川崎春彦

川崎春彦さんが亡くなりました。

10月5日の読売新聞には、「日本画家の川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんが2日、老衰で死去した。89歳だった。告別式は…」とありました。

父親の川崎小虎(かわさき・しょうこ)と義兄の東山魁夷に学び、主に日展を中心に活躍されていました。 代表作の「朝明けの湖」など、力強い色彩による自然の生命力あふれる風景を描いていました。

我が家に団扇(うちわ)があります。40年以上前のものですが、川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんの作品を基に作られたものです。

そこには、「朝明けの草原」が描かれているように見えます。草原の彼方から朝陽が出る前の風景です。手前の湖に光が複雑に反射しています。夜明け前の藍色の空と、草原、白い光、遠くに小さな木があり、鳥が数羽飛んでいます。 また、夏の日の「夕立」後の風景にも見えます。激しい夕立の後、暗い空の切れ目から光が草原と湖にそそいでいるようにも見えます。

いずれにしても、動きのある自然を描いており、じっと見ているとその場所にたたずんでいるような錯覚になります。描かれた世界に引きこまれそうです。

何年間続けたかは覚えていませんが、夏のご挨拶として「粋筋」にお届けしていました。 普通の団扇の倍以上の大きなもので、裏には百貨店の名前が入っています。 柳橋や新橋の料亭で、旦那方に芸者さんが「やさしく」扇いでいたと思います。

川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんにお願いしたのは、当時社長だった川崎千春(かわさき・ちはる)の親戚だったからだと思います。川崎千春は京成電鉄の社長でしたが、百貨店の社長も兼ねていました。デパートの包装紙も紆余曲折がありましたが、最終的に東山魁夷の作品から作られました。

「川崎天皇」と言われていたワンマン社長で、絶大な権力を持っていました。成田空港への乗り入れや東京ディズニーランドの開設は、あの方がいなければ出来なかったことだと思います。

我が家にはもう一つ、下保昭(かほ・あきら)さんの水墨画を使った団扇(うちわ)があります。独創的な水墨画の幽玄美で知られる方ですが、今年の8月15日に91歳で亡くなりました。岳父は日本画家の小野竹喬(小野・ちっきよう)です。

団扇(うちわ)を見ていると、昔を思い出します。一緒に仕事をしていた同僚や上司のこと、そして川崎千春(かわさき・ちはる)社長に対し、『お辞めください』と言った自分のことを。

*川崎小虎(かわさき・しょうこ)の祖父は、大和絵画家の川崎千虎(かわさき・ちとら)。尾張藩士で徳川家に仕えた代々浮世絵師の家柄。

「人間ドック」

爽やかな朝を迎えました。

我が家のベランダから「富士山」が見えます。雪に覆われています。手前には、奥多摩から丹沢連峰が連なっています。秋の深まりが少しづつ進んでいると感じます。

4日間続けて「9月議会報告」のチラシを配っているせいか、今朝は5時まで寝ていました。

昨日は30,793歩でした。1時間も歩くと全身に汗をかきますが快適です。夏と比べると同じ時間で倍以上のチラシを配布できます。

それにしても、1週間が本当に短く感じます。毎週、ブログを更新していますが感覚としては昨日書いたばかりという思いです。更新当日の朝、布団の中で『何を書こうかな』と考え、思いついたことを書いてきました。普段、考えていることや気になることを書きとめ、いくつか用意しておけば、毎土曜日に悩まずに済むとも思いますが出来ません。

昨日の朝は、「街の様子」を伝えようかなと思いました。2~3か月に一度、ポスティングで2週間近く街を歩きます。アパートの一室へも届けます。街は常に変化しています。そこに住む人の暮らしや思いも変化しているように感じます。歩く中で、見聞きする様子は今の姿です。

数日前、アパートの一室で片づけをされている方からは、『おばあちゃんが亡くなったの。それで片づけに来ている。』『役に立たなくてごめんね』と言われ、自宅の前にたたずむ老人からは、『家の中に人がいる』と入ろうとしない。いろいろ話かけるが、かみ合わない。玄関から何度も声を掛けると、「父親」を介護されている家族の方に、静かに頭を下げられました。「認知症」の父を抱え、疲れているように見えました。

介護の現実を知らされます。歩くことで、いろいろなことが見えてきます。そんなことを書こうと思いましたが、どうも気持ちがのらず今日を迎えました。今朝思ったことは、昨日届いた「人間ドック」の結果、「健康診断ファイル」についてです。

今月の初め「人間ドック」を受診しました。10年ぶりのドックです。東急の大岡山にある「東急病院」の1日コースです。会社にいる頃は毎年、健保の施設で受診していました。何か異常が見つかると、「再検査」を受けなければなりませんでした。再検査で嫌だったのは「胃カメラ」です。苦い麻酔薬を喉にためて麻痺させ、カメラを入れますが、食道と胃が異物の侵入を阻止しようと抵抗します。今回のドックでは最初から胃カメラでの検査でしたので、少し不安でした。

「東急病院」では問診時に相談があり、麻酔の注射をしましたので眠ってしまいました。全く検査の様子は覚えていません。ドックの最後に速報のデータを基に、医師からフィードバックがありました。

「健康診断ファイル」には、基本検査とオプションで実施した検査結果一覧と担当医のコメント・アドバイスが書かれています。看護士からの生活指導もあります。この他、医療機関への依頼状も同封されています。

ショックだったのは、オプションでやった「健康年齢」でした。実際の年齢より「高い」という結果でした。毎日測っている「タニタ」のヘルスメーターでの「健康年齢」は、実年齢より20歳も若く表示されています。

どう考えても、「タニタ」より「ドック」の方が正しい。と思うと余計に悔しくて、この1年ガンバッテ、来年も「ドック」を受ける決意です。

 

 

 

 

 

渡邊恒雄

一昨日、池上彰さんの〈夜間授業〉「“戦後”に挑んだ10人の日本人」に行ってきました。 第5回「渡邊恒雄」です。

池上さんが選んだ、「渡邊恒雄(ナベツネ)」も、やはり毀誉褒貶(きよほうへん)の人だと思います。

これまで、「ナベツネ」と聞くと余り良い印象がありません。 数年前に起きた清武の乱。渡邊会長のコーチ人事への不当介入を告発した、清武英利読売巨人軍球団社長を解任したことやプロ野球再編騒動の渦中、古田敦也選手会長が会談を求めていると聞き、『たかが選手が』と発言する等。そう思ってしまいます。

配布された「渡邊恒雄」年表によると、1945年(昭和20)東京帝国大学哲学科に入学。7月5日、陸軍2等兵として世田谷三宿の砲兵連隊に入営。終戦後復学し、12月日本共産党に入党。1947年(昭22年)9月、*氏家齋一郎、上田耕一郎、堤清二らとともに「東大新人会」を設立。党から分派活動と批判され、離党届を提出し除名処分となる。とあります。

1950年(昭25)読売新聞社に入社。週刊誌「読売ウイークリー」に配属。51年(昭26)「天皇像を描く」で局長賞。52年(昭27)「日本共産党山村工作隊の潜入ルポ」を執筆。本紙社会面に掲載され、政治部へ異動。

68年(昭43)政治部次長に就任。12月ワシントン支局長に就任。72年(昭47)帰国。編集局参与。75年(昭50)編集局次長兼政治部長。創価学会と日本共産党の「創共協定」をスクープ。78年(昭53)江川卓投手「空白の1日」事件処理に奔走。79年(昭54)取締役論説委員長に就任。83年(昭58)専務取締役論説委員長。85年(昭60)専務取締役・主筆兼論説委員長。87年(昭62)取締役副社長主筆・経理・調査研究担当。90年(平成2)代表取締役副社長主筆・調査研究担当。1991年(平3)読売新聞社第11代代表取締役社長・主筆。横綱審議委員会委員に就任。96年(平8)読売ジャイアンツ(巨人軍)オーナーに就任。

2002年(平成14)読売新聞グループを再編成。持ち株会社「読売新聞グループ本社」代表取締役社長・主筆。04年(平16)グループ本社代表取締役会長・主筆。08年(平20)旭日大授章受賞。14年(平26)巨人軍取締役最高顧問。16年(平28)グループ本社会長を退き、代表取締役・主筆に就任。

年表だけ見ると、出世街道を順調に歩んできたように見えます。実際には社内の派閥や権力闘争、そして政治家との関わりの等、いろいろな絡みの中で役職、役割を勝ち取り積み上げてきたことが分かります。

今でこそ発行部数日本一の「読売新聞」ですが、戦後30年位まで日本を代表する新聞は「朝日」と「毎日」でした。「読売」は、弱小新聞で、正力松太郎(元警察官僚・衆議院議員)迎え、発展の基礎を築きました。渡邊が入社した当時の社内は、「社会部王国」と言われるほどで、いわゆる「きったはった」の3面記事が得意な新聞でした。当然、「社会部にあらざれば、人にあらず」だったと思います。

そんな中、「政治部」で仕事をし、次々とスクープ(特ダネ)を取り実績を上げる程、「社会部」との摩擦も嫉妬も起こってきます。さらに「政治部」でも、それぞれの記者が自分が担当する政治家(派閥の長・親父)を首相にしたいと考えるので、政治部内での対立が生まれます。

1968年(昭43)12月、ワシントン支局長に就任しています。「外信部」ワシントン支局長は花形のポストで栄転と見えますが実際は、佐藤・反佐藤の社内抗争に敗れた結果の左遷でした。左遷された渡邊恒雄に近づく人はおらず、苦しい時を過ごしたようです。

政治記者としては、大野伴睦の信頼を得、盟友・中曽根康弘内閣実現のため田中角栄の支持を取り付けるなどに動いています。社内での地位が上がり、権力を持つにつれ保守派の論客として、読売新聞の政治的方向性をはっきりさせてきています。

1991年(平3)に代表取締役社長になり、94年(平6)に発行部数が1,000万部を突破しました。「憲法改正試案」を発表したのはこの年でした。安倍総理が、詳しくは「読売新聞を読んで」と言い、前文科省事務次官前川喜平氏が「出会い系バー」で女性と関係があった。との記事を一面に掲載しました。時の内閣と新聞との関係を考えるとよくないと思います。読売社内では、動揺が広がり転職をする方もいたと言います。

文章の達人であり、政治家との信頼関係を築き、スクープをものにする記者として、そして経営者として発行部数を伸ばし、政権への影響力を持つ「ナベツネ」ですが、彼が去った後の「読売新聞」はどうなって行くのでしょうか。

マスコミの3悪人と言われた、「朝日」の三浦甲子二(みうらきねじ)・「NHK」の島 桂二・そして「読売」の渡邊恒雄氏に共通するものと異なる所は何なのか、興味深いテーマです。

*「読売」を代表する二人、渡邊恒雄氏と長嶋茂雄氏の体調がかなり良くないと伺いました。厳しい状態のようです。

*氏家齋一郎(うじいえせいいちろう):渡邊の朋友で、元読売新聞常務・日本テレビ社長。上田耕一郎(うえだこういちろう):元日本共産党副委員長、元議長の不破哲三は実弟。堤清二(つつみせいじ):元セゾングループ(西武百貨店・西友ストア・パルコ・ファミリーマート・無印良品等)代表。作家、辻井喬(つじいたかし)は、ペンネーム。

*前文科省事務次官前川喜平氏の問題は、「週刊新潮」や他紙が事実関係を報道。政権側の「印象操作」に加担した「読売新聞」の責任が問われるとともに、イメージダウンに繋がることに。

 

「三訓の教え」

以前、橘曙覧(たちばなあけみ・たちばなのあけみ)について書いた時に、気になる言葉がありました。

「三訓の教え」です。

橘曙覧が子ども達に残した、『うそいうな ものほしがるな からだだわるな』という言葉です。 「だわる」は福井の方言で「なまけること」だそうです。

一言でいうと、『正直 知足 勤勉』です。『正直』は、約束を守りなさい・卑怯なことはしてはなりません。『知足』は、足るを知りなさい・欲望は身を滅ぼします。『勤勉』は、骨身を惜しまず働きなさい。という意味でしょう。

もう少し考えると、『正直』は、人に対しても自分に対しても、そうしなさい。『知足』は、身の程をわきまえ、生きなさい。『勤勉』は、容易な方へ流されず、より難しいことに挑みなさい。と言っているように思います。

橘曙覧(たちばなあけみ)については、*以前にも少し紹介しましたが、江戸末期の歌人・国学者で、越前(福井)の人です。

赤貧の中で詠んだ、「たのしみは朝おきいでて昨日(きのう)まで無かりし花の咲ける見る時」にもあるように、日常の生活全てを楽しみに変えてしまう「生き方」を通した人です。

また藩主松平慶永(春岳)の覚えも愛でたい人でしたが、春岳が出した使いに、「仕官」を辞退したと言います。

「三訓の教え」が子ども達に、「このように生きなさい。」と言っているのか「私はこのように生きて死んだ。」と言っているのか分かりませんが、本当に実践することは、当時でも今でも難しいことだと思います。

「そのようにありたい」と思い、願う、気持ちはあるのでしょうが貫きとおすことは至難です。今の時代、人から「食べ物」と「住まい」を取り上げたら、3日で乞食になると言います。橘曙覧が生きた時代の「貧困」がどのようなものか分かりませんが、「そのように生きた人々がいた」ことに、改めて人間の「強さ」を思います。

難しい「生き方」だからこそ、「三訓の教え」として残したのではないでしょうか。

*2018年7月28日のブログで、橘曙覧について紹介しています。

【10/7追記】:与えられた人生。「自分に正直に、多くを求めず、成長しなさい」ということだと思いますが、同時にどんな「生き方」をしようが、「自然」や「歴史」の中では、「とるに足らぬ」こと。権力や富・名誉そして、幸福も不幸も、「一瞬の夢」だと言っているようにも感じます。