「空気」

GoToトラベル。
この間まで、「不要不急の外出は自粛するように。都道府県を越える移動は避けて」と言っていましたが、GoToトラベルに変わりました。

新聞広告には、大々的にGoToトラベルキャンペーン旅行が案内され、「旅行代金が最大で半額補助されます」「いよいよ東京都も10/1出発から支援対象となります!」とあります。

コロナウイルスの感染拡大が続く中、首都圏や大阪・兵庫・福岡で出されていた「緊急事態宣言」を、政府は4月16日、全都道府県に拡大。都道府県を越える移動は避けるよう要請しました。

それまでも、三蜜を避け、ソーシャルディスタンスを確保し、マスク着用、手洗い・うがいの励行等を実践するよう啓発していましたが、「緊急事態宣言」で雰囲気が変わったように思います。

特に、「マスクの着用」についてです。

皆、マスクの着用が、実際にはあまり役に立たないと分かっていますが、周りの目を気にするようになったと思います。一歩外へ出たら、「マスクを着用しなければいけない」という「空気」です。

マスクを着用していても、自分への感染は防止できず、他人への飛沫感染防止も完全ではありません。
しかし、エレベーターに乗ったりスーパーで買い物をする際や近所を歩くにも、マスクが必需品となりました。電車内で着けていない人は注目を浴びます。

どれ位の割合の人が同じ行動をすると、そういう「空気」になるのか分かりませんが、いつの時代でもそんなことが起こります。

先の大戦では、「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」という空気の中で、周りの人と違う言動をする人は「非国民」というレッテルを張られイジメ・仲間外れの対象となりました。

今の時代にあっても、「自由の国」アメリカで同じことが起こりました。9.11の時、少数意見や異論を唱えた人が「非国民」扱いされ、社会的制裁を受けました。あらゆる所で、仕事を追われる人がいました。

新型コロナウイルスの感染拡大が進む中、生まれた「空気」に黙って従うというのは、「他人と異なる行動をして、社会的制裁を受けたくない。風評被害の対象になりたくない。」ということかも知れません。

しかし、完全防御の医師でさえ新型コロナウイルスに感染します。どんなに気を付けていても、感染することはあり得ます。
見えない相手を恐れ、家の中の籠って生活するのは極めて非人間的な社会だと思います。

私たちが毎日行っている「日常会話」のほとんどは、重要なものではありません。どうでもよいと言えばどうでもよく、たわいのないものです。「外出」もまた同じです。仕事や学校へ行くことや、近親者の危篤時、重い病気・ケガで病院へ行く等以外は不要不急と言えば不要不急です。仕事や学校も重大事には休みます。

他人から見れば、たわいのない会話や行動は生きて行くうえで重要なことです。「行きたい所へ行き、見たいものを見たり、やりたい事をする。人と話をすることでお互いを認め合い、自身の存在を認知すること」に繋がる極めて大切なことです。

人として自然な行動であり、人だからこそ出来ることだと思います。基本的人権と自由に係わることです。

世の中の「空気」「同調圧力」に流されず、自らの判断を大切にしたいと考えています。

久し振りに

昨日の早朝、越谷レイクタウンの調節池へ散歩に行きました。
6時前に家を出て、途中寄り道をしながら3時間余りで20,000歩を歩き、9時近くに自宅へ戻りました。

散歩コースは時々変わりますが、寄り道の場所はだいたい同じで、神社・コンビニ・中古車販売店です。コースによって行く場所が変わります。

昨日は、吉川と越谷市内4カ所の神社をお参りし、越谷のコンビニで100円のコーヒーを飲み、中古車販売店は草加と越谷市内の2カ所に立ち寄りました。並んでいる車の車種や価格から元の所有者を想像したり、現在の景気状況を推測しています。

散歩の途中から、「鼻水」と「くしゃみ」が止まりません。家へ帰ってからも治まらないので、鼻炎薬のカプセルを飲み体温を測ると、平熱より0.5度上回っていました。夕方には0.7度高くなりました。

今朝の体温は36.4度。「平熱」に戻りました。

久し振りに散歩に行きましたが、熱が出たのも久しぶりです。

かかりつけ医にも、この5~6年行っていません。2年前に病院へ行きましたが人間ドックの受診でした。

近年は病気に罹らなくなったように思います。食生活をはじめ生活習慣が健全になっているからかも知れません。身体も気持ちの持ちようにも、気を付けています。

無理せず完璧を求めず、力を入れるところと抜くところを分けるのが健康に必要なことだと考え、実践するようにしています。

一昨日の夕方、議会が終わり外へ出ると、空一面に「雲」が広がっていました。

夕日が「雲」の隙間から輝き、秋の空にいろいろな形・色の「雲」が浮き、秋の訪れを告げているようでした。
久し振りに見る「雲」でした。

*またまた、1日遅れの更新で申し訳ありません。今日もやるべきことは沢山ありますが、少し手を抜いてやっていきます。

9.11 3.11

昨日は9月11日。
19年前、米国同時多発テロでニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)が崩落しました。

2011年9月11日、WTCのツインタワーに2機のジェット機が突っ込み、南棟に続き北棟が崩壊。
ビルに突入する飛行機はまるで映画の1シーンのようでしたが、その後崩落したビルから巻き起こる灰色の煙を背に逃げる人々の様子に背筋が凍り付くようでした。

巨大ビルが一瞬にして崩落、必死に駆け足で逃げまどう姿は信じられない光景でした。

ビルの中で救助活動や消火活動中の方々も亡くなりました。

まるで「戦争」のようだと思いました。アメリカ本土が直接に攻撃されたのは、初めてのことではないでしょうか。

これまでの数えきれない「戦争」でも、多くの市民が犠牲になりました。世界中で。

75年前に終わった日本の戦争でも、女性や子ども、高齢者が沖縄や東京だけでなく、全国地方都市で亡くなりました。広島・長崎での出来事は、悲惨であり人類にとつて悲劇だと思います。

東日本大震災と東京電力福島第Ⅰ原子力発電所の事故から9年半前が経ちます。

2011年3月11日。「大津波」は海辺の町々を襲い、住宅や商店は一瞬にして消え去りました。

自分達が暮らしていた街があっという間に水に浸かり、車や家までがオモチャのように流され、川は逆流しました。高台に逃げた人々が逃げ遅れた住民に大声で呼びかける。また、それらをじっと見つめる人達の、恐怖に震える姿が思い起こされます。

1年後、被災地へ行きました。
消えた街を歩き、誰もいなくなった学校や市役所を訪ね、高台へ移ったプレハブの市役所や仮設住宅で話を聴きました。

町には、家や家族を失い仕事も出来なくなった方々と復興特需で仕事をしている人達がいました。ボランティアセンターには毎朝多くの人が集まり、復興作業に向かっていました。

わずかに残るかつての暮らしの跡や特有のゴミ臭、そして何もなくなった街で、静かに咲く花は記憶から消えません。

長い歴史の中で、自然災害や争いを繰り返してきた人間ですが、30年、50年、100年という時間の中で過去の出来事を忘れてしまうようです。

自身の一生でも、忘れた方が良いことと忘れてはいけないことがあるように思います。

この2週間

首と腰の痛みに苦しみました。
2週間前突然、首を右に向けることが出来なくなった。ぐるっと回したり左側に向くことは出来ますが、右側に向けず、身体を右側に向けていました。

少しづつ動かしていれば、2・3日で治ると思っていましたが、動くまで1週間かかりました。

「首」が治ったと思たら、今度は「腰」が痛くなった。立ち上がることが出来ず、立った後もまっすぐに立つことが出来ません。顔を洗うのも一苦労でした。

以前、ギックリ腰になったことがありますが、その時と比べれば少しマシで、夜に寝ることも何とか寝返りを打つことも出来ました。それでも2日間、家でじっとする生活を余儀なくされました。

丁度この時期は9月議会の始まる前で、何かとやらなければならないことが多く、困りました。

8月21日に9月定例会の議案書が配布されました。

補正予算や決算、その他の議案について内容を確認しなければなりません。そのため令和元年度に実施した事業の「成果表」を読み込むことが必要です。また、議案の勉強会や議会運営委員会が開催されます。

9月1日は一般質問の提出、9月2日開会日には議案質疑が締め切られます。議案質疑と一般質問の通告書をまとめなければなりません。また、会派内での調整のための話し合いもあります。とにかく、やらなければならないことが多くある時期です。

弱いものです。「首」が動かない、「腰」が痛いだけで行動のみならず、考え、まとめたりすることが上手くできません。意欲だけでなく思考が停止してしまいます。

通告書は何とか短時間で集中してまとめましたが、人間は弱い動物だと思います。

頭や歯が痛いだけで、考えたり書いたりすることが出来ず、指を切ればズキズキし、火傷ではヒリヒリして眠ることも出来ません。

心配ごとで、胃や腸が痛むこともあります。
人間は、身体も心も繊細というか弱い生物だと思います。同時に、それらを乗り越える力を持つ強い生物だとも言えます。大病や大ケガで体の一部を失っても、また元のように生活できることが多くあります。

以前、食品の検査機関の方と一緒に仕事をしたことがありました。朝から夜まで二人で行動し研究所へ戻った後、突然その方がトイレで倒れました。

彼は仰向きに倒れ、噴水のように血を吐きました。すぐに救急車の手配をお願いしました。
回りの方々は冷静に彼の状況を確認し、119番で話をしていました。

私の方は突然、瞳孔が狭まり目の前が見えなくなりました。そばにいた職員に、「椅子に座ってください」と言われ、机を前に座りました。

見えないのに、会話だけは聞こえました。吐いた血液の量やどんな血液なのか、彼の持病などを救急へ知らせていました。

しばらくして、1人の方が「稲垣さんも普通の人でしたね。」というと、回りの人たちも「そうですね。」と相づち、笑い声が聞こえました。

その時なぜか、「戦争へ行ったらまっ先に死ぬのは、自分だろう」と思いましたが同時に、「何を見ても何も感じず、しぶとく生きて帰ってくるかも知れない」という考えがよぎりました。

*その後、彼は回復しました。彼と他の職員とともに、あの時のことを「さかな」にして、時々飲んでいました。