小さな旅

昨夜11時半に寝たせいか、今朝3時半に目が覚めました。

起きてバタバタする訳にもいかないので、しばらくそのまま布団の中で『もそもそ』していました。

5時に家を出ました。久しぶりの「散歩」です。

くすんだオレンジ色の月が、濃いブルーの空に輝いていました。ついこの間まで暗闇の世界だったのに、足元を照らす懐中電灯なしで歩ける明るさです。いい朝です。

3月議会は20日に終わりましたが、吉川市議会で初めての当初予算「減額修正(案)」提出もあり、忙しい議会でした。

 議会終了後も、小学校の卒業式や議会広報委員会等への出席、3月議会報告チラシ(会派及びいとう・いながき)の作成をかなりのスピードで行いました。

このひと月、議会中心の生活でしたのでほとんど「散歩」をしていません。今月は20万歩程度で終わりそうです。

久しぶりの「朝の散歩」。随分と春めいてきたと感じました。夜明けの時間、木々の芽吹き、冬の冷たさとは違う爽やかな空気、『新緑』の季節も間近です。

レイクタウン調節池の一角に、ビオトープゾーンがあります。遊歩道からは、木々の間に池の水面が見えます。水面(みなも)は朝陽を浴び、キラキラと輝いています。道路側を見上げると、『しだれ桜』の並木が続いています。木の下には『雪柳』が隙間なく繋がっています。桜(染井吉野)は散り始めてきましたが、『しだれ桜』はもう少し楽しめそうです。少し濃いピンク色の花びらが綺麗です。

輝く水面、しだれ桜、雪柳の中にいると、自分がまるで別世界にいる様に思います。遠くの土地に来ている様に感じます。そして、『名人』と言われたお花の先生に、『偉くなったり、お金持ちになることも幸せかも知れませんが、身近な花や木々で「季節の移ろい」を感じられることも幸せではないですか』と言われたことを思い出します。

 

 

 

 

 

せともの

日本中で、「せともの」と言っていたのかどうかは知りませんが、東京では、「焼き物(陶磁器)」の総称として「せともの」と呼んでいたと思います。どこの町にも「せともの屋」はありました。

店の看板には「せともの」と書かれていました。茶わんや急須、花瓶に火鉢そして湯たんぽ等、家庭で使う実用陶器は皆、「せともの」と言っていました。 私の中学時代までは、駅弁と一緒に売っていた「お茶」も容器は焼き物でした。

『瀬戸(愛知県)』が代表的な製陶の中心地であり、いかに『瀬戸』の陶磁器が東日本で広く流通していたかが分かります。

日本での陶磁器の歴史は、中国や朝鮮と比べると数千年遅れて発展したと言います。縄文土器、弥生土器、須恵器の時代が長く、平安の後期から 、瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、備前で作られました。六古窯と言われています。

瀬戸の起源は、加藤四郎左衛門景正による中国製陶法の招来とされています。道元禅師が貞応2年(1223年)宋に渡った時、従者として渡宋し、禅修業の傍ら製陶の修業をし安貞2年(1228年)帰国後、瀬戸(尾張)に窯を築き、中国風の陶器を焼きはじめたのが起源とされます。

美濃、唐津、萩、京、伊万里、色鍋島、古九谷等は室町・桃山時代後半からです。美濃では、志野、黄瀬戸、織部、古伊賀等、京では仁清、乾山等です。信長や秀吉そして千利休が茶会を催していた時代です。

利休七哲の中で、異色の存在が古田織部。信長・秀吉に従って戦い、戦功によって三万五千石の大名になった武士です。利休について茶道を学び、極意を伝授されました。利休の死後、茶の湯の名人とよばれ、家康や二代将軍とも交流がありましたが、大阪夏の陣・冬の陣で豊臣側に内通した疑いで切腹となりました。

織部焼は斬新でデザイン性、創造性に富んだ焼き物です。形、文様とも自由で独創的で、今見てもモダンでアートだと思います。丸・三角・線の幾何学的図形の大胆な組み合わせの文様、型にとらわれない造形、濃い緑、信じられない程です。織部は、千利休の『侘び・寂び』とは対照的な世界のように感じますが、時の権力者によって「切腹」となったのは何とも不思議な事です。

志野、黄瀬戸とともに「織部」は好きな焼き物の一つです。

それにしても、相当前から「せともの屋」さんを見かけません。いつ頃から無くなってしまったのでしょうか。

 

 

 

「濱田庄司」

「太陽」という雑誌で、荒川豊蔵や加藤唐九郎を知り、備前や志野、織部、黄瀬戸、信楽そして古伊万里、古九谷の美しさに驚かされました。

志野や織部の斬新なデザイン、色づかい、草花の絵付け。こんなものが、信長や古田織部の時代に作られていたとは信じられない驚きでした。

大学が渋谷にありましたので、根津美術館や駒場の日本民芸館へはよく行きました。 日本民芸館では、柳宗悦、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司たちが創めた民芸運動に出会い、人が生活のために使う器や道具に興味をもちました。

かつては、衣・食・住に係わるものは全て、自然のものを利用していました。 食生活に必要な、お椀・箸・まな板・桶やひしゃく、ざる・かご、石臼、瓶(かめ)やお皿等、それぞれの土地で身近にある木・竹・石そして土を使って作られています。 かつて、つくられた物や伝統の技を受け継いでいる物を見ると、改めて、人間の知識と知恵、豊かな感性に驚きます。

益子へは2人(私と妻)で時々行っていました。結婚する前の方が多かったと思いますが、街をあちこち歩き、窯元をのぞいていました。 濱田庄司をはじめ島岡達三、加守田章二等、有名な方々が活躍していましたが、若い作家も移り住んできていました。

濱田庄司の*美術館が出来たと聞いて訪ねてみました。小さなところでしたが、二人でしばらく見ていると、そこの責任者らしき人が、濱田庄司さんの工房を見せてくれると言う。

登り窯や工房の中を案内していただいた。 そこで制作している様子が直に、伝わってくるような感じでした。そして、印象的だったのはどの場所だか覚えていませんが、家具が無造作においてあったことでした。

朝鮮の箪笥に日本の舟箪笥、イギリスやヨーロッパのテーブルと椅子、南米、アフリカのものもありました。沢山ありました。 案内をして下さった方からは、濱田庄司は収集家としても一流で、世界中から家具だけでなく、陶磁器やいろいろな物を集めている、と伺いました。

私が感じたのは、いろいろな国や地域、時代も異なっているのに「違和感」がないことでした。不思議な場所でした。 それは、『人が生活のために使うものは、シンプルで機能的で美しい』からだと思いました。

*正しくは、濱田庄司記念益子参考館です。その後古民家や蔵、門なども移築しており、参考館の規模も拡大されているそうです。何十年も行っていませんので、また行ってみたいと思います。

*荻窪駅西口に「いづみ工芸」という店があり、濱田庄司や島岡達三の作品をはじめ、全国の焼き物や民芸品を販売していました。結婚するまで荻窪(実家)にいたので、時々のぞいていました。オモシロイ物をいくつか買いましたが、現在は何一つ残っていません。

「川上澄生」

初めて、「川上澄生」の名前を知ったのは、40年以上前のことです。

版画家「棟方志功」について書かれた雑誌で、「川上澄生」の名前を目にしたか、あるいはTVコマーシャルの中で、川上澄生の「南蛮船」の版画を見た時だと思います。どちらが先かは思い出しません。

棟方志功は若い頃、「油絵」を描いていましたが、ある日、川上澄生の「初夏の風」を見て「版画家」になったそうです。棟方志功に衝撃を与えた、川上澄生の「初夏の風」はどんなものなのか知りたいと思いました。

テレビコマーシャルで流された「南蛮船(人?)」を見た時、私も衝撃を受けました。川上澄生の「南蛮船(人)」とともに、『タバコ渡来す。これ悪魔のわざか…』のナレーションが入りました。確か、サントリーウイスキーの宣伝だったと思います。 それ以来、関心を持ち続けています。

宇都宮(鹿沼)で開催されていた、「川上澄生」の版画展へも時々行きました。

本は、神田の古本市(店内の催事)で見つけていました。手元には、手刷り木版画付き全集(14巻)と古本が少しあります。版画の付いていない全集は、妹が欲しいというのであげました。

たまに、見たり読んだりしますが、いつ見ても新鮮でいい版画だと感じます。心が落ち着きます。

「川上澄生」は横浜・長崎・銀座、南蛮や文明開化の風俗をテーマに多くの作品を残しています。アラスカの風景や北海道のアイヌに係わるものもあります。当時の日本人が南蛮や文明開化を目にしたときの素直な驚きと憧れが伝わってきます。懐古的で詩情にあふれた眼差しで、人や建物、街かどや自然の風景そして物を見つめています。木版画だけでなくガラス絵、詩、絵本等いろいろなものを制作しています。我が家で使っていたトランプの絵には、着物姿の日本人や暮らしの中で使う道具等が描かれていました。ユーモアのセンスもあります。

どの作品にも「川上澄生」の発想の豊かさと表現に驚かされます。そして詩情と優しい感性に、『日本人』を感じます。

議会が終わり一段落したら、4月Ⅰ日から再開する(現在改修工事中)鹿沼の「川上澄生美術館」で、ゆっくりと実物を見たいと思っています。

*川上澄生  明治28年横浜に生まれ3歳の時、東京青山へ移転。大正4年20歳で母を亡くし、その後父の勧めでカナダへ渡りました。アラスカへも行き、缶詰工場(鮭缶のホイットニー)の人夫として働きました。大正7年に帰国。大正10年、栃木県立宇都宮中学校(現宇都宮高校)の英語教師になりました(大学は青山学院)。木版画の制作は大正元年ですが、本格的に始めたのはこの頃です。前回ご紹介した、「初夏の風」は宇都宮時代の作品です。生徒から付けられたあだ名は「ハリさん」。髪の毛がハリネズミのようだったそうです。本人は、「ゑげれすいろは人物」の中で自らを『へっぽこ先生』と言っています。昭和13年に結婚し、太平洋戦争が始まった昭和16年に学校を退職。昭和20年、妻の実家がある北海道へ疎開。苫小牧中学で教鞭を取りながら、アイヌの風俗や北海道の自然をテーマに制作。昭和23年、ふたたび宇都宮へ戻り、県立宇都宮女子高校の講師となりました。戦後の作品は南蛮と文明開化がテーマです。昭和47年9月没。77歳でした。

【追記3月12日】*「初夏の風」 ピンクのドレスを着た若い婦人が左手に日傘を持ち、右手は帽子を押さえています。スカートか風を受け、ふくらみ傾いています。彼女の周りを抽象化された風が覆うようにエメラルドグリーンで描かれています。代表作の一つですが、現存しているのは2枚だそうです。この他に、別の婦人と思われる方の版画があります。成熟した感じの女性の姿が逆の構図で描かれ、詩は「われはかぜとなりたや」で始まります。単色(墨)で刷られた作品です。また、宇都宮時代に制作した「初夏の風」の女性だけを描いた版画もあります。

 

 

春一番


3月Ⅰ日、昨年より12日遅い「春一番」。強い南風が吹き、関東地方にも春が来ました。東北や北海道では、「数年に一度」の猛吹雪となりました。

晩夏の午後、吹く風に秋の訪れを。吹き寄せられた「落ち葉」に木枯らしの季節を感じます。「もう」・「いよいよ」・「やはり」という感覚です。

子どもの頃、プールの帰り道。生暖かい風に「夕立」を予感しました。黒い雲、大粒の雨、突風と雷。それが終わると何もなかったのように広がる、「夏の空」でした。

山では、下山途中に大きな木がそよぎます。そんな時、『地球』は生きていると感じます。

ボブディランが「風に吹かれて」を歌い、五木寛之は「風に吹かれて」を書きました。私が最も好きな「風」は、川上澄生の「初夏の風」です。 版画に詩が彫られています。ご紹介します。

     「初夏の風」    

かぜとなりたや    はつなつのかぜとなりたや    かのひとのまえにはだかり    かのひとのうしろよりふく    はつなつのかぜとなりたや    はつなつのかぜとなりたや

出来ることなら、生きたいる間、「風を感じられる」人でありたいと思っています。

*更新が遅れました。申し訳ありません