禁制、酒づくりの期間は、働く人全て禁欲が常識。酒づくりはよい酵母菌を育て、よい蔵ぐせを維持しなければダメ。一度まずくなると伝統的にまずくなり、悪い癖はなかなか治らない。ことから来ており、神聖な気持ちとからだで酒づくりをしていた父親の厳しい姿を受け継いだからだと思います。

以前、焼津のかつお節工場へ行き、カビ付の工程の時、『この建物の中に、最も良い菌がいる。特にカビ付をしなくても、自然にそのカビが付く』と言われました。また、銀座の有名なパン屋さんの「酒種アンパン」工場でも同じことを言われたことがあります。『伝統』という事でしょうか。

家庭でも社会でも、『よい蔵ぐせ』。良い伝統をつないで行くことは難しいことです。

*リタ夫人のことやウイスキーの正しい飲み方等は、また別の機会に書きたいと思います。現在、酒蔵では若い女性が酒づくりの仕事をしています。これまで、いくつかの蔵元を訪ねていますが、年々増えている様に感じます。皆、真摯に元気に挑戦しています。真冬の寒い朝、冷たい水で米を研いでいます。

 

 

竹鶴 政孝

先週に書いた “浮世絵”に魅せられた「職人」。テレビを見終わって、真っ先に浮かんだのが「竹鶴 政孝」のことです。

ニッカウヰスキーの創業者。 NHKの朝ドラ、「マッサン」の主人公となった人です。

広島県竹原町(現在竹原市)の「つくり酒屋」の三男として生まれ、家業を継ぐため大阪工業高校(現大阪大学)醸造科に入り、ウイスキーに魅せられ、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きた人です。 日経の、「私の履歴書」に自らそのように書いています。

私は35年位前、百貨店で「酒」の担当になった時、ニッカウヰスキーの営業マンから、「ウイスキーと私 竹鶴 政孝 」という本を頂き、竹鶴 政孝の半生、ニッカウヰスキーという会社の歴史を知りました。 読み終わって、いずれ「竹鶴 政孝」について映画やテレビで取りあげられると思っていました。しかし、これ程長くかかるとは思いませんでした。

彼はウイスキーづくりの「職人」であり、有能な「プレンダー」、「研究者・学者」、「経営者」そして妻、「リタ」の良き夫でした。

本格的なウイスキーを造るため大正7年3月、摂津酒造㈱からウイスキーの勉強にイギリスへ渡り、グラスゴー大学に入学(応用化学科)。教授の尽力でスコッチウイスキー工場で働き、醸造だけでなく、蒸留に使うポット・スチル(単式蒸留機)、樽等ウイスキーづくりに必要な技術、経験とカンを身に付けてきました。

人の嫌がる蒸留を終えた釜の清掃も進んで買って出る等、その仕事ぶりから、他の職人がいない深夜にこっそりとカフェ式連続蒸留機のバルブの加減、コツを夜通し教えてくれた職人(モルトマン)もいたようです。

大正10年9月、帰国しましたが摂津酒造㈱での洋酒製造計画が消えた為退社しています。 その後、㈱壽屋(サントリー)へ10年契約で入社し日本で初めての本格的ウイスキー工場(山崎)を立ち上げ、ウイスキー製造に従事していました。 サントリーもニッカも大元は一緒です。「竹鶴」がイギリスで学んできたスコッチウイスキーづくりの「技術」です。 現在、日本のウイスキーは国際的に高い評価を受けていますが、「竹鶴 政孝」がいなければ、あり得なかったと思います。

昭和44年、イギリスのデイリー・エキスプレスが『日本、スコッチの市場に侵入』という見出で大きな記事を掲載しました。

ニューヨークタイムスにのった「ニッカ」の公告を見てエキスプレスの記者たちが、「ニッカ」と「スコッチ」ウイスキーの最高級もの数本を目隠しテストで飲み比べたところ、これが日本製だろうと皆が選んだウイスキーは、悲しいことにスコッチでも最高の12年ものだった。 “英国がもっていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は英国のもっとも神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた”という記事です。

「竹鶴 政孝」は本当に嬉しかったと思います。

昭和9年、「竹鶴」は北海道余市に、大日本果汁㈱を創立しウイスキーの製造をはじめました。ウイスキーは作ってすぐに売れるものではないので、余市で採れる「りんご」をつかった*“アップルジュース”を製造・販売し、ウイスキーづくりを進めて行きました。*(アップルワインと書いていましたが、正しくはアップルジュースです。6/7訂正)

「ニッカ」という名前は大日本果汁から(ニッポンカジュウなのでニッカ)とっています。ニッカウヰスキー、ニッカブランデーの販売は昭和15年、ニッカウヰスキーに社名変更したのは、昭和27年8月です。 現在はアサヒビールのグループ会社となっています。

「竹鶴」が学んだスコッチウイスキーは、スコットランド。ハイランド地方とローランド地方で造られています。ハイランドがモルトウイスキー、ローランドがグレーン・ウイスキーの主産地です。 ニッカの余市工場はモルトウイスキー、仙台工場ではグレーン・ウイスキーを造って(多分)います。余市はハイランド地方、 仙台はローランドに近い土地のようです。

私も いつか、「ニッカ」の余市と仙台工場を見て、「竹鶴 政孝」が学んだスコットランドのハイランド、ローランド地方へ行こうと思います。

酒担当時代から、ウイスキーは「ニッカ」と決めています。