江戸川水防演習

昨日は市内小学校6校の春季大運動会(旭・三輪野江小は秋9/21予定)でしたが、午後からは「水防演習」へ参加しました。会場は江戸川運動公園(吉川地区)で、主催は江戸川水防事務組合です。

江戸川水防事務組合は、春日部市・三郷市・吉川市・松伏町で構成していますが吉川地区での開催でしたので、吉松消防組合を始め吉川市消防団、吉川市危機管理課等が中心になって準備、訓練を実施しました。

服装は、「帽子・防災服・編み上げ靴」という案内でしたので、議員になって最初に支給された(議員の互助会で購入)防災服を着用して行きました。
生地が薄く、1月の「出初式」の時などは寒くてしょうがありませんでしたが、今回は役に立ちました。4年前に支給されたものは厚手で冬用の感じですので、とても暑くて着ていられません。

春日部・三郷市は厚手、松伏町はシャツで涼しげでした。どこもオールシーズン用ですので季節によっては、困ることもあると思います。災害時だからそんなことは言っていられないということもありますが、実際に活動する時の装備の一つですので、準備することは必要だと思います。安全靴の着用もその一つだと思います。

今回の演習では、1災害情報無線通信 2水防工法 3水難救出救助が主な訓練でした。1と3は以前、見たことがありますが水防工法は初めてです。

訓練想定は、台風による激しい雨の影響で江戸川が増水し洪水警報(江戸川氾濫危険情報)を発表。江戸川はいつ氾濫してもおかしくない状況の中、人的被害を未然に防ぐため水防団が出動し、堤防の強化を図る水防工法を実施するもの。

水防工法訓練は 、①竹とげ・杭ごしらえ ②土のうごしらえ ③木流し ④五徳縫い ⑤積土のう ⑥月の輪で、これらを実際に消防団(分団毎に担当)が行いました。

土のうを作ったり積み上げは、分かりますが、木流し・五徳縫い・月の輪は初めて聞く言葉でした。いずれも堤防を強化するための工法で、過去の経験から受け継がれている方法のようです。実際に見てみると、成る程と思う工法もあれば本当に効果が期待できるのかと考えるものもありましたが、歴史の中で実証されているものだと思います。

真冬の深夜や早朝、激しい風雨の中での作業となることもあり得ます。いつ起こるか分からない災害に備えるということは、本当に大変なことだと改めて実感した訓練でした。

望月衣塑子

望月衣塑子(もちづき いそこ)、東京新聞社会部記者。

森友・加計学園事件の取材チームの一員として取材しながら、官房長官会見で質問を続けている記者です。

時には、菅(すが)官房長官へ20回以上の質問を重ね、会見が長時間にもなることもあり、官邸の方々からは余りこころよく思われていない方です。
本質は、隠したい・聞かれたくない・話したくないことをしつこく質問されることが嫌で、目障りな存在だからだと思います。

政治部中心の記者クラブの中で、それまでの慣例にとらわれず突撃取材を繰り返すため、総理秘書官や官邸報道室から質問制限や妨害を受けてきました。

望月記者に対し、「取材する側」からも批判があります。仲間内の約束ごとや空気感を無視し、質問を通じ事実を追及する姿勢に、『一人だけ良いかっこをするな』『俺たちのムラを荒らすな』という雰囲気です。無視されたり、政権側に忖度して「自主規制」するように圧力を受けることもありました。

勿論その逆もあります。望月記者に続いて、さらに突っ込んで質問を重ねる他紙の記者もいます。

昨日(18日)の午後、おあしす 多目的ホールで望月衣塑子さんの講演会があり、行ってきました。9条の会@よしかわが主催で、2周年のつどい・記念講演で、チラシには、望月記者が見る『憲法9条とこの国の平和』とありました。

望月さんのお話しを聞くのは初めてです。細身の小柄な方で、2時間近く早口の高い声で全身を使ってのお話しでした。
これまで社会部記者として、首都圏の県警、東京地検特捜部を始め経済部、社会部遊軍(ゆうぐん)で、歯科医師会の闇献金疑惑や防衛省の武器輸出、詩織さんレイプ事件そして「モリ・かけ」等の取材を通しての思いです。

官邸重視、国会軽視が進む中、いろいろな疑惑の中心に『安倍首相』がいることや、トランプ大統領と進める日米軍一体化、米国製兵器の購入と武器輸出、辺野古埋め立て県民投票、入管法強行採決等の問題を通して、権力との向き合い方、国の将来とメディア・記者の役割について語りました。

その語り口は、東京生まれだそうですが、大阪のおばちゃん予備軍のような印象を持ちました。

個人的にいくつか聞いてみたいこともありましたが、質問時間の関係で伺えませんでした。望月さんの本を2冊(*新聞記者・武器輸出と日本企業)購入してきましたので、その中に書かれているかもしれません。

質問の一つは、菅官房長官に質問を続ける意味と心の持ちようについてです。いつも木で鼻をくくったような態度で、決まり文句を繰り返し、一方的にやりとりを遮断する菅手法です。それでも、めげずにやり続ける気持ちについてです。

「市議会」も同じです。やり続けなければ真実は見えず、続けることで変わって行くのだと思います。

*「新聞記者」は映画化され、6月28日(水)より上映されます。主演はシム・ウンギョンと松坂桃李です。

*遊軍でも仕事をしていたということですので、取材力は勿論、記事を書く能力も相当高いと思います。遊軍は、大きな事件や大事故・大災害時に応援に入るメンバーです。フットワークの良さと相手から信頼される人柄でなければ務まらない部署です。

*更新がⅠ日遅れました。申し訳ありません。

「10連休」の最後に

「10連休」の最後5月6日(月)、甲府へ行ってきました。
平成2年夏に引越しをしてきて以来、四半世紀、同じマンションで一緒に過ごした方の「お墓参り」です。
お彼岸に行くことが出来ず、この時期になりました。

入居された時は、国鉄を定年退職し関連の会社にお勤めされていたと思います。北葛飾郡吉川町で、深井町長の時代です。

初代の区長(自治会長)やっていただいたり、管理組合の役員等をお願いしました。310世帯のまとめ役でした。

区長として地域や町の会合に出席する際、いながきさんも「一緒に行って」と誘われ、私もついていきました。お互いに初めての土地で、新鮮で驚くことが沢山ありました。

しばらくして、「町長選挙」がありました。その時、我々も吉川の住民なので、『候補者がどんな「まちづくり」を考えているのかを聞きましょう』ということになり、二人で演説会を企画しました。

当時、ほとんどの入居者が子育て中の現役世代で、吉川は寝に帰ってくる所という感覚でした。しかし、子ども達にとっては吉川が「ふるさと」になる所ですので、私たちはもっと町への関心を持たなければいけない。という思いでした。

現職の深井町長と対立候補(齋藤さん)から直接その主張を聞き、その上でそれぞれの判断で「投票」してもらう機会になればよい。と考え実施しました。
演説会の案内には「吉川のことをもっと知ろう。座布団もって集合!」そんなチラシを配りました。

平成29年10月、その方はガンで亡くなりました。
私の「後援会長」でした。
ホスピスの病棟で、最後まで私の心配をして下さった方です。

旧田中家住宅

仕事が一段落しましたので、今日、旧田中家住宅と埼玉県立歴史と民俗の博物館へ行ってきました。

博物館(大宮公園下車)では、特別展「東国の地獄極楽」 ー地獄極楽をめぐる旅ー が開催されています。5月6日までですが、間に合いました。

旧田中家住宅は昨年10月20日、朝日新聞埼玉(東部)版に国の重要文化財に指定される見通しという記事が載り、気になっておりました。

川口市末広町にある旧田中家住宅は、県内唯一という木造煉瓦造り3階建ての洋館と、木造一部2階建ての寄せ棟屋根をのせた数寄屋造りの落ち着いた建物(和館)です。洋館は大正10年3月に起工、10月に上棟し12年に完成。和館は昭和9年1月起工、5月上棟です。

建てたのは4代目田中徳兵衛です。2代目徳兵衛が材木商と麦みその醸造を始め財を築きましたが、4代目徳兵衛がさらに家業を発展させ、巨額の富を築きあげたそうです(東京や千葉・新潟等に100万平方メートルの土地を所有)。4代目は家業の他に、埼玉味噌醸造組合理事長を始め県議会議員、貴族院多額納税者議員にも就任しました。

「田中徳兵衛」という名を初めて聞いたのは、30年位前です。丸井が初めて上野店で、「食品売り場」を開設するということで、その準備のため上野にいました。百貨店時代の職場が食品売り場(酒担当課長)でしたので、配属されたようです。

当時の「田中徳兵衛」さんの会社概要を見ると、BMWの正規ディーラーや自動車教習所等をやっていたので、オモシロイ会社だと思いました。さらに興味深く感じたのは、「味噌汁」を提供するお店をやっていることでした。確か、「みそーる」という名前だったと思います。

日本人にとって「味噌」は古くから使ってきた基礎調味料で、「醤油」も「味噌」から生まれました。日々の生活に欠かす事の出来ない代表的な発酵食品の一つで、健康食品です。

「みそーる」は必ず成功すると思っていましたが、うまく行かなかったようです。
時代が早すぎたのかも知れません。

今、やるとすれば美味しい「ごはんとみそ汁」を基本にして、美味しい「お漬物(糠漬け)、梅干し、海苔、たまご、豆腐、かつお節、醤油等」をチョイスする定食が良いと思います。多分、どこかでやっていると思いますが。

*【5月5日追記】 川口というと一昔前は、「キューポラのある町」で鋳物工場が沢山ありました。赤羽に住んでいた頃、時々川沿いの工場を外から見ていました。真っ赤な鉄が流れ出る様子を近くで見ることが出来ました。

江戸末期のころから味噌作りが行われていたようですが、この地区で味噌醸造業が発展したのは原料となる良質な麦が取れたことと、水質の良い豊富な水あったことです。そして世界一の大都市であった消費地「江戸」に近かったことです。また、芝川沿いにあったことで水運にも恵まれていました。明治・大正・昭和の時代、味噌醸造は発展し栄えてきました(10工場)が、戦後しだいに生産は減少し、昭和50年頃にはほとんど行われなくなりました。

*田中邸の設計監督技師は櫻井忍夫(さくらいしのぶ)です。京都東本願寺本堂を建築した宮大工の九代目伊藤平左衛門平作について建築法を修め、三菱合資・東京電気鉄道・東京倉庫を経て独立した建築家です。58歳の時に設計した小岩井農場本部事務所が現存しています。機会があれば、ぜひ見に行きたいと思います。