院友会

昨日の昼、卒業生に送られてくる「院友会報」を何気なく見ていたら、越谷在住の支部長から電話がありました。

要件は、コロナ禍で中止していた國學院大學院友会(埼玉県東部)の活動を再開したい。ついては、秋に予定している講演会のテーマ・講師などについて相談したいという。日時は調整し連絡するが、何か良いテーマはないかというので、「観光まちづくり学部」の先生を呼んで話をしてもらったらどうかと提案した。

4・5年前の会合で大学の職員から、新たに「観光まちづくり学部」が設けられると聞きました。学部もスタートして数年経つと思うので、この機会に改めて設立の趣旨・目的や講義内容、どんな人材を育てるのか、学生たちの様子などを担当者に伺い意見交換が出来たらと思いました。

30年以上前の事ですが、移った会社に「海外派遣制度」があることを知り、同僚に「俺、今年アメリカに行ってくるから」と伝えると「誰でも行けるわけでは無いですよ。一次選考のレポートが通れば、2次選考(ディベート)に行けますけど…」と笑われました。

その時、私が書いたレポートの内容が「文化を売る時代」です。戦後の復興から高度成長を遂げた日本の将来の姿を予測したものです。
日本の基幹産業である鉄鋼や造船、電機・自動車等と同じように「日本文化」が一つの産業になる。フランスの「ファッション」と「料理」のように。

10数年前から「インバウンド」が本格化し、観光関連の事業は成長しています。観光ツアーで来られた各国の方が、もっと日本を知りたいと個人や家族で再来日するようになってきています。すでに、忍者・アニメ・料理・座禅・金継ぎ等さまざまな体験ツアーも行われていますが、今後より本質的な「日本文化」が求められていくと思います。

「観光まちづくり学部」が何をどこまでやろうとしているのか分かりませんが、学生たちには日本の歴史・地理、伝統、宗教、文学、芸術をはじめ産業構造や民俗学、そして日本人の死生観、自然観、まちづくりの考え方等を学んでほしい。そして、それらを通した地域の再生を担う役割を果たしていくことを期待しています。

インバウンドにも地域再生にも、SDGsの視点で取り組んで頂きたいと思っています。

夏の終わりに

朝から居間の温度は30℃近くに。少し動くと汗がにじみます。

連日の猛暑、いっまで続くのでしょうか。
外で知人に会う度に、「いやー、暑いですね。」「本当に!」と繰り返しています。

ベランダの「朝顔」が、今日は16咲きました。
小さめのプランターにいつもと同じ時期に種を撒きましたが、花が咲き始めたのは10日ほど前です。
しかも、日によって1・2つでした。

それが突然、手すりに16もの花をつけています。
嬉しくなり、「朝顔」だけでなく野菜や観葉植物・植木にも水をあげ、肥料も少し入れました。これで猛暑に耐えてきた植物の、夏の疲れが回復すると思います。

ほとんど咲くことの無かった「朝顔」が沢山の花をつける姿は、最後の力をふり絞って子孫を残すための頑張りだと思います。いよいよ夏も終わりに近づいたと感じます。
まもなく秋が訪れ、そして冬に。

気候変動と地球温暖化は年々確実に進んでいると思いますが、日本の四季はしばらく続いて行くでしょう。

産業革命から200数十年。人間の歴史の中で人々が豊かさと便利さを求め、かつてないスピードで歩んできた「変革の時代」ではないでしょうか。

人間の欲求・欲望と技術革新の力で地球の環境は大きく変わり、手の施しようのないところまで来ているのかも知れません。そして、増え続けてきた人口に水・食料・酸素の供給が追いつかない状況です。

だからと言って、人を減らすことや豊かさや便利さを捨てることは極めて困難なことです。私たちの生活を、50年前に時代を戻すことすら不可能に近いことです。

最大の環境破壊である「戦争」を止めることも出来ない世界で50年・100年後、人々をはじめ命あるものたちは、地球の環境変化にどのように適応・変化して生きているのでしょうか。

どんな地球になっているのでしょうか。

お別れ会

先日、浅草ビューホテルで開かれた「お別れ会」へ行ってきました。
大学の1年先輩、Sさんの「お別れ会」です。

7月に亡くなり家族葬は済ませたたそうですが、地域や一緒に活動をしていた方々が発起人となり、会を開きました。
受付と会場内には同じはっぴを着た20人程がお手伝いをしていました。

Sさんとは同じサークルで出会い、卒業後もお世話になりました。浅草松屋に隣接したご両親が経営する店(花川戸)には、学生の頃から出入りしていました。

彼は学生の時から浅草の「まちおこし」の活動をしていました。昭和40年代、内山栄一さんが台東区長になった後、隅田川花火大会の復活や浅草サンバカーニバル、そして墨田川を遊覧船で浜離宮へ行く水上バス就航等を区長とともに活動していた様子をよく聞きました。

私は卒業後、上野駅前のデパートに勤めていました。上野や浅草でよく酒を飲み深夜、彼のマンションに行き泊めてもらいました。墨田川に面したマンションでは三社祭や花火大会の時、サークルの仲間が家族とともに集まり、昔話と近況を伝えあいました。

昭和30年代から40年代、浅草の街は寂しい状況でした。渋谷・新宿・池袋へ人が集まるようになり、繁華街としても興行の街としても活気が無くなりつつありました。夜は早々に店が閉まり、雷門あたりでも人がまばらでした。神谷バーやアサヒのビヤホールも静かでした。

浅草(台東区)では、少子高齢化と人口減少が進み、全国に先駆け小・中学校の統廃合が取りざたされていた時期だったと思います。お店を経営されている方にも夜は浅草を離れて暮らす人がいました。

台東区長や都議会議員、衆・参議院議員の挨拶の中で、彼が三社祭りの宮出し・宮入の改善や子ども歌舞伎の復活、また地方都市の「まちづくり」や「祭り」にも係わってきたことが分かりました。参加者は浅草・上野を中心に青森から熊本まで広くから来ていました。

ずば抜けた行動力と企画・提案力で神出鬼没に行動していた様子は学生時代と変わりません。サークル活動の中で、都内の観光バス会社と折衝することがありました。バス会社の担当者に、彼のことを「あの方は本当に学生ですか」と聞かれたことがあります。

内山学校の中で「最も忠実に教えを実行した人」と言われますが、内山区長の「知恵袋」として区長を支えた一人だと思っています。

年末年始、ゴールデンウイークそしてインバウンドが話題になる時、人であふれた「雷門」の様子が伝えられます。それらを目にすると、彼の「不断の努力」を思います。

お別れ会

書き終えて保存しましたが、保存が出来ず消えました。
改めて書きますのでしばらく時間を頂きます。

小岩井農場

7月の末、岩手県雫石にある小岩井農場へ行ってきました。

百貨店で食品担当をしていた頃から一度は訪ねてみたい所でした。
小岩井の「乳製品詰め合わせ」は、お歳暮で取り扱いをしていました。当時はまだクール宅急便が無く、お中元での扱いはありませんでした。
キリンビールの代理店である明治屋の口座を使っていたように思います。

訪れたのは、小岩井農場「まきば園」です。
小岩井農場は盛岡市の北西12㎞の岩手山南麓に位置し、総面積3,000haの生産農場として農林畜産業を中心にした事業を展開。基幹事業は酪農ですが、約630haの牧草地で飼料を作り、2,300頭以上の牛を飼育しています。また鶏卵生産者向けに、「小岩井ひよこ」の生産・販売。さらに2,000haの山林を長期にわたり健全に育成している山林事業も。この他、生乳を使用した低温殺菌牛乳やナチュラルチーズ、菓子等の生産をしている食品事業。首都圏では、レストラン事業を展開。環境緑化事業では、ビルの高層緑化や河川の水辺緑化も行っています。

農場の中央エリアは「まきば園」として、生産の営みを産業観光として紹介しています。農場内の歴史的建造物21棟が国の重要文化財に指定されていますが、園内でその一部が公開されています。明治時代から昭和の初めにつくられた一号サイロ・二号サイロや牛舎、秤量剪蹄室等を見ることが出来ます。

私が最も驚いたのは、小岩井農場を作った創業者の思いと130年にわたり努力を続けてきた人達の歴史です。
明治21年(1888年)6月12日。東北本線工事の視察のため盛岡を訪れていた鉄道庁長官、井上勝が岩手山南麓に広がる不毛の原野を前にして決意したことです。「これまで鉄道開発のため失われてきた、たくさんの美田良圃。その埋め合わせに、この荒野を開墾し農地に変えたい」と。

井上勝はこの構想を大野義眞(三菱の代理人・日本鉄道会社)に打ち明け、助力を依頼。小野は、井上と岩崎彌之助(岩崎彌太郎の実弟・三菱の二代社長)を引き合わせたところ、井上の高邁な願いに岩崎は感銘し、その場で出資を快諾したという。

明治24年1月1日、井上が場主となり小岩井農場を開設。小岩井という名前は、小野・岩崎・井上、3人の名字から1字ずつ取って付けられました。

火山灰土と湿地の痩せた土地での農場経営はなかなか軌道に乗らず、明治32年岩崎彌之助が経営を引き継ぎ、防風林の植林や土地改良、排水網の整備等を実施。また、イギリス・オランダ・スイスから選び抜かれた牛を輸入し繁殖させ販売。牛乳やバターの製造技術を確立。明治32年には、牛乳の市販を開始し、明治35年には「小岩井純良バター」を販売。

働く人全員が農場に住み、制服姿で作業し、生活を共にしていたと言います。近くに学校がないため、子ども達の学校も場内に作り、皆で得意の分野を教えていたそうです。開拓団の「新しい村」のようです。

奥羽山脈から吹き下ろす冷たい西風の中で、木もまばらな不毛の原野で大農場を拓く夢を、一歩づつ実現してきた人達の努力と苦労は想像を絶しますが、サイロや牛舎のたたずまいから少し分かるように感じました。将来の農場を想像し、今、自分達が何をどこまでやるのかを理解し計画的に進めてきたことがうかがえます。

明治・大正・昭和を生き抜いてきた人達の力は、やはりスゴイと思います。
そして、小岩井農場の礎を築いた岩崎彌之助が「日本人を欧米人のような立派な体格にしたい」と考えていたと言います。

日本と日本人の将来を見据えた事業として取り組んでいたことに、ただの「政商」ではないと改めて思います。

*8/7日追記 : ホテルへ向かう時と小岩井農場「まきば園」への行き帰り、タクシーの運転手さんから聞いた話です。

①牛乳というとホルシュタイン種(白に黒の柄)を思い浮かべるが、それは昔、小岩井農場に連れてきた乳牛の中でホルシュタイン種が一番この土地になじみ、お乳が良く出たから。②小岩井農場に隣接した土地に戦後、開拓のために移住してきた人達がいる。だからその地区にはいろんな名前の人がいる。荒れた土地なので、それぞれ広い土地をもらって開拓をしてきた。今のようになるまでには大変だった。③かつては冬に、-17度くらいまで下がることがあった。しばらく前からそんなことは無くなった。