桂木(かつらき)ゆず

昨日、「桂木(かつらき)ゆず」の毛呂山町『ゆず祭り』へ行ってきました。

「ゆず」というと高知県「馬路村」が余りにも有名です。ぽん酢日本一の人口1、000人の村で、 かつては、『馬路村出身というが恥ずかしかった』と村民の一人が以前、テレビで言っておりました。今や、「ゆず」だけでなく村そのものが人気スポットになっています。県内・県外から観光バスが連ねてやってくる場所だと聞いています。

私は「馬路村」と同じ安芸郡「北川村」のゆず関連品を時々買っています。

「北川村」もまた、「ゆず」の6次産業化に成功しています。ゆずポン酢やゆず茶、ゆずドリンク、くずきり、ケーキ、ママレード、佃煮(昆布とゆず)、果皮砂糖漬け等いろいろな物がありますが、最も愛用しているのは「実生ゆずしぼり」です。

普通のポン酢に「実生ゆずしぼり」を加え、自分の味にしています。夏の間だけは、「実生ゆずしぼり」に代わり「シークワアーサー」を使ったポン酢にしています。

「ゆず」はもともと好きな柑橘です。料理からお風呂にまで使っています。食べて、飲んで、ゆず湯です。

9月21日の新聞(朝日)に、【毛呂山のユズ「収穫して」ボランティアと農家募集■高齢化で放置される畑増え】という記事が掲載されました。

収穫する農家からは「身体がきついので、年々、取れる範囲が狭まっている」という声があり、放置されている畑が増えていることから毛呂山町が、「収穫してほしい」農家と「収穫したい」ボランティアを募集したものです。

10月Ⅰ日が 募集開始。数日後に問い合わせると、『ボランティア募集は終了しました。応募が多くもう一杯です。』との説明でした。

どんな所か気になっていましたが、毛呂山町のH・Pで、『ゆず祭り』12月8(土)・9(日)開催の案内を見つけました。思い切って訪ねることにしました。

吉川駅から電車で1時間半ほどで東毛呂駅(東武越生線)に着き、ゆず祭り会場の『滝ノ入り集会所』までは徒歩30分でした。

10時過ぎに着きましたが、すでに20~30人集まっていました。「桂木ゆず」は勿論、滝ノ入地区「婦人部」の手づくり味噌、ゆず味噌、こんにゃく、餅、まんじゅう等が並べられ販売されていました。また、野菜やミカン・きんかん等もありましたが残りはわずかでした。

ほとんどの方が車で来ているようで、1箱(10個~20個入り)「桂木ゆず」を数箱購入される方が多く見られました。1箱800円~2000円位でした。

毛呂山町の観光ガイドマップには、日本最古の生産ゆず「桂木ゆず」と紹介されています。奈良時代からゆず栽培をしていたという言い伝えがあり、江戸時代には特産として認められていたそうです。昭和初期には、「桂木ゆず」のブランドで東京市場に出荷されており、高級品として高値で取引されていた。とあります。

これまで埼玉県毛呂山町が日本最古のゆずの産地だと知りませんでした。

「桂木ゆず」は、実生から育てた木に実を付けます。水はけがよく北風の吹かない「滝ノ入」地区の気候風土により、肉厚で香りが高く酸味のバランスが良いのが特徴です。またおそらく、寒暖の差が美味しいゆずを作っているのではないでしょうか。地図で見ると大高取山(376.4m)、越上山(566.5m)に向う山の斜面に「ゆず畑」が続いています。木にはしごを掛けるなどして実をもいで、斜面を運ぶのは重労働だと思います。

『滝ノ入集会所』から山の方へ少し歩きましたが、確かにそんな雰囲気でした。家の前でゆずとミカンを売っていたおばあさんからも、年寄りが多くなり、「収穫出来ない」と聞きました。庭にある木を見せて頂きましたが、長い棘があり、実際の収穫作業は大変だと感じました。しかし、収穫できる「ゆず」ができずに「放置」されるのは、もったいないことだと思います。

今回は余り時間がなく、お昼前には東毛呂駅から帰路に着きたいと考えていましたので、山の斜面にある「ゆず畑」を見ることは出来ませんでした。年が明けたらまたゆっくりと訪ねたいと思います。

「桂木ゆず」のオーナー制度があり、1本3,000円~10,000円(年間)でオーナーになることが出来ます。日頃の手入れは、ゆず農家さんがやってくれて、「収穫」を楽しめるそうです。山の斜面にある「ゆず畑」を見た上で申し込もうと考えています。

*更新が遅れ申し訳ありません。

 

 

 

 

五島美術館

11月27日(木)が一般質問の締切日でしたので、当日の午前中に提出しました。一段落したので、市役所から直接、「五島美術館」へ向いました。

美術館は世田谷の上野毛ですので、東急の二子玉川(田園都市線)で乗り換え、一つ目の上野毛(大井町線)から歩きました。 「五島美術館」へ行くのは初めてです。

駅から5~6分ほどの静かな住宅街に美術館があり、隣のお屋敷には「五島 昇」の大きな表札がありました。

開催されているのは、【「特別展」東西数寄者の審美眼 阪急・小林一三と東急・五島慶太のコレクション】です。

阪急電鉄の創始者小林一三(いちぞう)、雅号「逸翁(いつおう)」は、鉄道・百貨店・宝塚歌劇・東宝等、現在に続く事業を関西圏を中心に拡げてきました。 一方、首都圏で東急グループの基礎を築いた五島慶太(けいた)、雅号「古経楼(こきょうろう)」は、逸翁の勧めで鉄道経営に携わったといいます。

鉄道経営も美術品収集も逸翁の影響を受けていたようです。

今回の特別展は逸翁美術館と五島美術館の収蔵品から、絵画・書跡・茶道具等約100点を展示しています。

絵画では、狩野光信・尾形光琳・与謝蕪村・円山応挙。書は小野道風・藤原行成・藤原定家など重要文化財や国宝級のものが多くありました。書や絵画のことはよく知りませんが、かつて聞いたことのある名前の方々ばかりでした。

陶芸では井戸茶碗をはじめ志野、鼠志野、黒織部、絵唐津の茶碗。染付や赤絵の香合、尾形乾山の色絵向付もありました。

私は、「鼠志野」の茶碗がいいと思いました。また、興味深く見たのは小林一三(いちぞう)と五島慶太(けいた)の書簡です。二人の交流です。美しい文字を書かれる方々だと思いました。教養と人格が表れているように感じました。

それ程広くない展示室内は「おばさま方」で一杯でした。閉館の時間まで少しありましたので、庭園を歩いてみました。 「五島美術館」の庭園は、「崖」でした。

傾斜地を自然に近い状態のまま利用して、石塔、石灯籠、石仏やあずま屋、茶室が配置されています。 高低差が35メートルあり、階段の形状も同じでないため歩きにくい庭園です。

庭園案内図には「健脚コース」。『多摩川が武蔵野台地を浸食して出来た「国分寺崖線」上に位置する傾斜地』で、『五島慶太は足腰の鍛錬も兼ねて庭園内を散策するのが日課であった』とありました。

石仏は、「六地蔵」が何カ所にも置かれていました。「これでもか」というくらい、あちらこちらにです。

仏教では生前の行いで、死後6つの世界(六道)に生まれ変わるといわれています。「六地蔵」は、六道のどの世界に生まれ変わっても救ってくださる「お地蔵さま」だそうです。

世間では「強盗慶太」と言われていたあの方が、「六地蔵」に毎日、手を合わせていたのでしようか。

*六道:天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道

*会期は12月9日(日)迄。午前10時~午後5時(入館は4時30分迄)です。休館日は月曜日。

水防組合行政視察

11月21日(水)~22日(木)、江戸川水防事務組合(江戸水)の行政視察で、静岡市にある「静岡県地震防災センター」と函南町(三島市・沼津市の隣)の「伊豆ゲートウエイ函南」に行ってきました。

江戸水は、水防法に基づき埼玉県から指定された事務組合で江戸川の右岸、春日部市西親野井から三郷市高洲までの32㎞を管理する指定水防管理団体です。

水防事務の調整と実施に必要な事項を規定し、河川の洪水等水害の警戒、防御を行い被害の軽減を目的に活動しています。 春日部・吉川・三郷市と松伏町で構成され、管理者は三郷市長、副管理者は吉川・春日部市長と松伏町長です。組合議会議員は各市町4人です。

11年間市議を務めていますが、「水防議員」は初めてなので初参加です。

21日(水)午前8時30分、三郷市役所をバスで出発。

昼食を由比(静岡市清水区)で取り、2時から「静岡県地震防災センター」で防災学習体験プログラムコース(施設見学・防災講話)を受けました。センターは地震と津波を中心した知識と対策について啓発と自主防災活動の支援施設です。体験施設として津波コーナーの映像装置や3次元の地震体験装置、展示コーナーは住宅の耐震補強方法や防災ベットも展示されています。また、県・市町職員の研修も実施しています。

開館後30年経っており、来年の1月から全館リニューアルのため1年間休館するとのことでした。

防災センターから宿泊地のホテル(静岡市内)へ移動。6時~夕食を兼ねた懇親会があり終了後、静岡おでんの「黒はんぺん」を食べに皆(10人程)で出かけました。

翌22日(木)は、午前8時45分に出発。「道の駅・川の駅 伊豆ゲートウエイ函南」に10時に到着。

始めに 国土交通省沼津河川国道事務所より「狩野川水系河川整備計画」と「狩野川放水路」について説明があり、函南町の企画財政課・産業振興課からは、「国土利用計画函南町第3次計画」についてお話しを頂きました。

霧雨の中、「道の駅・川の駅 伊豆ゲートウエイ函南」を視察しました。 防狩野川と一体的に整備された川の駅・道の駅です。

川の駅は、国交省が実施する河川防災ステーション事業用区域の一部を函南町が占用し、水防他目的センターの整備を行い、道の駅と連携する施設として駐車場と含め、管理運営する施設です。水辺空間を利用した広場や子ども達が川遊び出来るワンドを整備し、川の駅としてまちが管理運営しています。

同時に、国交省が実施する河川防災ステーション事業と連携し、平常時の地域活性化機能と水防活動の活用を図り、災害時は避難地、救援物資の中継地点として施設整備(一部継続中)されました。

また、東名高速、新東名高速道路と下田を結ぶ伊豆縦貫道の一部開通に合わせ、伊豆半島の玄関口となる函南町が伊豆ゲートウエイ機能の役割を担う道の駅を整備し、伊豆半島の道の駅7駅と川の駅を連携する為の施設です。

最大のネライは観光客の増加が期待される中、地域産業の活性化に繋げ、函南町が単なる通過町とならないために、観光交通を町内に誘導することです。そのための、「道の駅・川の駅 伊豆ゲートウエイ函南」だと言えます。

函南町の意気込みと戦略が見えます。小さな町ですが、環境の変化に合わせ立地と地域資源を活用し、生き残りと発展を考えての事業だと思います。

*行きに、由比(静岡市清水区)で昼食を取りましたが、そこのすぐ下に「正雪紺屋」がありました。以前から訪ねてみたい所でした。『柚木沙弥郎』が芹沢銈介に弟子入りした後、芹沢の勧めで「布の扱いと染の基本」を住み込みで学んだのが「正雪紺屋」です。江戸時代の兵学者由井(由比)正雪の生家です。5月5日のブログ『柚木沙弥郎』をご参照ください。

*昨年の10月、吉川市議会3委員会合同研修で「佐原広域交流拠点PFI事業」の視察研修に行きました。利根川のスーパー堤防上に国と佐原市(合併後香取市)が協働し、水辺交流センターや河川利用情報発信施設、車両倉庫、川の駅、道の駅をPFI事業により一体的に設計、建設、維持・管理、運営する施設です。国の河川事業で初めてPFI手法で整備された所です。

 

秋の収穫祭

恒例の、「秋の収穫祭」が終わり3時頃に自宅へ戻りました。

市民農園などで野菜づくりをしている、「楽農(らくのう)クラブ」会員による収穫祭です。収穫した作物で「芋煮」を作り、皆で食べる「芋煮会」のようなものです。

朝9時過ぎから準備に入りました。調理は男性が担当します。「芋煮」の指導は山形出身の同年代の方ですが、味付けの最終確認は同じ山形出身の奥様にお願いをしています。

里いもの皮をむき、ネギとゴボウを切り、こんにゃくをちぎります。シメジの石突きを落とし、ほぐします。肉は牛です。味は醤油味で、みりんと砂糖もつかいます。年々、手際がよくなり一人一人が無駄な動きをせず、出来るようになりました。

大きな鍋で、2つ作りました。里いもとネギは会員の一人が作ったものです。里いも・ネギとも立派でした。ネギは新鮮で見るからに美味しそうで、包丁で切っていると、強い刺激と香りで涙が出てきました。大きなバットに二つ、山盛りにしました。

また、それぞれの「家庭の味」を「一品」持ち寄り、皆で味わいます。

主に菜園でとれた野菜やイモ類を使った煮物、炒めもの、おしたし等色々です。お赤飯、いなり寿司、そしてデザートも。 春菊と菊の花の和えもの等、我が家の食卓に上がらない料理もあり、いろいろな料理や味があると感心しながら食べ比べます。

奥さんの手料理が中心ですが、「うちの主人が作った」という一品もあります。時々、料理をされている方もいるようです。単身赴任の時に覚えたという方もおります。

マンションの住人であれば、会員になれます。現在、家庭菜園を『やっている・以前やっていた・これからやろうと思っている』方であればOKです。私は、以前やっていた・これからまたやろうと思っている人としての参加です。

今年は30数名の参加でした。半数以上が夫婦同伴ですが皆、別々の席に座っていました。

美味しい料理を肴に野菜づくり、今年の気候、料理、初めて仕事に就いた時のこと等、次々に話は広がって行きます。そして、今年亡くなった方のことも。表情からは、「この一時をともに過ごせることの喜び」が伺えます。

人にとって「何を」食べるのかは大切なことですが、「どのように」食べるかも大切なことだと思います。

文化祭

昨日、モアステージの「文化祭」が終わりました。

 私が住んでいるマンションの「文化祭」で、今年で8回目の開催になります。

11月8日(木)~10日(土)迄、場所はA棟1階「キッズルーム」での開催です。 かつては、子ども達が遊ぶ部屋でしたが今では、「談話クラブ」が主催するお茶を飲む会や健康マージャンの会場になっています。

都内から吉川のマンションに移り住んで30年近くなります。子どもたちは成人し、いつの間にかいなくなりました。仕事の関係や結婚などで都内をはじめ別の場所で生活しています。(なぜか、私の所はまだいます)

定年を迎え、再雇用も終わり夫婦2人の世帯が多くなりました。連れ合いを亡くし、一人で暮らしている方もおります。

朝、310世帯の子ども達が登校班ごとに、切れ目なく出発していたのがウソのようです。現在の通学班は20人程ですが、来年には半減します。

文化祭に出品される作品は、水彩画や油絵、絵手紙、写真、陶芸、竹芸、木彫(仏像)、押し花絵、手芸、人形等、様々です。 以前、水墨画や川柳もありました。私は「生け花」を出しました。花器を変えたいと思い、友人(マンションの山仲間)の奥さんが作られた花器をお借りして活けました。

30数人が出品し、3日間で延べ150人以上が見に来られました。 趣味でされていることがほとんどですが、「へえー」と驚かされる出来ばえの作品もあります。いろいろな方の興味・関心、多才さに感心します。

私も時間の合間に行きました。日頃、挨拶程度で話をしたことのない方々と「世間話」をしました。作品のことや趣味。子育て・子離れ、お墓、断捨離など、話は尽きません。お互いの距離が縮まり、改めてその方の「人となり」を感じます。

何かのご縁で、同じところで生活することになった方々。顔と名前が一致し、気軽に「世間話」が出来る街。その中で、それぞれの居場所と役割がある。

「まちづくり」の目標は、そんな地域を創ることだと思います。

*また、遅れての更新。スミマセン。

堤 清二

11月2日(金)、池上 彰さんの〈夜間授業〉「“戦後”に挑んだ10人の日本人」第6回堤 清二に行ってきました。

清二は昭和2年(1927)3月30日に西武グループ創始者、衆議院議員の父堤 康次郎、母青山 操の長男として東京府北多摩郡三鷹村下連雀に生まれました。

青山 操は、康次郎の3番目の妻(実質4番)でした。 堤 清二には妹の邦子(元西武百貨店取締役 欧州担当)のほか5人の異母兄弟がいました。 元西武鉄道社長の堤 義明は、実質5番目の妻石塚恒子(未入籍)の長男です。

私が最も知りたかったことは、堤 康次郎が西武グループの中核である西武鉄道・コクド(国土計画)・プリンスホテルを義明に任せ、清二には「西武百貨店」のみを引き継がせたのかということです。

清二は昭和26年(1951)東京大学経済学部を卒業後、肺結核で1年半に及ぶ闘病生活をしました。その後衆議院議長となった康次郎の秘書となり、昭和29年(1954)9月、父の指示で母の弟青山二郎が支配人を務めていた西武百貨店に入社。入社時の肩書は「支配人付」。

当時の西武百貨店(池袋)は、何もない店でラーメンが食べられるぐらいなので、「ラーメンデパート」と比喩されていました。西武鉄道もまた、前身の「武蔵野鉄道」が都内の糞尿を郊外へ運ぶ『うんち電車』のイメージが残っていたと思います。子ども時代、西武線が黄色いのは「うんちを運んでいるから」と私も信じていました。

〈夜間授業〉のレジメには、1共産党で詩人で作家で実業家 2共産党員から「ラーメンデパート」へ 3丸物をパルコへ 4渋谷へ進出 5セゾン文化を創出 6異母弟との確執・インターコンチネンタル買収 7作家・辻井 喬 8セゾン解体 とあります。

これを見ただけで、堤 清二の人柄、やってきたことがおぼろげに分かります。

西武百貨店を全国展開し、池袋本店を単独店舗年間売上全国1位にしただけでなく、西友ストア、ファミリーマート、パルコ、無印良品、ロフト、ホテル西洋銀座、インターコンチネンタルホテル、セゾンカード等、時代を読み、次々と新しい事業に挑戦し作り上げていく実業家。パルコ劇場や軽井沢高輪美術館(現、セゾン現代美術館)の開館。糸井重里を起用した「不思議、大好き。」「おいしい生活。」等、物からことへの提案をした思想家。そして詩集「異邦人」、長編小説「虹の岬」に代表される詩人・作家としての顔を持つ「堤 清二」。

「堤 清二」の全体像像は、掴みきれない。西武百貨店から「セゾングループ」へ発展していく過程、同じ時代の空気を感じながら同業で働く者として、羨望の目で見ていました。「堤 清二」の西武百貨店は輝いており、そこで働く人たちは「私たちは、物だけでなく文化を提案している」という自信を持っているように感じていました。文化を「創造」していくカリスマ経営者の下で働くことを誇りにしていたと思います。

堤 康次郎が清二に、なぜ『西武百貨店』のみを引き継がせたのかということの話はありませんでした。堤 康次郎が心筋梗塞で急死した後、清二は自ら異母弟の義明に鉄道・不動産・ホテルを、自分は『西武百貨店』だけで良い、と申し入れました。また、その後見つかった遺書には、『義明に鉄道・不動産・ホテルを任せる。』とあったそうです。

私は、堤 康次郎が清二の「挑戦的反骨精神」と「自己否定」し続ける「破壊願望」があること。そして母青山 操(詩人)の文学的才能を受け継いでいると感じていたからだと思います。『百貨店』の次に来るものを想像し、変革していく。それが出来るのは「清二」だと分かっていたのではないでしょうか。

*更新が遅れました。お詫びします。

*(11/4追記)私が就職活動をしたのは、4年生になってからだったと思います。「百貨店」か「ホテル」で仕事をしたいと考えていました。当時、都庁が有楽町から新宿西口へ移転することが決まっていました。再開発された西口は元淀橋浄水場の跡地です。秋にはススキが茂り、タヌキも出没するような所でした。夜には、怪しいお姉さんも出没していました。小学校の時、社会科見学にきました。勿論、浄水場です。

京王帝都が京王プラザホテルを作り、大手企業の超高層ビルが建ち始めていました。これからは「新宿」だと思い、新宿のデパートの採用試験を受けました。一方、ホテルでの仕事にも魅力を感じていました。収益を稼ぎ出す「宴会」担当です。結婚式の披露宴よりも、企業の創業記念や販売促進関係のパーティがオモシロイと思っていました。

西武グループの「プリンスホテル」を受けました。プリンスホテルは、西武鉄道本社の採用でした。所沢にあった小学校の校舎みたいな本社で試験を受けました。結果は両方ともダメでした。その後「百貨店」からは、『募集人員が変わったので再度受けませんか』との連絡が来ました。「ホテル」の方は、就職課の課長から『川奈ホテルはどうか。プリンスホテルの系列だし』と紹介されましたが、受けませんでした。

最終的には、新たに上野駅前に出店する「京成百貨店」に一期生として入社しました。開店から閉店までの15年間、他の所では経験できない貴重な体験を、魅力的な人達と一緒に仕事をすることが出来ました。幸せな時間でした。

 

 

 

 

川崎春彦

川崎春彦さんが亡くなりました。

10月5日の読売新聞には、「日本画家の川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんが2日、老衰で死去した。89歳だった。告別式は…」とありました。

父親の川崎小虎(かわさき・しょうこ)と義兄の東山魁夷に学び、主に日展を中心に活躍されていました。 代表作の「朝明けの湖」など、力強い色彩による自然の生命力あふれる風景を描いていました。

我が家に団扇(うちわ)があります。40年以上前のものですが、川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんの作品を基に作られたものです。

そこには、「朝明けの草原」が描かれているように見えます。草原の彼方から朝陽が出る前の風景です。手前の湖に光が複雑に反射しています。夜明け前の藍色の空と、草原、白い光、遠くに小さな木があり、鳥が数羽飛んでいます。 また、夏の日の「夕立」後の風景にも見えます。激しい夕立の後、暗い空の切れ目から光が草原と湖にそそいでいるようにも見えます。

いずれにしても、動きのある自然を描いており、じっと見ているとその場所にたたずんでいるような錯覚になります。描かれた世界に引きこまれそうです。

何年間続けたかは覚えていませんが、夏のご挨拶として「粋筋」にお届けしていました。 普通の団扇の倍以上の大きなもので、裏には百貨店の名前が入っています。 柳橋や新橋の料亭で、旦那方に芸者さんが「やさしく」扇いでいたと思います。

川崎春彦(かわさき・はるひこ)さんにお願いしたのは、当時社長だった川崎千春(かわさき・ちはる)の親戚だったからだと思います。川崎千春は京成電鉄の社長でしたが、百貨店の社長も兼ねていました。デパートの包装紙も紆余曲折がありましたが、最終的に東山魁夷の作品から作られました。

「川崎天皇」と言われていたワンマン社長で、絶大な権力を持っていました。成田空港への乗り入れや東京ディズニーランドの開設は、あの方がいなければ出来なかったことだと思います。

我が家にはもう一つ、下保昭(かほ・あきら)さんの水墨画を使った団扇(うちわ)があります。独創的な水墨画の幽玄美で知られる方ですが、今年の8月15日に91歳で亡くなりました。岳父は日本画家の小野竹喬(小野・ちっきよう)です。

団扇(うちわ)を見ていると、昔を思い出します。一緒に仕事をしていた同僚や上司のこと、そして川崎千春(かわさき・ちはる)社長に対し、『お辞めください』と言った自分のことを。

*川崎小虎(かわさき・しょうこ)の祖父は、大和絵画家の川崎千虎(かわさき・ちとら)。尾張藩士で徳川家に仕えた代々浮世絵師の家柄。

「人間ドック」

爽やかな朝を迎えました。

我が家のベランダから「富士山」が見えます。雪に覆われています。手前には、奥多摩から丹沢連峰が連なっています。秋の深まりが少しづつ進んでいると感じます。

4日間続けて「9月議会報告」のチラシを配っているせいか、今朝は5時まで寝ていました。

昨日は30,793歩でした。1時間も歩くと全身に汗をかきますが快適です。夏と比べると同じ時間で倍以上のチラシを配布できます。

それにしても、1週間が本当に短く感じます。毎週、ブログを更新していますが感覚としては昨日書いたばかりという思いです。更新当日の朝、布団の中で『何を書こうかな』と考え、思いついたことを書いてきました。普段、考えていることや気になることを書きとめ、いくつか用意しておけば、毎土曜日に悩まずに済むとも思いますが出来ません。

昨日の朝は、「街の様子」を伝えようかなと思いました。2~3か月に一度、ポスティングで2週間近く街を歩きます。アパートの一室へも届けます。街は常に変化しています。そこに住む人の暮らしや思いも変化しているように感じます。歩く中で、見聞きする様子は今の姿です。

数日前、アパートの一室で片づけをされている方からは、『おばあちゃんが亡くなったの。それで片づけに来ている。』『役に立たなくてごめんね』と言われ、自宅の前にたたずむ老人からは、『家の中に人がいる』と入ろうとしない。いろいろ話かけるが、かみ合わない。玄関から何度も声を掛けると、「父親」を介護されている家族の方に、静かに頭を下げられました。「認知症」の父を抱え、疲れているように見えました。

介護の現実を知らされます。歩くことで、いろいろなことが見えてきます。そんなことを書こうと思いましたが、どうも気持ちがのらず今日を迎えました。今朝思ったことは、昨日届いた「人間ドック」の結果、「健康診断ファイル」についてです。

今月の初め「人間ドック」を受診しました。10年ぶりのドックです。東急の大岡山にある「東急病院」の1日コースです。会社にいる頃は毎年、健保の施設で受診していました。何か異常が見つかると、「再検査」を受けなければなりませんでした。再検査で嫌だったのは「胃カメラ」です。苦い麻酔薬を喉にためて麻痺させ、カメラを入れますが、食道と胃が異物の侵入を阻止しようと抵抗します。今回のドックでは最初から胃カメラでの検査でしたので、少し不安でした。

「東急病院」では問診時に相談があり、麻酔の注射をしましたので眠ってしまいました。全く検査の様子は覚えていません。ドックの最後に速報のデータを基に、医師からフィードバックがありました。

「健康診断ファイル」には、基本検査とオプションで実施した検査結果一覧と担当医のコメント・アドバイスが書かれています。看護士からの生活指導もあります。この他、医療機関への依頼状も同封されています。

ショックだったのは、オプションでやった「健康年齢」でした。実際の年齢より「高い」という結果でした。毎日測っている「タニタ」のヘルスメーターでの「健康年齢」は、実年齢より20歳も若く表示されています。

どう考えても、「タニタ」より「ドック」の方が正しい。と思うと余計に悔しくて、この1年ガンバッテ、来年も「ドック」を受ける決意です。

 

 

 

 

 

渡邊恒雄

一昨日、池上彰さんの〈夜間授業〉「“戦後”に挑んだ10人の日本人」に行ってきました。 第5回「渡邊恒雄」です。

池上さんが選んだ、「渡邊恒雄(ナベツネ)」も、やはり毀誉褒貶(きよほうへん)の人だと思います。

これまで、「ナベツネ」と聞くと余り良い印象がありません。 数年前に起きた清武の乱。渡邊会長のコーチ人事への不当介入を告発した、清武英利読売巨人軍球団社長を解任したことやプロ野球再編騒動の渦中、古田敦也選手会長が会談を求めていると聞き、『たかが選手が』と発言する等。そう思ってしまいます。

配布された「渡邊恒雄」年表によると、1945年(昭和20)東京帝国大学哲学科に入学。7月5日、陸軍2等兵として世田谷三宿の砲兵連隊に入営。終戦後復学し、12月日本共産党に入党。1947年(昭22年)9月、*氏家齋一郎、上田耕一郎、堤清二らとともに「東大新人会」を設立。党から分派活動と批判され、離党届を提出し除名処分となる。とあります。

1950年(昭25)読売新聞社に入社。週刊誌「読売ウイークリー」に配属。51年(昭26)「天皇像を描く」で局長賞。52年(昭27)「日本共産党山村工作隊の潜入ルポ」を執筆。本紙社会面に掲載され、政治部へ異動。

68年(昭43)政治部次長に就任。12月ワシントン支局長に就任。72年(昭47)帰国。編集局参与。75年(昭50)編集局次長兼政治部長。創価学会と日本共産党の「創共協定」をスクープ。78年(昭53)江川卓投手「空白の1日」事件処理に奔走。79年(昭54)取締役論説委員長に就任。83年(昭58)専務取締役論説委員長。85年(昭60)専務取締役・主筆兼論説委員長。87年(昭62)取締役副社長主筆・経理・調査研究担当。90年(平成2)代表取締役副社長主筆・調査研究担当。1991年(平3)読売新聞社第11代代表取締役社長・主筆。横綱審議委員会委員に就任。96年(平8)読売ジャイアンツ(巨人軍)オーナーに就任。

2002年(平成14)読売新聞グループを再編成。持ち株会社「読売新聞グループ本社」代表取締役社長・主筆。04年(平16)グループ本社代表取締役会長・主筆。08年(平20)旭日大授章受賞。14年(平26)巨人軍取締役最高顧問。16年(平28)グループ本社会長を退き、代表取締役・主筆に就任。

年表だけ見ると、出世街道を順調に歩んできたように見えます。実際には社内の派閥や権力闘争、そして政治家との関わりの等、いろいろな絡みの中で役職、役割を勝ち取り積み上げてきたことが分かります。

今でこそ発行部数日本一の「読売新聞」ですが、戦後30年位まで日本を代表する新聞は「朝日」と「毎日」でした。「読売」は、弱小新聞で、正力松太郎(元警察官僚・衆議院議員)迎え、発展の基礎を築きました。渡邊が入社した当時の社内は、「社会部王国」と言われるほどで、いわゆる「きったはった」の3面記事が得意な新聞でした。当然、「社会部にあらざれば、人にあらず」だったと思います。

そんな中、「政治部」で仕事をし、次々とスクープ(特ダネ)を取り実績を上げる程、「社会部」との摩擦も嫉妬も起こってきます。さらに「政治部」でも、それぞれの記者が自分が担当する政治家(派閥の長・親父)を首相にしたいと考えるので、政治部内での対立が生まれます。

1968年(昭43)12月、ワシントン支局長に就任しています。「外信部」ワシントン支局長は花形のポストで栄転と見えますが実際は、佐藤・反佐藤の社内抗争に敗れた結果の左遷でした。左遷された渡邊恒雄に近づく人はおらず、苦しい時を過ごしたようです。

政治記者としては、大野伴睦の信頼を得、盟友・中曽根康弘内閣実現のため田中角栄の支持を取り付けるなどに動いています。社内での地位が上がり、権力を持つにつれ保守派の論客として、読売新聞の政治的方向性をはっきりさせてきています。

1991年(平3)に代表取締役社長になり、94年(平6)に発行部数が1,000万部を突破しました。「憲法改正試案」を発表したのはこの年でした。安倍総理が、詳しくは「読売新聞を読んで」と言い、前文科省事務次官前川喜平氏が「出会い系バー」で女性と関係があった。との記事を一面に掲載しました。時の内閣と新聞との関係を考えるとよくないと思います。読売社内では、動揺が広がり転職をする方もいたと言います。

文章の達人であり、政治家との信頼関係を築き、スクープをものにする記者として、そして経営者として発行部数を伸ばし、政権への影響力を持つ「ナベツネ」ですが、彼が去った後の「読売新聞」はどうなって行くのでしょうか。

マスコミの3悪人と言われた、「朝日」の三浦甲子二(みうらきねじ)・「NHK」の島 桂二・そして「読売」の渡邊恒雄氏に共通するものと異なる所は何なのか、興味深いテーマです。

*「読売」を代表する二人、渡邊恒雄氏と長嶋茂雄氏の体調がかなり良くないと伺いました。厳しい状態のようです。

*氏家齋一郎(うじいえせいいちろう):渡邊の朋友で、元読売新聞常務・日本テレビ社長。上田耕一郎(うえだこういちろう):元日本共産党副委員長、元議長の不破哲三は実弟。堤清二(つつみせいじ):元セゾングループ(西武百貨店・西友ストア・パルコ・ファミリーマート・無印良品等)代表。作家、辻井喬(つじいたかし)は、ペンネーム。

*前文科省事務次官前川喜平氏の問題は、「週刊新潮」や他紙が事実関係を報道。政権側の「印象操作」に加担した「読売新聞」の責任が問われるとともに、イメージダウンに繋がることに。