“異常気象”

“異常気象”という言葉が使われてから、相当な年月がたっています。

今年も、九州北部の記録的大雨をはじめ秋田県雄物川の氾濫、新潟でも局地的な「集中豪雨」で大きな被害が出ています。 都内でも、かつてないような大粒の「雹(ひょう)」が降りました。

『何十年ここで生活しているが初めてのことだ』『ただ、途方に暮れる』と話される方ばかりです。多くの人は、「日常」は続くと思っています。健康や災害による禍は、自身に降りかかってその恐ろしさに気づきます。また、他人の痛みや苦しみを理解し、共有するのはむずかしいことだと思います。

議員として、いろいろな問題に取り組んできました。困り果て苦しんでいる人の状況と、少し離れた人が感じる『思い』を『温度差』等という薄っぺらな言葉で表せるものではありません。

梅雨明け前から「台風」が接近したり、梅雨なのに雨が降らず真夏日が続きました。「季節」の区切りななくなってきたように感じます。これだけ“おかしなこと”が長い間続いていると、こうしたことが“異常”とは言えなくなってきました。

先日、衆議院・参議院で行われた加計学園問題の集中審議をテレビで見ていました。 加計学園もそうですが、森友学園、テロ準備罪(共謀罪)、安全保障関連法案等不十分な審議が続きました。おかしなことです。

温暖化による異常気象については、『いつでもどこでも起こりうること』と考え、備えをし心構えが出来ます。 しかし政治の異常な状況を、当たり前な「日常」として受け入れるには無理があります。 『異常なことは異常であり、おかしなことはおかしい』と思います。

皆、今の“異常気象”や“政治状況”の原因については分かっています。どうしたらよいのかも。

でも、それが出来ない・をやらない理由は、同じところにあると思います。

応援に行ってきました

昨日まで「三郷市市議会議員選挙」の運動期間でした。 16日(日)に始まり22日(土)までが運動期間で、今日が投票日になります。

期間中4日間、地方政治改革ネット(私が所属している勉強会)の仲間の応援に行ってきました。

彼女は現在5期目で、6期目の挑戦です。三郷団地に37年間住んでおり、無所属市民派の議員です。政党や団体に所属していませんので、組織はありません。一般市民によるボランティア選挙です。

朝9時から選挙カーに乗りました。マイクを持ちウグイス(男はカラス?)をやり、所々で、“街頭演説”を手伝いました。街頭演説中の標識(旗)を掲げ、候補者が演説する時の司会や候補者本人への応援演説です。前座みたいなものです。

一日に何か所もやりますので、短い言葉で候補者を紹介、褒め、「投票」をお願いします。 これがなかなか難しいもので、彼女の志や姿勢、能力、実績、人柄、魅力等を簡潔に言わなければなりません。 いかに、三郷市議会・三郷市そして市民にとって、必要かつ役立つ人かを理解、納得してもらうための応援演説です。

私には、とても難しいことです。 昨日は選挙戦最終日という事もあり、応援の議員が私を含め4人いました。東京の国分寺市、千葉県松戸市、埼玉は幸手市の議員と私です。いづれも、無所属、市民派の議員です。何十年も一人会派で活動している方もいました。皆さん、勉強されている方ですのでいろいろな視点、角度から話をされます。

同じ内容の話ても、キーワードが異なり、話し方がそれぞれ違いますが結論は一緒です。語彙が豊富で内容に深みがあります。やはり、勉強量が違うと思いました。突然、一小節を歌い、歌詞に引っ掛けて内容に入る方もおりました。ビックリしました。

多くの候補者は、6時頃から「最後のお願い」を絶叫していました。『厳しい状況なので、自分に投票してほしい』『働かせてください』と必死に訴えていました。私も昨日は午前9時から午後8時まで、選挙カーに乗っていました。我々も「最後のお願い」を訴えましたが、しっかり淡々とお願いをしました。

6時半頃、新三郷駅ローターリーに行くと、ある政党のノボリ旗がロータリー内と歩道橋(ぺデ)林立し、候補者が演説をしていました。どの候補者も最終日の駅頭は、最後のお願い・訴えをしたい場所です。交代でやるよう求めましたが、『国会議員が応援に来るので、最後(午後8時)まで使う』と拒否されました。

また期間中、標識(旗)を掲げ、“街頭演説中”にも関わらず、目の前を「連呼」して選挙カーを走らせる候補者も見られました。良識を疑います。吉川でも見られることですが、政党、候補者への信頼が薄れます。

吉川の選挙は1月。厳しい寒さで大変です。朝、駅頭に2~3時間立っていると身体が固まってしまい、歩けなくなります。三郷の選挙は7月。一日中、汗をかき大変です。選挙カーを降りて、椅子に座ると回りが揺らぐように感じる時があります。候補者も助手席で一瞬、ふあーとしてしまう時もありました。冬の選挙も大変ですが、夏もまた大変です。とにかく暑い!

選挙の応援は大変ですが、「勉強」になります。

相手に「短い言葉で正しく伝える事」は、議員にとって必要な「能力」であり、大切な「役割」です。

誰にもその「資質」はあるのでしょうが、私は『まだまだ』だと思います。

 

*ブログ更新が遅れ、申し訳ありません。24の議席に対し31人が立候補している三郷市議選、今日が投票日です。

「梅雨明け」はいつ

連日暑い日が続いていますが、「梅雨明け」はまだでしょうか。

猛烈な夕立の後、雷が鳴って、「梅雨明け」とはいかないようです。最近はよく分かりません。

6月28日から始めた「6月議会活動報告」のポスティングがやっと7月11日に終わり、昨日から朝の散歩を再開しました。 朝5時には家を出ます。すでに陽は登っていますが、早朝の風はヒンヤリとして爽やかです。

レイクタウンの調節池を2周。体操の後、木陰で休んでいると心地よい風が吹いてきます。 全身に汗をかいていますが、本当に良い気分になります。

帰り道、いつものコンビニでコーヒーを飲んでいると、「キャンピングカー」が停まりました。普段は、大型トラックや軽自動車、スポーツカー等が停まっています。大半が仕事に向かう人たちで、弁当や飲み物、スポーツ新聞、たばこ等を買い、容器をごみ入れに収めて出ていきます。

山へ行くのか海かは分かりませんが、「キャンピングカー」の屋根にはテントが積まれていました。一瞬、もう夏休み?と思いましたが、今日からの3連休(15・16・17日)を利用して出かける一家のようでした。小学校低学年の子ども2人とご両親でしょう。 どことなくゆったりとした雰囲気の中、期待感と『さあ、行くぞ』という気持ちが伝わってきました。

我が家でも子どもが小さかった頃(25年位前)は、一家そろって出かけました。夏休みは、箱根や伊豆方面へよく行きました。真鶴や西伊豆の海で海水浴。強羅に泊まり芦ノ湖で海賊船に乗ったり、奥多摩でのキャンプはバンガローに泊まり、飯ごう炊さんで川遊びを。山中湖では花火をしました。 そういえば、沖縄へ出かけたこともありました。

何と言っても、一泊二食付一人2,000円の保養所(健保組合)を利用することが多かったと思います。安くて家族的なサービスでした。

あちらこちらへ連れて行きましたが、子ども達はほとんど覚えていないと言います。

ただ、断片的に覚えているようで、『夜、雨の中、露天風呂に傘を差して入った。』、『弟が海で流された時、私が助けた。』や 『停車中、お父さんがお弁当を買いに行って帰ってこなかった(電車を間違えた)。』 『お父さんがビールを飲んだ時、つまみの「ポテトフライ」が冷たくてものすごく怒った。』等は記憶に残っているようです。

吉川の小中学校の夏休みは、7月21日(金)~8月31日(木)です。

幻の米「亀の尾」

今まで訪ねた蔵元の中で、印象深い蔵の一つは「久須美酒造」です。

新潟県長岡市の田園地帯にあります。 蔵の前には田んぼが広がり、裏山は樹齢300年の杉山です。 天保4年(1833年)の創業で、漫画「夏子の酒」のモデルになった蔵です。テレビでもドラマ化されたようですが、私は漫画もテレビも見ていません。

“中越地震”の時、裏山が崩れ山側の棟が倒壊したそうです。杉の老木が直撃し、大きな被害を受け、一時は「廃業」も考えたと聞きました。 具体的な惨状の話は忘れてしまいましたが、その時話をされた社長の姿が心に残っています。

白と黒の「建物」、田んぼの稲、杉山そして青い空。ホットする場所でした。オシャレというより上品な佇まいでした。180年前の姿が浮かんでくる、日本の美しい風景だと感じました。

蔵で働く方々も、どこかゆったりとした中に凛とした雰囲気がありました。雪景色の中、1~2℃の冷たい水で米を研ぐ姿(勿論、素手での作業)が想像されます。今、酒づくりを目指す若者(最近は女性も)があちこちで見受けられるのは、日本酒の将来にとって一つの期待です。かつて酒づくりは、“女人禁制”で蔵への立ち入りは許されませんでした。新たな時代に入ってきたと思います。

『「亀の尾」で造った酒をもう一度飲みたい』 。杜氏の一言から亀の翁(かめのお)が生まれたそうです。 「亀の尾」の種もみを探しだし、近所の農家を説得し、有機栽培で育ててもらい、出来たお酒です。

明治時代。山形県の庄内地方で「冷害」の時、実っていた稲が数本発見されたのが始めです。発見し品種改良を進めた方の名前が、阿部亀冶だったことから「亀の尾」と付けられたようです。 寒さに強く、食味が優れていることから飯米・寿司米として、また酒造好適米として人気となり、東北地方をはじめ朝鮮半島でも広く作られていたそうです。

現在盛んに作られている、「コシヒカリ」「ササニシキ」そして酒米の「五百万石」「たかね錦」のご先祖です。 「亀の尾」が作付けされなくなったのは、化学肥料に弱いという性質から、時代の中で消えて行ったのだと思います。 また、酒造好適米は大体背丈が高く、育てるのが大変だからではないでしょうか。

酒造好適米代表、「山田錦」などはその典型です。

以前、神奈川県の海老名で、やはり近所の農家の協力を得て酒を造っている蔵元で、『山田錦は背が高く、粒が大きく重いので倒れやすい。お百姓さんも最初は戸惑っていた。』と聞きました。

「久須美酒造」の、亀の翁(かめのお)や清泉(きよいずみ)はやさしい味がしました。

 

 

酒蔵

日本酒を製造している「酒蔵」が減り続けています。日本酒の消費量が減り続けているので、当然といえば当然の結果ですが。

私が新入社員として働き始めたのは昭和45年です。まだその頃は、日本酒が相当飲まれており、宴会でも最初にビールで乾杯した後は日本酒でした。 宴もたけなわの頃には、お銚子が転がっていました。

二次会は大衆キャバレーで、「一人3000円!5000円!」と叫び、ぞろぞろと入って行きました。二次会の費用は、いつも部長持ちでした。

高度成長が続き、ウイスキーの水割りやオンザロック、そしてワイン、スパークリングワイン、焼酎を飲む時代になっていきました。

何時の頃からか、店(各部)や営業本部でバスを連ねて行く社員旅行(大宴会)はなくなり、それそれの部署(室・課)でボジョレーヌーボを飲む会等に変わりました。 旅館や寿司屋の宴会場から、ホテルやフレンチレストラン、イタメシ屋へと場所も移りました。全社を挙げての「大運動会」もなくなりました。

『大切な時間とお金を使い、時間外に上司の面倒まで見るのだから当然。』と、女子社員が行きたい、食べたいところが中心になりました。 彼女らが選ぶホテルや人気のレストランは、確かに新鮮で、時代を反映している様に感じました。 宴会の主導権は、完全に男から女に変わったと思いました。

戦前の昭和15年、全国に7,000あった酒蔵ですが戦時中には統廃合されて3,160に。戦後のピークは4,021蔵(昭和30年)で、製造量は昭和48年の971万石が最大でした。

その後、蔵・量とも年々減り続けています。【*1石は180リットル、一升瓶で100本分です。1,000石で10万本、1万石では100万本です。】

平成27年(2015年)には1,500蔵です。酒造免許を保有していても、実際に酒をつくっているのは1,150位です。 製造量も、平成22年(2010年)で340万石と、ピーク時の3分の1近くに落ちました。日本酒離れが進んでいます。

なぜこれ程までに、「日本酒離れ」「日本酒嫌い」が増えてしまったのでしょうか。原因は 3つあると思います。

一つは、「三増酒」時代が続いたこと。 二つは、「食生活」の変化 。三つは、「アルコール離れ」の結果だと思います。

「三増酒」は戦時中から、平成18年(2006年)に酒税法が改正されるまで造られました。 『兵隊さん』が食べるお米が最優先の時代。少ないお米で造ったお酒の量を、3倍まで水増しすることが認められました。ブドウ糖・グルタミン酸ソーダ・乳酸等、「糖類」と「化学調味料」そして「アルコール」を添加し、2倍、3倍に水増ししたお酒です。

戦前・戦後の食糧難の時代は分かりますが、世界第2位の経済大国になっても造り続け販売をしていました。 日本酒を飲むと、「頭が痛くなる・翌日に残る」。「アルコール添加」といった悪いイメージが作られたと思います。 メーカーは儲かったと思いますが、日本酒のイメージは下がりました。

「食生活」の変化も大きいと思います。食事の洋風化です。米・野菜・魚を中心にした伝統的な和食から、高カロリー・高タンパクの食事へ急速に変化してゆきました。 ビールも辛いビール(アサヒのスーパードライ等)が好まれ、ウイスキーやワインの消費が拡大しました。「食生活」の変化は酒に対する「嗜好」も変えたと思います。

そして特に、若い世代の「アルコール離れ」があると思います。それは、嗜好と価値観の変化から来ています。 世の中や自分の将来を冷静に考え、堅実な生活を送る方が増えてきました。他人との付き合い方も変わっています。 世界は狭くなり、いろいろな刺激と楽しみを選べる時代です。『自分の趣味や楽しみにお金を使いたい』と考え、「酒を飲む楽しみ」の比重は低くなったようです。また、私たち団塊の世代を含め諸先輩たちの、「酔っぱらう姿・振る舞い」がダサいと映っていたように思います。

古くから世界中に「お酒」があります。それぞれの民族は、その土地で採れたものを使って「酒」をつくりました。大麦の取れるところでは「ビール」、ブドウの出来る所は「ワイン」、日本ではお米を使って「日本酒」。どの民族も、最も気候・風土に合った酒を造ってきました。寒い地域では、大麦・小麦・ライムギ・じゃがいも等で「ウオッカ」。「テキィーラ」は竜舌蘭(サボテンではありません)です。酒と神との関係、酒づくり、楽しみ方等、それぞれの民族・地域の文化だと言えます。

 

「日本酒」づくりは、複雑で手間がかかる繊細な仕事です。使う原料米や仕込の時期が同じでも、その年によって品質・味が違い、気候も違います。精米歩合、白米の吸水量、使用する水・麹、しぼり等により違ったものになります。

「日本酒」の市場は、成熟し寡占化された市場です。この先、消費量と蔵元がどこまで減るのか分かりませんが、「日本酒」に対する国内での「見直し」と海外での「評価」が急速に高まっています。

今なお頑張っている蔵元にお願いしたい。こだわり(独自性)を持った酒を柱に、少量多品種の商品を開発し、世界を相手に美味しい「日本酒」を造り続けて頂きたい。

酒づくりは、日本文化の魅力の一つだと思います。