「運動会」

5月19日(土)、今日は吉川小学校「春季運動会」の日でした。

来週の26日(土)が、関・栄・北谷・中曽根そして美南小で、旭と三輪野江小は秋(9月)の開催です。 中学校では「体育祭」になります。9月開催だったと思います。

今朝は4時半頃起きて、マンションのベランダから眺めると、下の公園と周辺道路が濡れており小雨が降っていました。6時頃には雨も上がっていましたが、空は「暗く」どんより」として、今にも雨が降りそうな空模様でした。

7時半過ぎに学校へ電話をすると、予定通り8時40分~開会式を始める。とのことでした。

『競技・演技中に雨や落雷がなければいいな』『せめて午前中だけでも天気が持つように』と思いながら学校へ向かいました。予備日は20日(日)と23日(水)ですが、予定どうりに出来るのが一番です。20日(日)でも影響がありますが、平日の開催になると保護者が激減し、応援もさみしい感じになってしまいます。子ども達にとってはやはり、両親や祖父母そして地域の人が大勢見守る中で、自分の姿を見てもらいたいのではないでしょうか。

幸いにして、競技プログラム最初の応援合戦が終わり、4年の徒競走80m走が始まった頃から晴れ間が見えてきました。

毎年、感じることですが1年生の「適応力」に驚かされます。4月10日に入学して、まだ2か月足らずです。実際に通学している日数は30日程度です。開会式は、12項目あり30分以上かかります。学年毎に入場行進をして、整列後に始まります。学校長の挨拶をはじめに退場(行進)するまで、沢山の話を聞き、「運動会の歌」を歌い、「準備運動」、「吉小エアロビクス」を上級生と一緒にやっていました。

本当に短い期間で覚え、よくできると思います。勿論、「運動会」の練習はするのでしようが、学ぶことはそれだけではありません。

幼稚園や保育園で、皆と一緒に歌い、遊び、お遊戯などをしたり、「運動会」も体験しているのかも知れません。それにしても、「個人」として、「集団」として判断し、行動するために必要な能力を身に付ける、「吸収力」、「成長力」の大きさには感嘆します。

子ども達がこの勢いで成長し続けたら、「人間」はスゴイことになるのではと思います。「世界」はスゴイことになると思います。

植物や動物も、水、空気、太陽と栄養で成長し命をつないでいますが、永遠に大きくなることはありません。農作物を育てる土には、水と栄養がありますが、一定の所で農作物の成長は止まります。水耕栽培と違い、土には成長を抑える力もあるようです。

人間の能力が成長し続けないのは、やはり自然界のバランスを崩さないために、見えない「力」が働いているのかも知れません。

 

 

「地域猫」

大型連休も終わり5月中旬に入ってきたのに、『猫』が起きてきません。

真冬の時期を除き、朝の散歩の時には大体、『猫』が私を出迎えてくれます。朝の6時前後です。

レイクタウンへ向かう途中、最後にお参りする神社の隣にいる三毛猫ですが、「地域猫」として生きており、神社の隣家のおばあちゃんが、面倒を見ています。 おばあちゃんから毎日、エサをもらっているようで「毛並」もそれ程悪くはありません。

冬の間は玄関横に置いてある段ボールで寝ているようですが、暖かくなってくると、駐車場にある椅子の上で寝ています。

いつもは家の前で待っていて、鳴きながら寄ってきます。私がうつ柏手で来たことが分かるようです。しゃがんで撫ぜてあげると、膝などに身体を擦り付け「ニャー、ニャー」と鳴いている。 それがこの2か月程、もう明るくなっているのに椅子の上で眠っている。

門の外から2・.3回「舌を鳴らして」呼ぶと、目をうっすらと開け小さい声で「ニャー」と一声鳴くが、また目を閉じて寝てしまう。

5月が「晩春」なのか「向夏」なのかはっきりしませんが、『猫』にとってはまだ、「春眠暁を覚えず」の世界にいるようです。私たちにも「新緑」のいい季節ですが、『猫』には最高の時なのかも知れません。

『猫』が彼か彼女か知りませんが、もうしばらく寝せてあげようと思っています。

『猫』の名前は「ガーヤ」です。

*越谷の『地域猫』なので、「ガーヤ」と名付けました。時々、『おばあちゃん』ともお会いします。その時はご挨拶をします。雨が降ってきたりすると、私に傘を貸してくれる方です。

「柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)」

柚木沙弥郎の染色-もようと色彩-を見てきました。

駒場の日本民藝館へ行ったら、柚木沙弥郎の染色-もようと色彩-【4月3日(火)~6月24日(日)が開催されていました。

玄関広間をはじめ、2階の展示会場(大展示室・第3室)に作品が展示されています。 型染布の飾布や着物が中心ですが、ポスター等もありました。

展示会のタイトルにもなっていますが、何んと言っても『模様と色彩』がスゴイ。 『模様』は大胆で明るく力強い、飾らず余計なものがない。ユーモラスでかわいい。『色彩』もオレンジや藍、小豆色や茶等。改めて古くから伝わる染色の技術に驚かされます。 一言で言えば「美しい」。

やはり、いいものはいい。 生活の中で、のれんや間仕切り等に使えたら、楽しく豊かな気持ちになれると思います。

柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)のことは、知りませんでした。パンフレットには、1922年(大正11年)東京で生まれ、柳宗悦の思想と、芹沢銈介(以前のブログ、川上澄生の中で紹介)の作品に啓発されて染色家の道を志した。主軸は布への染色ですが、ガラス絵・版画・立体・絵本・ポスター等、いろいろな分野で取り組んできた、とあります。

現在96歳になるそうですが、型染めの第一人者として今なお創作を続け国内外での展覧会を開催する等、元気に活躍されているそうです。 尚、本人による記念講演 『自作と日本民藝館』が、5月19日(土)18:00-19:30に予定(要予約)されています。ご興味のある方は参加されたらいかがかと思います。

柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)と染色・染織について少し調べてみました。本当に知らないことばかりです。「オモシロイこと」は、まだまだたくさんある。と改めて思うとともに、訪ねたい所が次々と浮かんできました。

まずは、「正雪紺屋」。江戸時代の兵学者由井(由比)正雪の生家ですが代々続く染物屋です。柚木沙弥郎が芹沢銈介の弟子入り後に、芹沢の勧めで「布の扱いと染の基本」を住み込みで学んだところです。静岡県の由比町にあります。

(5月6日追記)*柚木沙弥郎は芹沢銈介が型染めした「暦」に出会い、勤めていた大原美術館を辞めて弟子入りをしたといいます。棟方志功は、川上澄生の「初夏の風」を見て、画家(油絵)になることを止めて版画家になりました。一つの作品が、進む道を変えてしまうというのは大変なことだと思います。作品はおそらく、生き生きとした力強い「生命力と品位」を持って「魂」に迫るものだと思われますが、その「本質」を感じるとる「直観力」がなければ理解できないことだと思います。

私には、到底理解できない世界です。そういえば昔、百貨店時代に、同僚に言われたことがあります。『いながきさん、リンゴの裏が見えますか?。ちゃんと見れば見えるんです!』と。2人は、私が入社した翌年に採用された後輩でした。東京芸大で油絵を描いていた人です。数年後、一人はデザイン事務所へ、もう一人は教員になりました。変人の私から見ても、さらに上をいく方々でしたが充実した人生を送られてきたようです。

芹沢銈介美術館(静岡市立)は駿河区の登呂遺跡のそばにあります。出来れば年内には、由比町の「正雪紺屋」と芹沢銈介美術館そして登呂遺跡を訪ねたいと思います。

 

 

 

再び「川上澄生」

先日、知人から思わぬものを送って頂いた。展示会図録です。

川上澄生美術館が2009年6月に出したもので、「川上澄生と民藝ー濱田庄司・芹沢銈介・塚田泰三郎・棟方志功と共にー。 2009年6月5日(金)~8月30日(日)まで開催された時に発行されたものです。

川上作品を、「民藝」の視点からスポットをあてると共に、民藝運動に関わった仲間で当時交流の深かった濱田庄司(陶芸)、芹沢銈介(染織)、塚田泰三郎(和時計研究)、棟方志功(版画)の作品を同時に紹介した展覧会でした。 栃木県の黎明期の民藝運動について、関わった人物をたどりながら紹介した企画展です。

知人は、私が3月10日に書いたブログ、「川上澄生」を読んで美術館へ行ってみたとのことでした。嬉しいことです。 すでに、吉川から転居されている方ですが、美術館で見つけた展示会図録を購入し、送ってくださいました。有難いことです。

図録は79ページにわたり、彼らの作品や活動、柳宗悦、バーナードリーチ等との交流が紹介されています。 そして、日本民藝協会が発行した「工藝」の中で、濱田・塚田・棟方・柳が、「川上澄生」について書いたものや、川上が自身のことを書いたものが民藝関係資料としてまとめられています。*昭和13年~31年に発行された工藝」の中より

濱田庄司や柳宗悦の人物評もオモシロイですが、川上本人の版画三十年(我流身の上話)の中で書かれている版画制作の自伝的取り組みや画因(制作動機・モチーフ)等は興味深い内容です。両方を読んで、「川上澄生」の実像が近づいてきたように思いました。一つ一つの作品の背景が浮かび、「川上澄生」の思いが伝わってくるように感じます。

「自分のことは己がよく分かっている」と思いがちですが、そうでもないようです。自分と他人の目は違います。 自身の長所・短所、仕事に対する評価、人との関係等、自分が思っていることと、他人が感じていることには相当「ズレ」があると思います。 それは自身の声や姿を、自分では見ることも聞くことも出来ないことと同じ理屈のようです。

この「ズレ」を埋めるには、どうしたらよいのでしょうか。

 私の手帳には、『為さざるなり、能わざるに非ざるなり。』と書かれています。何年もの間、毎日これを見ています。 『出来ないのではない、しようとしないのである。』出来ないのは己の責任、と言い聞かせています。その時、『どう生きるのか』が問われているのだと思っています。

自分では、「難しいことほど難しい」のですが、他人から見ると、「それ程難しいことではない」のかも知れません。

*(追記4/28PM9:10分)『どう生きるのか』は、人それぞれで違うと思いますが、私は、『素直』『感謝』『挑戦』だと思います。在籍していた会社の社訓でした。在籍時は特に感じませんでしたが、会社を離れてみると改めて大切な姿勢だと気づきます。『どう生きるのか』に対する基本的な態度、心構えだと思います。

生きていく中で、それらを阻む人や出来事(状況)が余りにも多くあり簡単に続けられることではありません。だからこそ、目標となるのだと思います。

 

「花粉症」

久しぶりに今年は、「花粉症」の症状が出ています。

朝起きると、鼻水が止まらず目の「かゆみ」が続き、寝る時には鼻がつまり、目覚めると口が渇いています。

以前、「血液検査」を受けたことがあります。結果は、スギ➔ヒノキ➔ダニ・ハウスダスト➔?の順に影響を受けることが分かりました。

以来、「花粉症」対策を続けています。2月後半から4月末までは、①外出時のマスク着用 ②花粉の付きにくい上着を着る ③洗濯物の室内干し(お風呂場) ④空気清浄器の24時間稼働 ⑤薬等です。薬は出来るだけ使わないようにしていますが、症状がひどい時は、「目薬」と「アレルギー性鼻炎」の薬を、また、花粉の侵入を防ぐ塗り薬(鼻)を使うこともあります。

20年位前からは「体質改善」を図る為、毎日、ヨーグルトを食べています。腸内細菌の正常化に役立つ食品の摂取も心がけています。そのせいか、高齢化による影響なのかは分かりませんが60歳を超えたあたりから、症状が軽くなってきました。生活にそれ程困るような影響は出ていませんでした。

私の場合は、高校時代から毎年、3月・4月頃になると、くしゃみ、鼻水・つまり、目のかゆみ等の症状が出ました。いつの間にか治まっていた為、そのままにしていました。その頃は、「花粉症」という言葉ありませんでした。いつ頃からその言葉が使われ、原因や対策についてもいつ頃に明らかにされたのか、よく分かりません。

 最近はテレビで毎朝、「花粉情報」が流されています。「スギ・ヒノキ」、「多い・やや多い・少ない」が、地域ごとに示されています。多くの人が、「花粉症」になっているという事です。

原因物質の「スギ・ヒノキ」という言葉を聞くたびに思うことですが、身体が示す「アレルギー反応」の原因はそれだけなのかという事です。 毎日飲んでいる「水」、24時間吸う「空気」、食べている「食品」の影響はないのでしょうか。

加工食品や調理済み食品の利用が飛躍的に増えてきました。「食品添加物」との関わりです。「水」、「空気」、「食品」の複合的な原因は考えられないのでしょうか。

携帯電話、パソコン、電子レンジ、テレビ等が出す「電磁波 」。洗濯用洗剤の香料、柔軟剤。住宅に使われている建材、壁紙に使っている「接着剤・のり」等との関わりはないのでしょうか。普段、日常生活の中で利用しているもので「アレルギー反応や身体的支障」が出ている方もいます。

私が最も心配しているのば、「携帯電話」です。「脳」に近い所で使用しますので、「脳」への影響があると思います。 すでに数年前から、携帯電話基地局周辺住民の健康被害が表面化しています。

ある日突然、人々がとんでもない行動をし、社会全体が混乱・パニックに陥ることが起こることのないよう、安全な電話(通信手段)の開発・改良を進めるべきだと考えています。

豊かで便利な生活を送れることは、ありがたいことです。しかしその前提は「安全」です。

*以前は、「花粉」の量が多い日には「花粉」が顔に突き刺さるような痛みがありました。刺さった花粉で、顔が突っ張るように感じました。最近はありませんので助かっています。

「花粉症」については、医師の診察を受け処方薬を飲む方も多いと思いますが、そうでない方もいます。この時期、マスクをつけている人が目立ちますが、種類も価格もいろいろです。他に、空気清浄器・除湿機・衣類乾燥機、薬(目薬や鼻炎用)、ヨーグルト等の食品等、「花粉症対策関連市場」は相当な規模になっていると思います。

「花粉症」の症状が続く2か月間を仕事への影響から見ると、クリエイティブ・専門的・単純業務のどれであっても「能率」の低下は大きいと思います。「花粉症対策関連市場」の経済効果と比べれば、やはり社会全体にとって「マイナス」になっているのではないでしょうか。(追記4/22)

 

初めてのこと

選挙は3回経験していますが、初めて「選挙ポスター」を貼りました。

久喜市の市議会議員選挙(市長選挙も)が今日から始まりました。

勉強会の仲間で、1977年(昭和52年)に26歳で初当選した無所属市民派議員の応援です。 議員生活40年以上の大ベテランですが、支援者が高齢化し、 ポスター貼りの人手が足りないというので、私の所属会派(市民の会・無所属)の議員と一緒に行きました。

朝7時30分に迎えに来てもらい、車で久喜へ向かいました。雨がかなり強く降っていましたので、山で使う雨カッパ、着替えやタオル、帽子そして大きい傘を用意し、万全の準備をしました。

フロントガラスについた大粒の雨をワイパーが振り払いますが、不安がよぎります。雨の中で、ポスターを掲示版にうまく張ることが出来るか心配でした。

最近の選挙ポスターは、裏面が全て糊付けされていますので掲示板が乾いていれば、完全に張ることが出来ます。10年前の私の選挙の時は、一枚づつ裏面まわりに両面テープを使って準備をしました。

彼の自宅が選挙事務所ですが、到着して掲示場所(番号)が決まるまで待機していました。番号の連絡が入り、事務所を出る頃には、幸いにして雨もほとんど止んでいました。これも、やはり「日頃の行い」と勝手に解釈しました。

一緒に行った議員が昔、久喜に住んでいたことがあり、土地勘のある地域を任されたので、20数箇所をスムーズに張り終えることが出来ました。

事務所の責任者から、貼り終えたポスターの隅8か所を画鋲でとめるよう指示されました。吉川ではやっていないと思いますが、久喜では他の候補も同じようにしていました。

他候補のポスター貼りの方と一緒になりました。二人一組でやる支援者もいれば、一人でやってる人もいました。また、車の他にオートバイや自転車を使って移動している方もいました。

ポスターの掲示一つとっても、やり方はさまざまです。選対、選挙事務所、ビラまき、選挙カーの運転手・ウグイス、選挙ハガキの宛名書き、食事、電話担当等、地域や候補者によってやり方は様々ですが、これからどうしていくのかは共通の課題です。

選挙は「いろんな方の支援がなければ出来ないし、一人では戦えない」ことです。お力添えをいただけることは、本当に「有難いことです」。しかし時代が、地域が、人々が変わる中、「今までのやり方は続けられない」と改めて思った「初めてのポスター貼り」でした。

*ブログの更新が大変遅くなり、申し訳ありません。

ペンタゴン・ペーパーズ

一昨日、映画を見ました。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書。 主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。監督はスティーブン・スピルバーグです。

1970年代初め、泥沼化していたベトナム戦争について調査・分析した政府の機密文書を報じたワシントン・ポスト紙の実話に基づく物語です。

35代大統領ジョン・F・ケネディ、36代リンドン・ジョンソン大統領の下で1968年迄、国務長官を務めたロバート・マクナマラがまとめた政府の「機密文書」を入手し、これを公表するか、見送るかの判断を迫られるワシントン・ポスト社主(メリル・ストリープ)の苦悩を描いています。

編集主幹(トム・ハンクス)は掲載を主張するが、会社の重役陣や顧問弁護士等は、『会社そのものが無くなり、逮捕される恐れがある危険な賭け』と反対。

ライバル紙のニューヨーク・タイムズが少し前にスクープをしたが、裁判所から出版差し止め命令を受けている状況の中、社主(メリル・ストリープ)が下した判断は、『報道の自由を守る』。

ケネディ大統領を含む歴代政権がつき続けてきた「ウソ」を暴き、掲載しました。

ニューヨーク・タイムズとともにワシントン・ポスト関係者が最高裁判所に呼ばれる。この時の大統領が37代リチャード・ニクソンです。 下された判断は、『新聞は、権力者のためでなく、国民のためにある』。

トランプ大統領が国内外を驚かすことを次々と行う中、スピルバーグ監督が皆に言いたいことだと思いました。 日本でも安倍政権が続いています。私もそう思います。

ベトナム戦争が終結したのは、1975年4月30日ですが、いつから始まったのかについては諸説あります。一般的には、ケネディ大統領の時代、1961年に起こした、アメリカの本格的軍事行動を戦争の始まりとしています。宣戦布告なき戦争と言われています。元々の始まりは、南ベトナムでの内戦です。

第2次世界大戦後、フランスの植民地であったベトナムは、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に別れました。親米の南ベトナムに対し、北ベトナムの後ろにはソビエトがいました。冷戦の時代、アメリカとソビエトの代理戦争的な側面もありました。アメリカは「ドミノ倒し」理論で、『北ベトナムが勝利すればベトナムだけでなく東南アジアが次々と共産化してしまう』。また、『中国共産主義封じ込め』という意味もありました。

一方、北ベトナム側はベトナム民族解放闘争で、南を開放して南北を社会主義国として再統一することを目標としました。そして、アメリカの新植民地主義に対する戦争であると位置づけていました。

映画では、国務長官マクナマラが調査・分析した「機密文書」には、『アメリカはこの戦争には勝てない』。しかし、今公表することは出来ない。将来、ベトナム戦争の歴史的検証を行う時のため、まとめたものである。そして、歴代大統領が戦争を止めることが出来なかったのは、『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』ことだった。戦争を続けた理由の3割が「ドミノ倒し」の防ぐこと、7割は『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』からと描いています。勝てない戦争と分かっていながら、国民にウソをつき、若者を戦場に送り続けたとしています。

この時代は、私が高校・大学そして社会人になった頃でした。アメリカではすさまじい「反戦運動」が起こっていました。日本でも新聞や雑誌、テレビの報道が続いていました。朝日新聞特派員だった開高 健がベトナムから送り続けたルポルタージュ(ベトナム戦記)も出ていました。べ平連(ベトナムに平和を市民連合)が組織され、大学構内には、「戦争反対」の立て看板が置かれアジ演説とデモは日常の風景でした。

新宿西口地下広場では、「戦争反対」のフォーク集会が毎週(土曜日?)開かれていました。広場には、数百人、数千人が集まり「反戦歌」を歌っていました。勤め帰りのサラリーマン・高校生・大学生・オジサン・オバサン達が一緒にフォークソングを歌いシュプレヒコールを叫んでいました。自分の意思で集まってくる人達でした。また、いろんな所にフォークゲリラが出没して、居合わせた人と歌っていました。

やがて「地下広場」は、「地下通路」と改められました。市民が見守る中、警察官と機動隊が、『ここは通路です』『立ち止まらないでください』『座らないでください』とアナウンスするようになりました。

1975年4月、ベトナム戦争は終わりました。

日本では、『横田基地でいいアルバイトがある。ベトナムで死んだ米兵の遺体を洗う仕事は1万円もらえる』。が話題に上らなくなりました。今度は、アメリカへ帰還した人達の中に、『心や身体に傷を負い未だに社会復帰出来ない人や、枯葉剤(ダイオキシン)の影響を受けている方がいる』。『時間を経て、仕事や家庭での生活が難しくなった人もいるようだ』。との話が伝わってきました。

いつの時代でも、犠牲になるのはまず「若者」ですが、家族・友人も心に傷を負います。社会全体が深く傷つくのが「戦争」だと思います。

*追記4月8日 1 新宿西口地下広場での反戦フォーク集会で歌われていた歌は、「受験生ブルース」「自衛隊に入ろう」「機動隊ブルース」「友よ」等でした。2 その後、ワシントン・ポスト紙が追及した事件として、「ウオーターゲート」があります。民主党全国委員会本部へ不法侵入し、盗聴をした事件です。37代大統領リチャード・ニクソンが関わっていたとして、民主党だけでなく共和党からも批判が起こりニクソンは辞任しました。任期中に辞任した大統領は、ニクソンが初めてだそうです。3 ロバート・マクナマラは国務長官を辞めた後、世界銀行の総裁になりました(1968~81年)。

 

 

小さな旅

昨夜11時半に寝たせいか、今朝3時半に目が覚めました。

起きてバタバタする訳にもいかないので、しばらくそのまま布団の中で『もそもそ』していました。

5時に家を出ました。久しぶりの「散歩」です。

くすんだオレンジ色の月が、濃いブルーの空に輝いていました。ついこの間まで暗闇の世界だったのに、足元を照らす懐中電灯なしで歩ける明るさです。いい朝です。

3月議会は20日に終わりましたが、吉川市議会で初めての当初予算「減額修正(案)」提出もあり、忙しい議会でした。

 議会終了後も、小学校の卒業式や議会広報委員会等への出席、3月議会報告チラシ(会派及びいとう・いながき)の作成をかなりのスピードで行いました。

このひと月、議会中心の生活でしたのでほとんど「散歩」をしていません。今月は20万歩程度で終わりそうです。

久しぶりの「朝の散歩」。随分と春めいてきたと感じました。夜明けの時間、木々の芽吹き、冬の冷たさとは違う爽やかな空気、『新緑』の季節も間近です。

レイクタウン調節池の一角に、ビオトープゾーンがあります。遊歩道からは、木々の間に池の水面が見えます。水面(みなも)は朝陽を浴び、キラキラと輝いています。道路側を見上げると、『しだれ桜』の並木が続いています。木の下には『雪柳』が隙間なく繋がっています。桜(染井吉野)は散り始めてきましたが、『しだれ桜』はもう少し楽しめそうです。少し濃いピンク色の花びらが綺麗です。

輝く水面、しだれ桜、雪柳の中にいると、自分がまるで別世界にいる様に思います。遠くの土地に来ている様に感じます。そして、『名人』と言われたお花の先生に、『偉くなったり、お金持ちになることも幸せかも知れませんが、身近な花や木々で「季節の移ろい」を感じられることも幸せではないですか』と言われたことを思い出します。

 

 

 

 

 

せともの

日本中で、「せともの」と言っていたのかどうかは知りませんが、東京では、「焼き物(陶磁器)」の総称として「せともの」と呼んでいたと思います。どこの町にも「せともの屋」はありました。

店の看板には「せともの」と書かれていました。茶わんや急須、花瓶に火鉢そして湯たんぽ等、家庭で使う実用陶器は皆、「せともの」と言っていました。 私の中学時代までは、駅弁と一緒に売っていた「お茶」も容器は焼き物でした。

『瀬戸(愛知県)』が代表的な製陶の中心地であり、いかに『瀬戸』の陶磁器が東日本で広く流通していたかが分かります。

日本での陶磁器の歴史は、中国や朝鮮と比べると数千年遅れて発展したと言います。縄文土器、弥生土器、須恵器の時代が長く、平安の後期から 、瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、備前で作られました。六古窯と言われています。

瀬戸の起源は、加藤四郎左衛門景正による中国製陶法の招来とされています。道元禅師が貞応2年(1223年)宋に渡った時、従者として渡宋し、禅修業の傍ら製陶の修業をし安貞2年(1228年)帰国後、瀬戸(尾張)に窯を築き、中国風の陶器を焼きはじめたのが起源とされます。

美濃、唐津、萩、京、伊万里、色鍋島、古九谷等は室町・桃山時代後半からです。美濃では、志野、黄瀬戸、織部、古伊賀等、京では仁清、乾山等です。信長や秀吉そして千利休が茶会を催していた時代です。

利休七哲の中で、異色の存在が古田織部。信長・秀吉に従って戦い、戦功によって三万五千石の大名になった武士です。利休について茶道を学び、極意を伝授されました。利休の死後、茶の湯の名人とよばれ、家康や二代将軍とも交流がありましたが、大阪夏の陣・冬の陣で豊臣側に内通した疑いで切腹となりました。

織部焼は斬新でデザイン性、創造性に富んだ焼き物です。形、文様とも自由で独創的で、今見てもモダンでアートだと思います。丸・三角・線の幾何学的図形の大胆な組み合わせの文様、型にとらわれない造形、濃い緑、信じられない程です。織部は、千利休の『侘び・寂び』とは対照的な世界のように感じますが、時の権力者によって「切腹」となったのは何とも不思議な事です。

志野、黄瀬戸とともに「織部」は好きな焼き物の一つです。

それにしても、相当前から「せともの屋」さんを見かけません。いつ頃から無くなってしまったのでしょうか。

 

 

 

「濱田庄司」

「太陽」という雑誌で、荒川豊蔵や加藤唐九郎を知り、備前や志野、織部、黄瀬戸、信楽そして古伊万里、古九谷の美しさに驚かされました。

志野や織部の斬新なデザイン、色づかい、草花の絵付け。こんなものが、信長や古田織部の時代に作られていたとは信じられない驚きでした。

大学が渋谷にありましたので、根津美術館や駒場の日本民芸館へはよく行きました。 日本民芸館では、柳宗悦、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司たちが創めた民芸運動に出会い、人が生活のために使う器や道具に興味をもちました。

かつては、衣・食・住に係わるものは全て、自然のものを利用していました。 食生活に必要な、お椀・箸・まな板・桶やひしゃく、ざる・かご、石臼、瓶(かめ)やお皿等、それぞれの土地で身近にある木・竹・石そして土を使って作られています。 かつて、つくられた物や伝統の技を受け継いでいる物を見ると、改めて、人間の知識と知恵、豊かな感性に驚きます。

益子へは2人(私と妻)で時々行っていました。結婚する前の方が多かったと思いますが、街をあちこち歩き、窯元をのぞいていました。 濱田庄司をはじめ島岡達三、加守田章二等、有名な方々が活躍していましたが、若い作家も移り住んできていました。

濱田庄司の*美術館が出来たと聞いて訪ねてみました。小さなところでしたが、二人でしばらく見ていると、そこの責任者らしき人が、濱田庄司さんの工房を見せてくれると言う。

登り窯や工房の中を案内していただいた。 そこで制作している様子が直に、伝わってくるような感じでした。そして、印象的だったのはどの場所だか覚えていませんが、家具が無造作においてあったことでした。

朝鮮の箪笥に日本の舟箪笥、イギリスやヨーロッパのテーブルと椅子、南米、アフリカのものもありました。沢山ありました。 案内をして下さった方からは、濱田庄司は収集家としても一流で、世界中から家具だけでなく、陶磁器やいろいろな物を集めている、と伺いました。

私が感じたのは、いろいろな国や地域、時代も異なっているのに「違和感」がないことでした。不思議な場所でした。 それは、『人が生活のために使うものは、シンプルで機能的で美しい』からだと思いました。

*正しくは、濱田庄司記念益子参考館です。その後古民家や蔵、門なども移築しており、参考館の規模も拡大されているそうです。何十年も行っていませんので、また行ってみたいと思います。

*荻窪駅西口に「いづみ工芸」という店があり、濱田庄司や島岡達三の作品をはじめ、全国の焼き物や民芸品を販売していました。結婚するまで荻窪(実家)にいたので、時々のぞいていました。オモシロイ物をいくつか買いましたが、現在は何一つ残っていません。