卒業式

先週は吉川美南高校と東中学校へ、今週は三輪野江小学校の卒業式に出席しました。
それぞれ本当に良い卒業式でした。

吉川美南高校は、Ⅱ部定時制の課程を修了した49名の卒業式です。Ⅰ部全日制・定時制の式は、議会開会中でしたので出席出来ませんでした。

卒業文集に、高校生活3年、4年を振り返っての思い出や経験、将来の夢等がつづられています。
友人、先生、授業、仕事等、そしてそれらを通して学んだことが書かれています。
人間に対する理解の深さと人生を切り開いていこうとする前向きな姿勢に、大人の風格を感じます。

東中学校は、4クラス157名です。第57回の卒業証書授与式ですが、卒業生の累計数は9,728名です。

校長の「式辞」も心のこもった話でした。在校生「送辞」の時には卒業生に贈る歌、そして卒業生「答辞」の時にも歌が入りました。
卒業生の歌は、友との別れの寂しさと将来への決意を表明している様でした。言葉の力と同じように歌の力の大きさを感じました。

三輪野江小学校は、23日(木)が卒業式でした。
35名の卒業生に校長は、『石割り桜』の話をされました。

硬い石を割り、やがて大地に根を張り花を咲かす桜の木。
環境のせいや人のせいにするのでなく、ひたむきに努力していけば、やがて固い石も割れる。
素直に、ひたむきに生きることが人生を花開かせる。

35人だと1クラス。1年~6年まで同じクラス。家族・兄弟みたいに、お互いの性格や強み・弱みを知りつくしているのかも知れません。喜びや悲しみを共有し、強いきずながあるのかも知れません。
それだけに、人間関係での問題が解決できないときは困ったことになります。しかし、小さな学校では学年を越えて見守りがされている様に思います。先生も生徒もほとんど顔見知りです。

生徒数の多いマンモス校は活力があります。元気です。生徒も先生も互いに競争し、ダイナミックな力を感じます。反面、目が行き届かないところがあったり、画一的な指導・管理になりがちです。

小規模校にも大規模校にも強み、弱みがあるのは当然だと思います。要はそれぞれの良さを活かすことだと思います。

土井晩翠作詞の校歌2番に、「明治6年基をおき…」とあります。144年前に開校した三輪野江小の卒業生は6,000名余だそうです。平均すると毎年、40名位の卒業生を送り出してきた学校です。

三輪野江は、子どもの数が減り続けている地域です。伝統と地域の資産を生かした特色ある学校として、これからも地域の核、吉川の顔として歴史を重ねてほしいと思います。
旭小学校にも言えることです。

久しぶりに『千疋』へ

朝の散歩の帰り道、越谷レイクタウンから、『千疋』へ行き、吉川駅南口から帰ってきました。
以前ご紹介した、銀座千疋屋の名前の元になっている千疋です。現在は、越谷市東町ですが、元々は『千疋』というところです。

吉川駅南口から中川に沿って八条橋方向に向い、600m程の所にオレンジ色に塗られた橋があります。
吉川と越谷を結ぶ水道管が架けられた橋です。

その橋の手前(越谷側)一帯が千疋です。伊南理神社があります。
神社の石灯籠の上の部分は、6年前の東日本大震災で崩れ落ち、現在は新しいものが載せられています。

下の部分を見ると、この地域に住んでいた方々の名前が刻まれています。圧倒的に多いのが、『立澤』さんです。他の名前は吉川でもよくある名前です。

寄付をされた方々のお名前が刻まれ、土台には金額が彫られています。寄付の最高額は20円ですが、1円まであります。制作の日付はありません。

土台が同じ形状のもので、石で彫ったキツネが社の前にあります。
そこには、明治39年11月 吉川平沼 石工 鈴木初五郎
とあります。

刻まれた名前から、鈴木さんだけでなく吉川在住の方々と中川を挟んで、つながりがあったことをうかがわれます。

見るたびにいつも思うことですが、吉川の石工、「鈴木初五郎」さんは名工だと思います。

キツネは夫婦のようです。メスの方には、お腹の下と背中から子どもが覗いています。オスの方は毬に手を掛けています。

本物のキツネをしみじみと見たことはありませんが、キツネの雰囲気がよく出ていると思います。ぜひ一度、ご覧頂きたいと思います。

似たようなキツネを伊豆の下田で見ました。江戸時代、ペリーが来る前からあった小さな神社です。

いろいろな所で神社にあるキツネを見ますが、作られた時代により姿形、雰囲気が違います。

やはり、その時代の背景、人々の思いが込められている様に感じます。

3.11から6年!

東日本大震災そして福島第一原子力発電所の事故から6年を迎えました。

18,000人を超える死者・行方不明者を出し、福島・宮城・岩手の町が壊滅的な被害を受けました。

今なお、仮設住宅に暮らす方やふるさとを離れて避難生活を送っている方々がいます。

災害に強い街をめざし、100年に一度の巨大津波を想定した巨大な防潮堤の建設・かさ上げ工事をはじめ、盛り土工事や住宅の高台移転を進めています。

おそらく、道路や橋、港の岩壁の補修も進み、漁港に係わる
製氷や冷蔵・冷凍施設、加工場等の建設が終わり、一歩づつ復興が進んでいると思います。

見た目には大きく変わっている様に思いますが、ここ数日のテレビやラジオそして新聞等の報道からは、被災者の中には、「何も変わっていない」と感じている方がいるようです。その方々の悲しみ、苦しみが伝わってきます。当事者でなければ分からない悲惨の大きさに、言葉がありません。

とりわけ、福島から避難をされている方々からは、「避難解除」が出されても、どうすべきか悩み、もがき苦しんでいる状況が伝わってきます。

一昨年の5月、いわき市の先にある広野町・楢葉町・富岡町へ行きました。被災地スタディツアーで、地元の議員に案内をしていただきました。
海に近い所から内陸(山)へ入るほど、所々に設置されたモニタリングポストの数値は上り、マイクロバスの車内に持ち込んだ線量計は激しく鳴り響いていました。住宅の除染は進んでいましたが、家と家の間にある雑木林や空き地の線量は高く、戻ってもとても生活出来る状況ではないと感じました。

5年前、2週間程、宮城・岩手の被災地に行きました。海の近くの街はどこも家がなく、地盤沈下により水が溜まり草が生い茂っていました。亘理から名取、多賀城、塩竈、松島、石巻、本吉、気仙沼、陸前高田、釜石、大槌、山田です。
たまに、お風呂の浴槽や門柱に埋め込まれた標札があり、住居があったことをうかがわせていました。
海岸の松林も、この世とは思えないような光景で、一本だけ残った木が印象的でした。あちらこちらに、『がれき』が積まれていました。木材・コンクリート・鉄・プラスチック類、車とオートバイ等。そして、まだ分けられていない『がれき』の山もありました。

高台へ移転した市や町のプレハブ庁舎へ行き、復興計画を中心に話を聞きました。都市計画関係の部署には、東京や関西、全国の市から応援に来ている職員が目立ちました。

電車が止まっている区間は臨時バスやタクシーで移動し、町の中は徒歩か自転車で一日中動きまわっていました。

ホテル・旅館は満杯で、風呂もない民宿のような旅館にも泊まりました。お陰で、銭湯の中や食堂で夕食を取りながら、津波か来た時のことやその後のことを聞くことが出来ました。
仮設住宅へも行きましたが、地震や津波のことはあまり話しませんでした。「話したくない」ように感じました。
地震が来る前の生活や町の様子、そして今の生活について話しを聞きました。

石巻だったか、釜石だったか?(釜石だったと思います。)どこの宿も取れず、風呂の無い宿に泊まりました。埼玉県川口から来ている親子と一緒でした。娘さんと父親の二人でした。美しいハーフの娘さんと風采の上がらない父親でした。私が『風呂に入れないのは困りましたね』というと、親父さんが、『1日位なんでもありませんよ。皆さんのことを思えば』と言われました。美しい娘さんは黙って微笑んでいました。

私は、なぜこの親子はここに来ているのだろうかと考えました。おそらく、未曽有の大災害の現実を娘さんに見せたかった、感じさせたかったのだろうと思います。人間の『生きる』ということを見せたかったのだと思います。

現在進められている自然災害に対する備え、まちづくりの復興計画・事業について、私は別の考え方を持っています。
簡単に言えば、『自然を受け入れたまちづくり』です。
今進められている100年に一度の災害に、巨大な防潮堤を作って防ぐという考え方には賛同できません。
知恵を使えば、もっと安く・早く・生活に便利な復興は出来ると思っています。

どの市・町でも、『もともと、特に若い人の流失が激しい人口減少地域。この地震・津波でさらに流失が加速している。』、『働く所はあるが、若い人が働きたいと思う仕事がない。』と一様に言われました。

これまでの復興を見ると、最も根本的な人口減少・流失に対する政策・取り組みがないと感じます。

高台移転や盛り土をしても、次に続く働き手がそこに住まなければ、子どもたちの声が聞こえなければ、町の復興・発展には繋がらないと思います。

今進められている復興計画・事業に満足するのは、土建・建設業者と中央の官僚、政治家だけかも知れません。

もっといいまちに!いい議会に!

昨日、久しぶりに朝の散歩でレイクタウンに行ってきました。

5時過ぎに家を出て吉川橋の仮橋を渡り、レイクタウンの調整池を2周。池のほとりで自己流の体操をし、帰り道にコンビニでコーヒーを飲みながら、コンビニに来る車と客を眺める。いつものパターンです。

変わったことは、日が昇る時間が早くなったことと寒さが和らいできたという事です。ついこの間まで、6時半頃まで薄暗く寒さも厳しく感じていましたが、6時には明るくなってきます。風や空気も暖かくなりました。
外気温0℃、地中の温度17℃と住宅展示場にある温度計は示していました。

午後再びレイクタウンへ行き、映画を見ました。映画も久しぶりです。『ラ・ラ・ランド』です。
土曜日という事もあってか、イオンシネマのロビーには人があふれていました。

上映の1時間前に自動発券機で購入しましたが、空いている席がほとんどありませんでした。アカデミー賞でいくつかの賞を受賞し話題性もあったようです。
広めの劇場での上映でしたが、座席は一杯でした。

大学を中退し女優を目指しているミアが、ある日ジャズバーでピアノを弾くセバスチャンに出会い、恋に落ちます。二人の夢と葛藤を描いたラブストーリーです。
『ミアは6年間、何度もオーディションを受けていますが芽が出ません。ピアニストのセバスチャンは、いつかは本物(古き良き時代)のジャズを弾く「ジャズバー」を開く夢を持っています。

セバスチャンは、生活の為にジャズバンドに加わり全米ツアーに行きます。ミアは「一人芝居」に挑戦しますが失敗。
女優の夢をあきらめ、傷つき実家へ戻ります。セバスチャンの所へ一通の電話が入ります。「一人芝居」を見に来ていた映画製作者からの電話です。

5年後、ミアは大スターに。結婚し子どももいます。ある夜、夫と車で出かけた時、高速道路の渋滞にはまります。予定をあきらめ一般道へ降り、たまたまあった「ジャズバー」へ入ります。
そこには、ピアニストのセバスチャンがいました。』

この先はラストシーンですので、ご自身でご覧になるか、この先の「展開」をご想像ください。

この映画は、「あきらめない」「夢を持ち続ければ、いつかは叶う」ことを物語にしています。
私は必ずしも、いつかは叶うとは思いませんが、「挑戦し続けること」は大切だと思っています。

9年間、私の名刺には、『もっといいまちに!いい議会に!』と書いてあります。
昨年の選挙での政策ビラには、『もっと、きっと、いいまちに!』とあります。
私の夢の一つは、吉川市議会を『いい議会に!』していくことです。

現状は、「まだまだ・もう一歩」の感がありますが、あきらめることなく進めてまいります。

3月議会に臨み、決意を新たにしています。