大型連休

今日からG・W、大型連休が始まりました。
普通の方は、5月1日・2日を休むと9日間の連休になります。早速テレビでは、海外へ出かける家族の行先や過ごし方を空港で聞いていました。

サラリーマン時代、G・Wに休んだり紅白歌合戦を見たことはありません。連休や年末年始、祝祭日は仕事でした。そのせいか、今でもG・Wや祝祭日に休みたいとは思いません。紅白歌合戦も見ません。

一般の方がお休みの日は、電車も空いており通勤が楽でした。行楽シーズンの日曜・祝日に家族づれを見かけると、通勤時の殺気だった厳しい表情はなく皆、穏やかなお父さんお母さんになっていました。そんな様子を見るのも好きでした。

百貨店では、土日・祝日は休んではいけない日でした。学生時代の友人の結婚式などで休む時は、事情を話し、相当前から予定を入れておりました。チェーンストアに移った後は、本社勤務がほとんどでしたので水・日曜日が休みでした。祝日は出勤日でした。祝日は、忙しいため店舗からの相談・報告もなく仕事に集中できました。年末年始の繁忙期や大きな売り出しの時は、土日、祝日は店舗応援に行くこともありました。

棚卸の応援や検査員として、ローカル店舗へ行くのは楽しみの一つでした。棚卸前日の夕方から店へ入り、店内を見て回りました。本社で一緒に仕事をしたり、他部署にいた知り合いの社員に店の様子を聞いたりしていました。夜は、店の社員が普段行きつけの店で美味しい魚を食べながらそんな連中と一杯飲んで話をしました。店長・副店長と一緒に盛り上がる時もありましたが、翌日の棚卸のチェックは厳しく行いました。

帰る前、一番美味しい名産品とそれを売っている店を聞いて買って帰るのも楽しみでした。静岡のわさび漬け「スーパーホット」は絶品でした。

 

議員生活も10年目に入りました。「人が休む時に働き、人が働く時に休む」生活から、決まった休みのない生活になりました。議員には決まった休みはありません。当然だと思います。議会中はともかくそれ以外では、自分の都合ではなく相手に合わせて動くべきだと思っています。

ここ数年、いろいろな相談が寄せられますが、それを貫かないと相談者の本音や信頼が得られないように感じています。問題解決へ向けての第一歩であり、それがなければ関係者と話が出来ません。それはまた、利害が反する相手との関係でもいえることだと思います。

 

 

 

上野駅

またまたNHKの朝ドラで恐縮です。「ひよっこ」のシーンで「上野駅」が出てきました。
ドラマでの撮影は、実際には上野駅ではありませんでしたが、昭和40年頃の駅の映像があったように思います。

私は昭和45年4月~62年1月まで上野に通勤をしていました。駅前の百貨店に15年間、残りの1年間はチェーンストアです。どちらの開店にも関わりました。
「上野駅」が東北や上越への玄関口だった頃の時代です。

「上野」は社会人になって初めて仕事をし、16年間働いていた所ですので、思いで深く懐かしい所です。妻と初めて出会い、結婚するまでの間、同じ百貨店で過ごしたところです。

その頃の「上野駅」。旧盆には、地方から東京に働きに来ていた方や東京が新たな「ふるさと」となった方々が帰省するため、駅前のテントに徹夜で並んでいました。その集団は、まるで民族の大移動のようでした。身近な人達の間でも、『切符が取れない!誰か、国鉄の関係者を知らないか』等という会話がありました。年末には、駅もアメ横そして街に人が一杯で、大晦日の賑わい、喧噪はものすごいものでした。
食品売り場の売り上げは、12月31日が年間で最大でした。

また、お花見の上野公園もすごかった。3月の後半から4月前半は桜の季節です。
花見の時は、前日からビールを大量に冷やし、大量のつまみを用意していました。
社員自ら、焼き鳥やイカを焼き販売をしました。味付けも社員がやりました。仕入は原材料分だけですので、かなり儲かりました。

今では許されないことですが、お中元・お歳暮そしてこのような大イベントの時は、日常の品減り(品耗)を埋めるチャンスでした。当時は年間の品耗率は3厘と決まっていました。

帰省されるお客様の手土産も大量に売れました。文明堂のカステラが、まだ温かい状態で納品される程、売れました。宅配便の普及で、東京土産を帰省先へ送る方が増え、直接持って帰るのが少なくなりました。時代とともに、点数が減って行きました。親戚中に配っていたお土産が、家族中心になって行ったのだと思います。

新幹線の東京駅乗り入れにより、乗降客数は少なくなっていったように思います。

昭和40年代の後半、紳士服売り場にいました。開店直後にスカートにハイヒールを履き、口紅をつけた男性客が来ました。事情を聴いてみると、村の仲間たちに『お前、東京に行くのにそんな恰好をしていたら笑われるぞ。東京に行くんだったらスカート履いて、口紅くらいつけてなければバカにされる。』と言われ、『この格好で来た。』と言う。

来てみたら、皆そんな恰好はしていないしジロジロ見られる。それで、スラックスやシャツの売り場でキョロキョロしていたようです。隣りの売り場責任者に事情を話し、売れ残っているカジュアルパンツとシャツを値下げして販売。着替えてもらった。パンツの裾直しは、リペアへ持って行き、『15分でやって』とお願いした。全国の高島屋と系列店で販売していたものだったので、それなりの商品だったと思います。靴をどうしたのかは、はっきり覚えていませんが、同じようにしたと思います。

『今朝、亭主と別れてきた。掃除の仕事はないか』という夫人も来た。店には、いろいろな人が来られた。

昭和50年代中頃、9階のレストラン街・各階の喫茶、屋上(ビアガーデン・ペットショップ・盆栽)を管理する担当をしていました。夏の暑い時でした。一人の青年が、『冷房の効くところで休ませてもらえませんか。犬と一緒に歩いていたが、この暑さで犬が弱ってしまった。どこか涼しい所で休ませたい。』と頼まれた。羽田に着いてホテルを探したが、泊まれるところがなくて上野まで来た、とも。沖縄から来た青年で、『犬を連れてアメリカへ行くところ』だという。アメリカ軍人の家庭で、「ハウスキーパー」をしていたが、その一家はすでに帰国している。犬は検疫の関係で遅れて連れて行くことになった。という。彼は、16.17歳に見えた。

9階の事務所に案内し、犬と青年に休んでもらった。しばらくすると突然、犬の具合が悪くなり死んでしまった。完全に動かない。青年はオロオロ、私もビックリ。

『まずは電話をしたら。飼い主に事情を話した方が良いのでは。』と言い、電話を貸した。『She  is dead』とかなんとか話していた。動物の死体は、飛行機に乗せられないだろうと思い、動物の火葬場を調べると、板橋区(北区だったかも)にあることが分かった。そこに、場所や時間、料金を聞き、青年に伝えた。

そして、食品売り場のアイスクリーム店とレストラン・喫茶店でドライアイスを持っていそうな所を回り、ドライアイスを集めた。氷はいろいろな所で製氷機を使っているので沢山ありますが、ドライアイスは毎日、必要量が届けられていました。とりあえず、各店から最低限を残して借りることにし、追加手配をお願いした。

犬をビニールの袋に入れ、ドライアイスと氷で冷やすようにし、段ボールの箱に入れ持ち運び出来るようにして青年に渡しました。

翌日の午後、青年が事務所に私を訪ねてきました。今日アメリカへ行く。お世話になったと言って、箱に入った「巨峰」を置いていきました。その翌日だったと思います。冷蔵庫に入れておいた「巨峰」を箱をから取り出すと、大きな粒は枝から外れ、机の上や床に転がって行きました。

青年がなぜ、「ハウスキーパー」をしているのか、何を目指しているのかは分かりません。

「巨峰」の粒を見ながら、飼い主の所へ遺骨を届けた後、彼はどうするのだろうか。ふと、そんなことを考えました。おそらく、2度と会うこともない方だと思いましたが、今のガンバリが、『将来のいい人生に繋がる。そうあってほしい。』と思いました。

*当時、アメ横で売られている物の中には粗悪品もありました。猫も、またいで通るという「猫またぎサケ」。10帖1000円のかみ切れない「海苔」。箱から出すとバラバラになる「巨峰」もその一つでした。

*この頃、かつて見た風景や聞いた言葉、匂い等に出会ったとき、それまで全く考えていなかった出来事や人の姿を突然思い出すことがあります。やはり、歳のせいでしょうか。

 

 

 

入学式

今週は「入学式」に出席しました。
10日(月)、午前中は東中学校へ。午後は吉川美南高校Ⅰ部全日制、定時制。夕方からはⅡ部定時制です。
11日(火)は中曽根小学校へ。

今年は、満開の桜の下での「入学式」でした。開花以降、雨や風の日がありましたが、寒さのせいでしょうか、長い間咲いていたように思います。ただ残念なことに、11日(火)は雨でした。小学校の1年生ですので、少しかわいそうな気がしました。

確か、下の娘だったと思いますが、入学式がやはり雨でした。妻がタクシーを呼んで(我が家には車がないので)学校に行くというので、私が、これから毎日学校へ行くのだから歩いて行くべきだと言って言い合いになったことを思い出しました。結局、どうしたのかは覚えていません。

東中学校は今年58回目の「入学式」。男子82名、女子84名の計166名。5クラスです。齋藤 勉校長(退職)に代わり前田 稔校長が挨拶。話しの中で、『中学校では、生きていくための「基礎」を学び、同時に「学び方を学ぶ」。また、自ら学び行動することが大切。』と語った。「学び方を学ぶ」というのは、その通りだと思った。他人に教えてもらう・まねをする・自ら考える・自分で調べる・議論する・観察する・自らやってみる等、いろいろある。どのようにやるにせよ、人との関係性が出てくる。それらを含めての学び方だと思う。

吉川美南高校Ⅰ部全日制、定時制は、今年で第5回の入学式です。1年は7クラス、207名。女子125名、男子82名です。内田 靖校長は、新入生に期待することを3つを挙げた。①学習に取り組む ②部活動への参加 ③学校行事への参加。これらを通じて、自ら考え、行動する力。粘り強さ。真剣さを養い、楽しさを実感してほしい。との期待です。

Ⅱ部定時制では、定時制の強みは「多様性」にある。年齢、経験も違い、個性豊かないろいろな人がいる。「個性」は「質」であり、多様性」の中で「学び方を学ぶ」のが定時制の強み。と語りました。29年度の入学者は69名。28年度の卒業生は49名。

Ⅱ部定時制の入学式で、制服を着ていたのは5~6人程でした。皆、自由な服装での出席です。何人かは仕事帰りで遅れてくる方も。外国人と思われる生徒もⅠ~2割いたように思います。こんな雰囲気が、定時制なのかもしれません。少し大人びた頼もしい印象の1年生でした。式を見守る方々(保護者というのか?)の温かい「まなざし」の中、短めの入学式は終わりました。

大変だと思いますが、全員卒業してほしいと思います。

中曽根小学校の1年生は、3クラス78名です。市川 俊行校長が春日部市へ転出され、後任に新井 一弘校長が三郷市から着任。式は、同礼から始まり開式の言葉、国家斉唱、一年生担任発表並びに呼名、校長式辞、教育委員会祝辞、来賓祝辞、来賓紹介並びに祝電披露、六年生お祝いの言葉、職員紹介、閉式の言葉、同礼で終わります。1時間近くかかりますが、1年生の限度は40分位のように見えました。

13日(木)は「福寿家」での、小中学校・教育委員会管理職歓送迎会へ出席しました。

 

感激、喜びの日

昨日のNKK朝ドラ、「ひよっこ」で、初めて「カツサンド」を食べる家族のシーンがありました。

東京オリンピックの前、東京へ出稼ぎに来ていた父親が、稲刈りに合わせて帰省する前に初めて食べた「ハヤシライス」。その店(洋食屋)で頂いた「カツサンド」を夕食時に、家族とともに食べる様子です。

子ども達も、初めて見る「カツサンド」に感激し喜びを隠せない。箸でつまむ。初めての味に感激するがそれ以上に、久しぶりに父親が帰り家族皆で食卓を囲める幸せを噛みしめている。

舞台は奥茨城の村。父親が働いているのは、東京の霞が関。ビルの工事現場での仕事。出稼ぎ、集団就職の時代です。

何時だったか、はっきりとは覚えていませんが、私が初めて食べて感激したのは「ロースハム」でした。

子どもの頃食べていたのは、「ソーセージ」でした。マルハ大洋漁業のソーセージ。原材料は魚肉です。生のままでは美味しくありません。フライパンに油をひき、焼いて食べていました。また、「プレスハム」とか言ったハムも。原材料は豚肉です。少し厚めに切ったハムを焼くと中の脂身が溶け、醤油をかける結構美味しいものでした。「ベーコン」と言えばクジラのベーコンでした。

当時、日頃の食卓に並ぶものは野菜と魚です。魚はアジ・サバ・イワシ・ニシンそしてマグロです。焼いたり煮たりが中心ですが、マグロは刺身でした。普段は、ホンマグロの「ぶつ切れ」です。マグロも今ほど高級品ではありませんでした。
野菜は、大根、カブ、ホウレンソウ、小松菜、白菜、キャベツ、玉ねぎ、人参、ゴボウ、ジャガイモとサツマイモ、ハス、トマト、山芋等。

野菜と魚が中心の食生活でした。肉はクジラと鶏、豚肉。牛肉を食べることはなかったと思います。
湯豆腐やふろふき大根、コロッケ、メンチカツ、カレーライス、ハヤシライス、おでん。イワシのつみれも。そばやうどん、すいとんも食べました。
寿司や大皿に盛った刺身の盛り合わせ、天ぷらそば等はお客様専用でした。

今はたいていのものは、食べることが出来る時代になりました。トマトやイチゴをはじめ、いろいろな物が一年中売られています。いつでも、なんでも食べられる時代ですが、「季節」を感じることがだんだん少なくなってきています。

店頭に並ぶものは、規格化され姿・形も美しく整っています。しかし、旬の物でないものはやはり味や香り、旨みが違います。

これまで、いろいろな物を食べてきました。しかし、子どもの頃食べた「豆腐」や「マグロ」のような美味しさに出会ったことはありません。

戦後の貧しい時代。お腹を空かせている子どもにとっては、「何でもおいしく感じた」のだろうというのもあると思います。

でも、それぞれに味や香りがあり、美味しいものでした。人参は人参臭く、トマトはトマト臭さがありました。アジ・イワシ・さんまも美味しく感じました。食卓に上る魚、野菜は「旬」の物でした。「旬」の物が最も多く出回り、安かったからです。

いつでも、なんでも食べられる時代。私たちは、一つの豊かさを手に入れたことは確かです。しかし、味のない『トマト人間』が増えてきたことも確かだと思います。

 

 

第22回吉川なまずの里マラソン

第22回「吉川なまずの里マラソン」が今日、開催されました。
参加者(エントリー)は、6,285名。北は北海道、南は四国の愛媛から。吉川市内からは、1,792名(28.5%)の方が参加されました。

今年は有名人の招待選手はおりませんが、友好提携市、岩手県一関市室根町とのマラソン交流で2名の選手を迎えました。女子ハーフマラソン40歳以上の部と男子10km40~50歳代の部に参加していただきました。

吉川市からは、今大会参加者の中から抽選で4名(市内在住18歳以上)を一関国際ハーフマラソンに招待します。

開会式は、おあしす野外ステージで午前8時15分から始まりました。我々議員もステージ上で主催者や市長の挨拶を聞きながら、マラソンに参加される方々を見守っておりました。
天候にも恵まれ、爽やかな空気の中での和やかな式でした。
最初のスタートは、ハーフマラソンの部が9:00からで、最も多い2,616名。最後は2km(車いす)32名でした。

スーパーイイダの交差点、横断歩道の手前がスタート位置。そこでスタートを見送りその後、県道加藤平沼線で走者やボランティア、沿道の人々の様子を見ていました。

毎回思うことですが、こうした「催しモノ」は、何と言っても「参加者」と「天気」です。参加者がいなければ話になりません。悪天候では開催出来ません。
沿道での声援も、天気が何よりです。自宅前、一家総出でランナーを見守っている家族や椅子に座った老婦人も楽しそうでした。

二つ目は、準備、そして三つ目が運営です。
特にこうした大掛かりな催しは、事前の準備とボランティアの力が必要です。1,300人の市民ボランティアの協力がなければ到底出来ません。

平成8年4月7日の第1回大会は、吉川市の市制施行を記念したマラソンで、『市制施行記念 第35回 吉川ロードレース大会』となっています。参加者数は、2,729名。
以前、吉川ロードレース大会は、元旦にやっていたと聞いたことがあります。その頃も大変だったと思います。

翌年の第2回から、「吉川なまずの里マラソン」になったようです。参加者数3,402名。パンフレットには吉川駅前の金のナマズが写っています。

これまでで中止になったのは、第16回(平成23年4月3日)「東日本大震災」の影響と第18回(平成25年4月7日)「悪天候」のため。でした。

「二分咲き」の桜も今日の暖かさで、見ごろになってきたと思います。皆様、大変お疲れ様でした。

*ブログの更新が遅れました。申しわけございません。