アゲハ蝶

爽やかな朝を迎えました。
昨日の激しい雨がウソのようです。

雪化粧した富士山が、丹沢連峰や奥多摩の山並みの先にくっきりと姿を現していました。

15号台風が来る前、ベランダに置いてある鉢植えの「みかんの木」にアゲハ蝶の幼虫が2匹いました。
「みかんの木」には申し訳ありませんが、羽化するまでそっとしておくことにしました。

2日ほどするとすべての葉が食べつくされ、木は丸坊主でした。10匹の幼虫を見つけました。
丸々としたのも2~3匹いました。小さな幼虫は、さなぎ→成虫→蝶にはなれないと思いましたが、見守るしかありません。

翌日の朝見ると、1匹もいません。
おそらく鳥に食べられたと思います。

以前、羽化する様子や、蝶になって木にとまったり飛ぶ姿を何度か見ています。
一度に突然消えてしまうことはありません。

自然は、やはり厳しいと感じます。
鳥はどこに柑橘類の木があり、いつ頃行くと幼虫やさなぎを食べることが出来るのか知っているようです。

今年はアゲハ蝶の羽化を見ることは出来ませんでしたが、鳥は命をつないだと思います。

丸坊主になった「みかんの木」にも、再び若葉が出てきました。
小さな葉はきらきらと朝陽に輝いていました。

1週間が経ちました

台風19号が上陸して丁度、1週間が経ちました。

記録的豪雨で首都圏をはじめ、広範囲で大きな被害が出ました。
68の河川で100箇所以上が決壊。死者80人、行方不明者11人、負傷者は396人、今でも4,000人を超える避難者がいます。

連日、新聞、テレビで被害の状況や原因等が伝えられています。被害を受けた方々の生々しい声に、改めて水の力の恐ろしさ、そして悲しみや失望、やるせなさを感じます。映像で見る光景には息を呑んでしまいます。

水に浸かった家屋から運びだされた家具や電気製品、畳み等が積み上げられ、泥の除去が続けられています。そこには被害を受けた方々をはじめ、行政の職員や自衛隊、ボランティア達の姿があります。大学では、学生達が机や椅子をきれいにしていました。酒造メーカーでは社員が工場の清掃に取り組んでいました。

自分たちが学ぶ場所・働く場所をもとの姿に戻す。自宅の復旧は、まずは自ら行い、ご近所で互いに助け合いながら進めることが基本だと思います。しかし、幼い子どものいる家庭や高齢者世帯では自分達や地域の力だけでは出来ません。また農業や漁業の再開には、泥水に浸かった田んぼの整備、漁港に流れ着いた大量の漂流物撤去をやらなければなりません。行政や自衛隊、ボランティアの力が必要です。

災害で最も力を発揮できるのは自衛隊です。宿泊・食事・排泄物等、自らの力で完結できる能力を持ち、組織的行動ができる組織だからです。しかし、人員・期間等も限られる中での支援活動です。

それにしても、次々に大災害が起こっていては、自衛隊やボランティアだけに頼り続ける訳には行きません。

私は、中学・高校・大学生の力を借りるべきだと思います。学校は休みにして、それぞれの地域で数日から数週間、支援活動に協力を頂くことです。いろいろな活動を通じ、地域・自然・暮らし・人間そのものについて学ぶ機会になると思います。生きた体験学習ではないでしょうか。

地球温暖化に伴う「異常気象」が叫ばれて、随分と経ちます。これまでの「異常」が「日常」になり、「自然災害」が年々拡大、変質して発生している時代です。無くなることはありません。

「災害対策」の基本的な考え方を、根本から見直す時に来ていると思います。

 

 

 

 

 

台風19号

リチュムイオン電池の開発で、「ノーベル化学賞」を受賞した旭化成の吉野彰(よしの・あきら)さんのニュース一色だったテレビや新聞が、昨日から台風19号関連情報に変わりました。

12日夕方から夜にかけて東海から関東へ上陸し、その後東北へ進む見込みで、非常に強い勢力を保ったまま上陸し、猛烈な風と記録的な大雨になる恐れがあると伝えられています。

1958年に伊豆半島を襲い、1,269人の死者・不明者を出した「狩野川台風」に匹敵すると言われています。

羽田・成田空港の国内・国際線をはじめ、新幹線、在来線運休。デパート・スーパー・コンビニの臨時休業等、首都圏は大混乱です。

テレビは、窓ガラスの飛散防止対策や土嚢での浸水対策を繰り返し流していました。お陰で、近所のホームセンターでは、養生テープが売り切れ、スーパーではパン・弁当・カップ麺の棚から商品がなくなりました。

吉川では13時00分、台風警戒のため警戒レベル3「避難準備・高齢者等避難開始」が発令。5,326世帯11,674人が対象ですが、12時半頃にはすでに22世帯46人が避難していると連絡がありました。

14時00分、河川洪水警戒レベル3相当が発令。洪水で浸水する地域にいて、移動に時間がかかる人は安全な場所に移動をするものです。

吉川で最も心配な災害は、「内水氾濫」と「河川洪水」です。
太古の昔、東京湾の入り江であった吉川。もともと低い土地です。

静かな農村の時代は、「田んぼ」が内水を一時的に貯める機能を果たしていました。しかし、都市化が進み「田んぼ」が住宅地に変わりました。内水の新たな受け皿は、調節池・調整池です。

きよみ野、中央土地、吉川美南等の新たな街には調節池・調整池があります。内水の被害は出ないと思いますが、そうはいっても、これまでの豪雨で池が満水近くになったことが数度あります。

心配される所は、吉川駅北口のロータリーから島村までのバス通り(いちょう通り)周辺一帯。そして加藤平沼線東側の南中学校周辺地域と中学校から加藤平沼線へかけての地域です。

私が住んでいる栄町のモアステージ(マンション)、読売新聞販売所、保地区一帯です。
最近は、以前に比べれば水位もひざ下程度で水が引く時間が早くなっていますが、水が出やすい場所です。

外は、次第に雨と風が強くなってきています。
道路の冠水状況や川の水位、調節池・調整池等、街の様子を見に行きたいと思います。

*23時30分追記  : 17時30分ごろ家を出て マンション内を回った後、中央中学校へ向かいました。2階の職員用の出入り口から入ると市の職員が数人、避難者の対応をしておりました。受付業務やアルファ米のごはんをパックに詰めたり配ったりしていました。

2階の各教室には避難してきた100人余の方々が、床に座っていました。妊婦の方二人は相談室にいると聞きました。廊下からのぞくと、子連れの方や高齢者が多いように見えました。

栄小学校は、体育館、校舎とも電気がついておらず避難場所として使われていませんでした。中央緑地調整池の水位は、中段にある遊歩道の下でまだ余裕がありました。

市役所では3階に対策本部が設置され、ちょうど会議が終わったところでした。危機管理課で、「今のところ家屋の浸水・倒壊はなく、けが人もいない。」と聞き少し安心しました。

庁舎隣のきよみ野の調節池へ行くと、すでに7~8まで水位が上がっていました。この後、雨が降り続けるようだと満水になり溢れ出て、中央土地区画整理地内へ流れる可能性もあると感じました。

南中学校は避難所になっておらず、電気もついていません。学校の隣の第2大場川は道路面と同じ位の水位で、かなり危険な状況でした。

南中学校から加藤平沼線へ抜ける道は、私の住むマンション横の通りで、ひどい時はひざ上まで冠水する場所ですが、5㎝程度でした。マンション内を通る緑道は5㎝~20㎝でした。

中学校周辺の保地区は、道路の縁石を超えるような冠水もなく歩道の水たまりが見られる程度でした。

「内水氾濫」は、明日の朝まで降り続かなければ、何とか大丈夫ではないかと思いました。19時40分帰宅。

問題は、河川の方ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治神宮

昨日は甥の結婚式に出席するため「明治神宮」へ行きました。

久し振りに原宿口から南参道を社殿へ向かって歩きましたが、外国からの「観光客」の多さにびっくりしました。日本人の数は確実に少ないと思います。

朝9時半頃でしたが、社殿へ向かう人と戻ってくる人達が参道の両側に繋がっています。所々で写真を撮っています。
それにしても思い思いの服装です。国や民族性の違いもありますが、まったく自由な感じです。

控室で親族紹介の後、境内を歩いてご社殿での挙式に向かうと、ものすごいギャラリーでした。
白無垢の衣裳や紋付袴姿が珍しいのか、携帯電話で撮られぱなしでした。
花嫁、花婿の後に2列で続く私たち(親族)も撮影の対象でした。
式が終わり外での写真撮影をしましたが、そこにもものすごい数のギャラリーがいて、また撮影されました。

12時に神宮からマイクロバスで披露宴会場の明治記念館へ向かいました。途中、新国立競技場を横に見ながら、いよいよ来年は東京オリンピック開催されるのか、と改めて感じました。同時に周辺の施設も整備され、神宮外苑も随分変わってきたと思いました。

明治神宮も外苑も学生時代によく行っていた所です。
学校が渋谷でしたので授業の合間に、神宮の広場で昼寝をしたり、菖蒲園で花しょうぶを見たり、森の中を歩いていました。
当時は、人も少なく静かな場所でした。

原宿の「竹下通り」も本当に静かな通りでした。通りにある寿司屋の2階でコンパをよくやりました。ゼミの先生もお誘いし、いつも多額の寄付を頂きました。貧乏学生にとって有難い存在でした。

先生の学生時代や司法研修生の頃の話、なぜ検事になったのか、最高検察庁検事総長としての仕事や、どんな思いで「戦時立法」を作ったのか等、色々な話を聞きました。戦後、公職追放された時「弁護士」として関わった事件の判例。そして最高裁判所の判事時代のことも。人生と人間性について、考えさせられる話でした。

酔うと、よくドイツ語で歌を歌い、ロシア文学の話もしていました。
電車内で無礼者を注意したら「じじいは黙っていろ!」と脅された時や、自宅で就寝中にドロボーが入った時の「怖かった」事など。

そして、急迫不正の侵害に対し「いざとなったら立ち向かえるように」と。「君ら若者は武道をやりなさい」と勧められました。

これまで明治記念館での披露宴には、5~6回出席したことがありますが
すっかり変わって、新しい建物になっていました。

アメリカから来た二人の若者は、見るからに日本人的な容姿でしたが、紋付袴姿で英語で会話をしていました。日系3世で日本語はほとんど分からないそうです。

この前出席した結婚式も、新郎はカナダ生まれの日系3世でした。新婦は私の姪ですが、アメリカの大学を卒業し現地で仕事をしています。

身近なところでも国際化が進んでいます。この先、10年、20年したらどんな日本、どんな世界になっているのでしょうか。

*1日遅れのブログ更新で、申し訳ありません。