明日は「ワクチン接種」です

明日6月27日(日)、市民交流センター「おあしす」で第1回目の「ワクチン接種」を受けます。

持ち物は①ワクチン接種クーポン券②本人確認書類(運転免許証、健康保険証など)そして③ワクチン接種の予診票です。

先程、クーポン券と予診票を記入しました。クーポン券は1回目・2回目の予約日と接種会場を書き、予診票には一緒に送られてきた●「新型コロナワクチンの説明書」を読んで、効果や副反応についての理解●現在、かかっている病気と治療・投薬●薬や食品で、重いアレルギー症状(アナフィラキシーなど)を起こしたことがあるか等の質問への回答(YES・NO)です。

最後の覧に「新型コロナワクチン接種希望書」への記入があります。
そこには、医師の診察・説明を受け、接種の効果や副反応について理解した上で、接種を希望しますか。(□希望する ・□接種を希望しません)のどちらかにチェックを入れ、日付と名前を自署するようになっています。

「ワクチン接種」は、国民の努力義務ではありますが最終的には個人の判断で行うことですので、「新型コロナワクチン接種希望書」への署名を求めていると思います。接種体制等に重大な瑕疵がない限り、自らの判断、責任で行ったということになると考えられます。

これまで、インフルエンザの予防接種や肺炎球菌ワクチンなどを接種したことはありません。栄養補助食品をとることもありませんでした。
今でも、自分の身体の免疫力や消化吸収力を信じています。

「ワクチン接種」でどんな副反応が出るのか、また、ワクチンが本当にコロナウイルスに有効なのかは分かりません。私の身体の中で、ウイルスに立ち向かえるものとなるのかどうかも分かりませんが、明日は1回目の接種に行ってきます。
                      *接種後にまた報告をします。

6月27日追記: 午前中、「おあしす」に行き1回目の「ワクチン接種」を受けてきました。

おあしす入口には、接種予定者がホール入口横にある受付までに30人程が並んでいました。10分位で受付に着くと、予約確認と本人確認が行われ、その後、問診票のチェックを2回受けました。2回目は看護師によるチェックでした。

ホール入口を入ると、接種会場入口までにまた30人位並んでいました。会場へは2人ずつ入り、医師(2名)による問診と問診票の最終確認が行われ、その後ワクチンの接種を看護師(3名)から受けました。ここまでで30分程でした。

クーポン券に予防接種済証が貼付され、次回の案内を頂きました。会場内で15分間待機(着席)し、副反応がないことを確認し退室しました。

ワクチン接種は、針を刺した時に少し「チクッ」としましたがワクチンを注入している時の痛みは感じませんでした。腕(肩)の方は5~6時間後から、時間とともに重たくなり痛みを感じます。


東雲

先日、有明の東京ガーデンシアターへ行ってきました。

吉川駅から武蔵野線で東京行きに乗車。新木場でりんかい線に乗り換え、国際展示場駅で降りました。あたりの変貌ぶりに驚かされました。

国際展示場の一つ手前に東雲の駅がありました。
東雲と書いて「しののめ」。懐かしい地名です。

東雲には、小学校へ入る前から家族と一緒に行きました。釣りが好きでしたので、釣り好きの親父と二人で行くことが多かったと思います。確か、東京駅から都バスに乗り銀座や築地あたりを通って行ったような気がします。

海には材木がたくさん浮かぶ貯木場が広がり、砂浜もありました。陸側は何もない草原で、セスナ機の飛行場があり時々飛んでいました。
貯木場の岸壁で竿を下すと「ハゼ」が釣れました。時には大きな「ウナギ」が掛かることもありました。釣り上げると、青黒いウナギで針を外すのが大変でした。

砂浜の方は、50m程先の海に丸太だったか石の杭があり、そこに「牡蠣」がびっしりとついていました。美味しい「牡蠣」でした。
海に入りじっと立っていると、「ハゼ」が足の下にも潜り込んできます。ぎゅと抑えて、手で捕まえますが、あっという間に数十匹は確保できました。

潮が引いた後の砂浜には、「カレイ」や「ハゼ」が取り残されています。海側の砂を1カ所掘り下げると海水が海に流れ、取り残された手のひらより小さい
「カレイ」や「ハゼ」を面白いように捕まえることが出来ました。

昭和30年前後の、ゆりかもめやりんかい線、東西線もない時代でした。
日本の「高度成長」がまだ始まる前の貧しい時代でしたが、自然は豊かでした。

一日、海で遊び、セスナ機を見て食料も調達してくる我が家(私)のレジャーでした。

イオンタウン吉川美南

イオンタウン吉川美南東街区が昨日(6/12土)、グランド゛オープンしました。

オープンに先立つ6月7日(月)、増床した東街区の内覧会へ行ってきました。イオンタウン㈱開発企画本部スタッフの案内で隅々まで見せて頂き、話を伺いました。

イオンが所有している開発用地の利用計画については以前から、伊藤議員が開発企画本部の担当者と意見交換をしていることから、内覧会へのご案内を頂き会派4人で見学に行きました。

当初、見学は1時間程度と考えていましたが説明を受け質問したり、「食」のコーナーで試食などをしましたので、1時間半ほど店内におりました。

私が見た印象は、「よく出来ている」と感じました。

隣にある「越谷レイクタウン」と新三郷の「ららぽーと」との差別化を意識し、吸引力のあるテナントを導入、雰囲気も変えていると思います。イオンタウン吉川美南(西街区)は、年間300万人の利用があり、東街区のグランド゛オープンで600万人を目指すそうです。倍増するかも知れません。

特に関東初出店の、1階アクアイグニス(武蔵野温泉)「癒しと食の複合温泉リゾート」は、天然温泉とフードゾーンの組み合わせが良いと思います。提供される食事の内容と食事場所に工夫がされています。温泉施設の入館料は確か650円(平日)だったと思います。近所の方にも気軽に来てもらえるよう価格を抑えたといいます。700人以上は入れるそうですが、コロナが落ち着くまでは入館者を半分にするそうです。

スイーツは、パティシエ辻口博啓氏のル・ショコラ・ドゥ・アッシュがあります。カカオ豆の焙煎機導入は日本で初めてだと聞きました。こだわりのチョコレートとケーキを工房で作っています。

アクアイグニス2階の「食」空間ゾーンは、奥田正行のイル・ケッチァーノ(パスタ&ピザ)、菰田欣也の麻婆点心館、金沢まいもん寿司そして、辻口博啓氏のマリアージュドゥファリーヌ(パン)があります。いずれも埼玉初の出店で、近隣商業施設との差別化が出来、集客力が見込めます。

少し心配なのは、温泉とこだわり食ゾーンの他にその倍以上あるスペースでの集客です。フードコートや物販とサービスの店舗が入る予定です。まだ一部のテナントがオープンしていませんので、なんとも言えない所もあります。魅力的なショップの導入と組み合わせが課題だと思います。同じブランドショップでも、品ぞろえ・見せ方・売り方によって店の雰囲気、魅力は変わると思います。

イオングループの新しい店舗を見て、イオンの進化を感じます。

現役の頃、イトーヨーカドーやダイエー・西友などの方々と研修旅行に行ったり、本社へ伺うこともありました。スーパーが元気な時代でした。
四半世紀も前ですが、ジャスコの東京本社へ行ったことがあります。イオンに名前を変える前です。日本橋の裏通りにある古いビルでした。

百貨店と同様、スーパーマーケット業界も厳しい環境に置かれ元気がない中、イオングループは頑張っていると思います。

人も企業も変っていくことを改めて思い知ります。

*追記: 百貨店で菓子担当をしていた時、「チョコレートはインゴットで輸入し、それぞれのメーカーがいろいろなチョコレートを作っている。日本では、カカオ豆からチョコレートを作っている所はない。」と聞きました。計量記念日などに合わせ、メーカーからチョコレートのインゴットを借りて売り場に展示し、お客様にその重さを当ててもらうクイズをやっていました。

辻口さんのショコラブティックでは、ペルーの自社農園で栽培し熟成発酵したオリジナルのオーガニックカカオ豆でチョコレートを作っているそうです。



京王プラザホテル

今日、京王プラザホテルが開業50年を迎えたそうです。

1971年(昭和46年)6月5日、西新宿の淀橋浄水場跡地に建てられた地上47階地下3階の超高層ホテルです。地上170メートルの高さは当時日本一でした。広大な浄水場跡地に立っているのは京王プラザホテルだけで、駅前から見る華麗な姿に見とれていました。

今でこそ東京都庁や三井ビル・住友ビルなどの超高層ビル群ですが、当時は現在の姿を想像できませんでした。

新宿は子どもの頃から買い物に来ていましたし、通学(大学)や通勤時の途中駅でした。淀橋浄水場へは小学校の社会科見学で行きました。
その頃新宿の繁華街は伊勢丹や三越、歌舞伎町など東口側で、西口は小田急と京王電鉄の駅と百貨店、そして青梅街道側のション便横丁(飲みや街)ぐらいしかなかったと思います。

京王プラザホテルのことを勤務していた会社の副社長から聞いたことがあります。三井信託銀行から副社長に迎えたH氏(銀行では専務)です。H氏の話では、当時、京王帝都電鉄社長だった井上定雄氏がホテルの建設を計画した際、東急の五島昇氏が当初は反対したそうです。
140億円を掛けて作るホテルの経営を心配したようです。井上社長が五島社長を説得しホテルは出来ましたが、井上社長は電鉄の株主総会で株主に(誰かは聞いていません)追及され、電鉄の社長を辞任されたといいます。

京王帝都電鉄の大株主(当時)である東急からすれば、京王が初めて手掛ける大型ホテル事業に対し、ホテル経営の難しさや採算面、そして京王の体力などから心配したと思われます。

東京の一鉄道会社である京王帝都電鉄が、新宿副都心に一番初めに建てたのが京王プラザホテルです。

地上170メートルの日本一高い超高層ホテル。日本中が驚くとともにその名は津々浦々に知れ渡り、京王帝都電鉄の名も広めました。建てた鹿島建設もまた、「超高層の鹿島」として名を馳せました。

京王プラザホテルが出来たことで新宿副都心の開発が本格化し、今日に繋がったことは間違いありません。

井上社長の決断は、新宿副都心発展と京王グループ飛躍の大きな礎になったと思います。
すぐれた経営者だと思います。

*普段はお茶を飲むくらいの利用でしたが、ホテルに甥が勤めていましたので、兄妹の家族(甥・姪)の結婚式で行ったり、新婚旅行の前日に宿泊しました。私が勤めに出た1年後に出来たホテルですが、半世紀も経ったと思うと…。

副社長には、そごう(デパート)の水島社長のことも伺いました。勤めていた銀行は違いましたが、戦時中に水島さんと一緒に仕事をしたことがあったそうです。水島さんの人柄や、なぜ銀行を辞めて「そごう」の社長になっのか等、興味深い話でした。