「花粉症」

久しぶりに今年は、「花粉症」の症状が出ています。

朝起きると、鼻水が止まらず目の「かゆみ」が続き、寝る時には鼻がつまり目覚めると口が渇いています。

以前、「血液検査」を受けたことがあります。結果は、スギ➔ヒノキ➔ダニ・ハウスダスト➔?の順に影響を受けることが分かりました。

以来、「花粉症」対策を続けています。2月後半から4月末までは、①外出時のマスク着用 ②花粉の付きにくい上着を着る ③洗濯物の室内干し(お風呂場) ④空気清浄器の24時間稼働 ⑤薬等です。薬は出来るだけ使わないようにしていますが、症状がひどい時は、「目薬」と「アレルギー性鼻炎」の薬を、また、花粉の侵入を防ぐ塗り薬(鼻)を使うこともあります。

20年位前からは「体質改善」を図る為、毎日、ヨーグルトを食べています。腸内細菌の正常化に役立つ食品の摂取も心がけています。そのせいか、高齢化による影響なのかは分かりませんが60歳を超えたあたりから、症状が軽くなってきました。生活にそれ程困るような影響は出ていませんでした。

私の場合は、高校時代から毎年、3月・4月頃になると、くしゃみ、鼻水・つまり、目のかゆみ等の症状が出ました。いつの間にか治まっていた為、そのままにしていました。その頃は、「花粉症」という言葉ありませんでした。いつ頃からその言葉が使われ、原因や対策についてもいつ頃に明らかにされたのか、よく分かりません。

 最近はテレビで毎朝、「花粉情報」が流されています。「スギ・ヒノキ」、「多い・やや多い・少ない」が、地域ごとに示されています。多くの人が、「花粉症」になっているという事です。

原因物質の「スギ・ヒノキ」という言葉を聞くたびに思うことですが、身体が示す「アレルギー反応」の原因はそれだけなのかという事です。 毎日飲んでいる「水」、24時間吸う「空気」、食べている「食品」の影響はないのでしょうか。

加工食品や調理済み食品の利用が飛躍的に増えてきました。「食品添加物」との関わりです。「水」、「空気」、「食品」の複合的な原因は考えられないのでしょうか。

携帯電話、パソコン、電子レンジ、テレビ等が出す「電磁波 」。洗濯用洗剤の香料、柔軟剤。住宅に使われている建材、壁紙に使っている「接着剤・のり」等との関わりはないのでしょうか。普段、日常生活の中で利用しているもので「アレルギー反応や身体的支障」が出ている方もいます。

私が最も心配しているのば、「携帯電話」です。「脳」に近い所で使用しますので、「脳」への影響があると思います。 すでに数年前から、携帯電話基地局周辺住民の健康被害が表面化しています。

ある日突然、人々がとんでもない行動をし、社会全体が混乱・パニックに陥ることが起こることのないよう、安全な電話(通信手段)の開発・改良を進めるべきだと考えています。

豊かで便利な生活を送れることは、ありがたいことです。しかしその前提は「安全」です。

初めてのこと

選挙は3回経験していますが、初めて「選挙ポスター」を貼りました。

久喜市の市議会議員選挙(市長選挙も)が今日から始まりました。

勉強会の仲間で、1977年(昭和52年)に26歳で初当選した無所属市民派議員の応援です。 議員生活40年以上の大ベテランですが、支援者が高齢化し、 ポスター貼りの人手が足りないというので、私の所属会派(市民の会・無所属)の議員と一緒に行きました。

朝7時30分に迎えに来てもらい、車で久喜へ向かいました。雨がかなり強く降っていましたので、山で使う雨カッパ、着替えやタオル、帽子そして大きい傘を用意し、万全の準備をしました。

フロントガラスについた大粒の雨をワイパーが振り払いますが、不安がよぎります。雨の中で、ポスターを掲示版にうまく張ることが出来るか心配でした。

最近の選挙ポスターは、裏面が全て糊付けされていますので掲示板が乾いていれば、完全に張ることが出来ます。10年前の私の選挙の時は、一枚づつ裏面まわりに両面テープを使って準備をしました。

彼の自宅が選挙事務所ですが、到着して掲示場所(番号)が決まるまで待機していました。番号の連絡が入り、事務所を出る頃には、幸いにして雨もほとんど止んでいました。これも、やはり「日頃の行い」と勝手に解釈しました。

一緒に行った議員が昔、久喜に住んでいたことがあり、土地勘のある地域を任されたので、20数箇所をスムーズに張り終えることが出来ました。

事務所の責任者から、貼り終えたポスターの隅8か所を画鋲でとめるよう指示されました。吉川ではやっていないと思いますが、久喜では他の候補も同じようにしていました。

他候補のポスター貼りの方と一緒になりました。二人一組でやる支援者もいれば、一人でやってる人もいました。また、車の他にオートバイや自転車を使って移動している方もいました。

ポスターの掲示一つとっても、やり方はさまざまです。選対、選挙事務所、ビラまき、選挙カーの運転手・ウグイス、選挙ハガキの宛名書き、食事、電話担当等、地域や候補者によってやり方は様々ですが、これからどうしていくのかは共通の課題です。

選挙は「いろんな方の支援がなければ出来ないし、一人では戦えない」ことです。お力添えをいただけることは、本当に「有難いことです」。しかし時代が、地域が、人々が変わる中、「今までのやり方は続けられない」と改めて思った「初めてのポスター貼り」でした。

*ブログの更新が大変遅くなり、申し訳ありません。

ペンタゴン・ペーパーズ

一昨日、映画を見ました。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書。 主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。監督はスティーブン・スピルバーグです。

1970年代初め、泥沼化していたベトナム戦争について調査・分析した政府の機密文書を報じたワシントン・ポスト紙の実話に基づく物語です。

35代大統領ジョン・F・ケネディ、36代リンドン・ジョンソン大統領の下で1968年迄、国務長官を務めたロバート・マクナマラがまとめた政府の「機密文書」を入手し、これを公表するか、見送るかの判断を迫られるワシントン・ポスト社主(メリル・ストリープ)の苦悩を描いています。

編集主幹(トム・ハンクス)は掲載を主張するが、会社の重役陣や顧問弁護士等は、『会社そのものが無くなり、逮捕される恐れがある危険な賭け』と反対。

ライバル紙のニューヨーク・タイムズが少し前にスクープをしたが、裁判所から出版差し止め命令を受けている状況の中、社主(メリル・ストリープ)が下した判断は、『報道の自由を守る』。

ケネディ大統領を含む歴代政権がつき続けてきた「ウソ」を暴き、掲載しました。

ニューヨーク・タイムズとともにワシントン・ポスト関係者が最高裁判所に呼ばれる。この時の大統領が37代リチャード・ニクソンです。 下された判断は、『新聞は、権力者のためでなく、国民のためにある』。

トランプ大統領が国内外を驚かすことを次々と行う中、スピルバーグ監督が皆に言いたいことだと思いました。 日本でも安倍政権が続いています。私もそう思います。

ベトナム戦争が終結したのは、1975年4月30日ですが、いつから始まったのかについては諸説あります。一般的には、ケネディ大統領の時代、1961年に起こした、アメリカの本格的軍事行動を戦争の始まりとしています。宣戦布告なき戦争と言われています。元々の始まりは、南ベトナムでの内戦です。

第2次世界大戦後、フランスの植民地であったベトナムは、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に別れました。親米の南ベトナムに対し、北ベトナムの後ろにはソビエトがいました。冷戦の時代、アメリカとソビエトの代理戦争的な側面もありました。アメリカは「ドミノ倒し」理論で、『北ベトナムが勝利すればベトナムだけでなく東南アジアが次々と共産化してしまう』。また、『中国共産主義封じ込め』という意味もありました。

一方、北ベトナム側はベトナム民族解放闘争で、南を開放して南北を社会主義国として再統一することを目標としました。そして、アメリカの新植民地主義に対する戦争であると位置づけていました。

映画では、国務長官マクナマラが調査・分析した「機密文書」には、『アメリカはこの戦争には勝てない』。しかし、今公表することは出来ない。将来、ベトナム戦争の歴史的検証を行う時のため、まとめたものである。そして、歴代大統領が戦争を止めることが出来なかったのは、『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』ことだった。戦争を続けた理由の3割が「ドミノ倒し」の防ぐこと、7割は『自分が大統領の時に、アメリカが負けるわけにはいかない』からと描いています。勝てない戦争と分かっていながら、国民にウソをつき、若者を戦場に送り続けたとしています。

この時代は、私が高校・大学そして社会人になった頃でした。アメリカではすさまじい「反戦運動」が起こっていました。日本でも新聞や雑誌、テレビの報道が続いていました。朝日新聞特派員だった開高 健がベトナムから送り続けたルポルタージュ(ベトナム戦記)も出ていました。べ平連(ベトナムに平和を市民連合)が組織され、大学構内には、「戦争反対」の立て看板が置かれアジ演説とデモは日常の風景でした。

新宿西口地下広場では、「戦争反対」のフォーク集会が毎週(土曜日?)開かれていました。広場には、数百人、数千人が集まり「反戦歌」を歌っていました。勤め帰りのサラリーマン・高校生・大学生・オジサン・オバサン達が一緒にフォークソングを歌いシュプレヒコールを叫んでいました。自分の意思で集まってくる人達でした。また、いろんな所にフォークゲリラが出没して、居合わせた人と歌っていました。

やがて「地下広場」は、「地下通路」と改められました。市民が見守る中、警察官と機動隊が、『ここは通路です』『立ち止まらないでください』『座らないでください』とアナウンスするようになりました。

1975年4月、ベトナム戦争は終わりました。

日本では、『横田基地でいいアルバイトがある。ベトナムで死んだ米兵の遺体を洗う仕事は1万円もらえる』。が話題に上らなくなりました。今度は、アメリカへ帰還した人達の中に、『心や身体に傷を負い未だに社会復帰出来ない人や、枯葉剤(ダイオキシン)の影響を受けている方がいる』。『時間を経て、仕事や家庭での生活が難しくなった人もいるようだ』。との話が伝わってきました。

いつの時代でも、犠牲になるのはまず「若者」ですが、家族・友人も心に傷を負います。社会全体が深く傷つくのが「戦争」だと思います。

*追記4月8日 1 新宿西口地下広場での反戦フォーク集会で歌われていた歌は、「受験生ブルース」「自衛隊に入ろう」「機動隊ブルース」「友よ」等でした。2 その後、ワシントン・ポスト紙が追及した事件として、「ウオーターゲート」があります。民主党全国委員会本部へ不法侵入し、盗聴をした事件です。37代大統領リチャード・ニクソンが関わっていたとして、民主党だけでなく共和党からも批判が起こりニクソンは辞任しました。任期中に辞任した大統領は、ニクソンが初めてだそうです。3 ロバート・マクナマラは国務長官を辞めた後、世界銀行の総裁になりました(1968~81年)。

 

 

小さな旅

昨夜11時半に寝たせいか、今朝3時半に目が覚めました。

起きてバタバタする訳にもいかないので、しばらくそのまま布団の中で『もそもそ』していました。

5時に家を出ました。久しぶりの「散歩」です。

くすんだオレンジ色の月が、濃いブルーの空に輝いていました。ついこの間まで暗闇の世界だったのに、足元を照らす懐中電灯なしで歩ける明るさです。いい朝です。

3月議会は20日に終わりましたが、吉川市議会で初めての当初予算「減額修正(案)」提出もあり、忙しい議会でした。

 議会終了後も、小学校の卒業式や議会広報委員会等への出席、3月議会報告チラシ(会派及びいとう・いながき)の作成をかなりのスピードで行いました。

このひと月、議会中心の生活でしたのでほとんど「散歩」をしていません。今月は20万歩程度で終わりそうです。

久しぶりの「朝の散歩」。随分と春めいてきたと感じました。夜明けの時間、木々の芽吹き、冬の冷たさとは違う爽やかな空気、『新緑』の季節も間近です。

レイクタウン調節池の一角に、ビオトープゾーンがあります。遊歩道からは、木々の間に池の水面が見えます。水面(みなも)は朝陽を浴び、キラキラと輝いています。道路側を見上げると、『しだれ桜』の並木が続いています。木の下には『雪柳』が隙間なく繋がっています。桜(染井吉野)は散り始めてきましたが、『しだれ桜』はもう少し楽しめそうです。少し濃いピンク色の花びらが綺麗です。

輝く水面、しだれ桜、雪柳の中にいると、自分がまるで別世界にいる様に思います。遠くの土地に来ている様に感じます。そして、『名人』と言われたお花の先生に、『偉くなったり、お金持ちになることも幸せかも知れませんが、身近な花や木々で「季節の移ろい」を感じられることも幸せではないですか』と言われたことを思い出します。

 

 

 

 

 

せともの

日本中で、「せともの」と言っていたのかどうかは知りませんが、東京では、「焼き物(陶磁器)」の総称として「せともの」と呼んでいたと思います。どこの町にも「せともの屋」はありました。

店の看板には「せともの」と書かれていました。茶わんや急須、花瓶に火鉢そして湯たんぽ等、家庭で使う実用陶器は皆、「せともの」と言っていました。 私の中学時代までは、駅弁と一緒に売っていた「お茶」も容器は焼き物でした。

『瀬戸(愛知県)』が代表的な製陶の中心地であり、いかに『瀬戸』の陶磁器が東日本で広く流通していたかが分かります。

日本での陶磁器の歴史は、中国や朝鮮と比べると数千年遅れて発展したと言います。縄文土器、弥生土器、須恵器の時代が長く、平安の後期から 、瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、備前で作られました。六古窯と言われています。

瀬戸の起源は、加藤四郎左衛門景正による中国製陶法の招来とされています。道元禅師が貞応2年(1223年)宋に渡った時、従者として渡宋し、禅修業の傍ら製陶の修業をし安貞2年(1228年)帰国後、瀬戸(尾張)に窯を築き、中国風の陶器を焼きはじめたのが起源とされます。

美濃、唐津、萩、京、伊万里、色鍋島、古九谷等は室町・桃山時代後半からです。美濃では、志野、黄瀬戸、織部、古伊賀等、京では仁清、乾山等です。信長や秀吉そして千利休が茶会を催していた時代です。

利休七哲の中で、異色の存在が古田織部。信長・秀吉に従って戦い、戦功によって三万五千石の大名になった武士です。利休について茶道を学び、極意を伝授されました。利休の死後、茶の湯の名人とよばれ、家康や二代将軍とも交流がありましたが、大阪夏の陣・冬の陣で豊臣側に内通した疑いで切腹となりました。

織部焼は斬新でデザイン性、創造性に富んだ焼き物です。形、文様とも自由で独創的で、今見てもモダンでアートだと思います。丸・三角・線の幾何学的図形の大胆な組み合わせの文様、型にとらわれない造形、濃い緑、信じられない程です。織部は、千利休の『侘び・寂び』とは対照的な世界のように感じますが、時の権力者によって「切腹」となったのは何とも不思議な事です。

志野、黄瀬戸とともに「織部」は好きな焼き物の一つです。

それにしても、相当前から「せともの屋」さんを見かけません。いつ頃から無くなってしまったのでしょうか。

 

 

 

「濱田庄司」

「太陽」という雑誌で、荒川豊蔵や加藤唐九郎を知り、備前や志野、織部、黄瀬戸、信楽そして古伊万里、古九谷の美しさに驚かされました。

志野や織部の斬新なデザイン、色づかい、草花の絵付け。こんなものが、信長や古田織部の時代に作られていたとは信じられない驚きでした。

大学が渋谷にありましたので、根津美術館や駒場の日本民芸館へはよく行きました。 日本民芸館では、柳宗悦、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司たちが創めた民芸運動に出会い、人が生活のために使う器や道具に興味をもちました。

かつては、衣・食・住に係わるものは全て、自然のものを利用していました。 食生活に必要な、お椀・箸・まな板・桶やひしゃく、ざる・かご、石臼、瓶(かめ)やお皿等、それぞれの土地で身近にある木・竹・石そして土を使って作られています。 かつて、つくられた物や伝統の技を受け継いでいる物を見ると、改めて、人間の知識と知恵、豊かな感性に驚きます。

益子へは2人(私と妻)で時々行っていました。結婚する前の方が多かったと思いますが、街をあちこち歩き、窯元をのぞいていました。 濱田庄司をはじめ島岡達三、加守田章二等、有名な方々が活躍していましたが、若い作家も移り住んできていました。

濱田庄司の*美術館が出来たと聞いて訪ねてみました。小さなところでしたが、二人でしばらく見ていると、そこの責任者らしき人が、濱田庄司さんの工房を見せてくれると言う。

登り窯や工房の中を案内していただいた。 そこで制作している様子が直に、伝わってくるような感じでした。そして、印象的だったのはどの場所だか覚えていませんが、家具が無造作においてあったことでした。

朝鮮の箪笥に日本の舟箪笥、イギリスやヨーロッパのテーブルと椅子、南米、アフリカのものもありました。沢山ありました。 案内をして下さった方からは、濱田庄司は収集家としても一流で、世界中から家具だけでなく、陶磁器やいろいろな物を集めている、と伺いました。

私が感じたのは、いろいろな国や地域、時代も異なっているのに「違和感」がないことでした。不思議な場所でした。 それは、『人が生活のために使うものは、シンプルで機能的で美しい』からだと思いました。

*正しくは、濱田庄司記念益子参考館です。その後古民家や蔵、門なども移築しており、参考館の規模も拡大されているそうです。何十年も行っていませんので、また行ってみたいと思います。

*荻窪駅西口に「いづみ工芸」という店があり、濱田庄司や島岡達三の作品をはじめ、全国の焼き物や民芸品を販売していました。結婚するまで荻窪(実家)にいたので、時々のぞいていました。オモシロイ物をいくつか買いましたが、現在は何一つ残っていません。

「川上澄生」

初めて、「川上澄生」の名前を知ったのは、40年以上前のことです。

版画家「棟方志功」について書かれた雑誌で、「川上澄生」の名前を目にしたか、あるいはTVコマーシャルの中で、川上澄生の「南蛮船」の版画を見た時だと思います。どちらが先かは思い出しません。

棟方志功は若い頃、「油絵」を描いていましたが、ある日、川上澄生の「初夏の風」を見て「版画家」になったそうです。棟方志功に衝撃を与えた、川上澄生の「初夏の風」はどんなものなのか知りたいと思いました。

テレビコマーシャルで流された「南蛮船(人?)」を見た時、私も衝撃を受けました。川上澄生の「南蛮船(人)」とともに、『タバコ渡来す。これ悪魔のわざか…』のナレーションが入りました。確か、サントリーウイスキーの宣伝だったと思います。 それ以来、関心を持ち続けています。

宇都宮(鹿沼)で開催されていた、「川上澄生」の版画展へも時々行きました。

本は、神田の古本市(店内の催事)で見つけていました。手元には、手刷り木版画付き全集(14巻)と古本が少しあります。版画の付いていない全集は、妹が欲しいというのであげました。

たまに、見たり読んだりしますが、いつ見ても新鮮でいい版画だと感じます。心が落ち着きます。

「川上澄生」は横浜・長崎・銀座、南蛮や文明開化の風俗をテーマに多くの作品を残しています。アラスカの風景や北海道のアイヌに係わるものもあります。当時の日本人が南蛮や文明開化を目にしたときの素直な驚きと憧れが伝わってきます。懐古的で詩情にあふれた眼差しで、人や建物、街かどや自然の風景そして物を見つめています。木版画だけでなくガラス絵、詩、絵本等いろいろなものを制作しています。我が家で使っていたトランプの絵には、着物姿の日本人や暮らしの中で使う道具等が描かれていました。ユーモアのセンスもあります。

どの作品にも「川上澄生」の発想の豊かさと表現に驚かされます。そして詩情と優しい感性に、『日本人』を感じます。

議会が終わり一段落したら、4月Ⅰ日から再開する(現在改修工事中)鹿沼の「川上澄生美術館」で、ゆっくりと実物を見たいと思っています。

*川上澄生  明治28年横浜に生まれ3歳の時、東京青山へ移転。大正4年20歳で母を亡くし、その後父の勧めでカナダへ渡りました。アラスカへも行き、缶詰工場(鮭缶のホイットニー)の人夫として働きました。大正7年に帰国。大正10年、栃木県立宇都宮中学校(現宇都宮高校)の英語教師になりました(大学は青山学院)。木版画の制作は大正元年ですが、本格的に始めたのはこの頃です。前回ご紹介した、「初夏の風」は宇都宮時代の作品です。生徒から付けられたあだ名は「ハリさん」。髪の毛がハリネズミのようだったそうです。本人は、「ゑげれすいろは人物」の中で自らを『へっぽこ先生』と言っています。昭和13年に結婚し、太平洋戦争が始まった昭和16年に学校を退職。昭和20年、妻の実家がある北海道へ疎開。苫小牧中学で教鞭を取りながら、アイヌの風俗や北海道の自然をテーマに制作。昭和23年、ふたたび宇都宮へ戻り、県立宇都宮女子高校の講師となりました。戦後の作品は南蛮と文明開化がテーマです。昭和47年9月没。77歳でした。

【追記3月12日】*「初夏の風」 ピンクのドレスを着た若い婦人が左手に日傘を持ち、右手は帽子を押さえています。スカートか風を受け、ふくらみ傾いています。彼女の周りを抽象化された風が覆うようにエメラルドグリーンで描かれています。代表作の一つですが、現存しているのは2枚だそうです。この他に、別の婦人と思われる方の版画があります。成熟した感じの女性の姿が逆の構図で描かれ、詩は「われはかぜとなりたや」で始まります。単色(墨)で刷られた作品です。また、宇都宮時代に制作した「初夏の風」の女性だけを描いた版画もあります。

 

 

春一番


3月Ⅰ日、昨年より12日遅い「春一番」。強い南風が吹き、関東地方にも春が来ました。東北や北海道では、「数年に一度」の猛吹雪となりました。

晩夏の午後、吹く風に秋の訪れを。吹き寄せられた「落ち葉」に木枯らしの季節を感じます。「もう」・「いよいよ」・「やはり」という感覚です。

子どもの頃、プールの帰り道。生暖かい風に「夕立」を予感しました。黒い雲、大粒の雨、突風と雷。それが終わると何もなかったのように広がる、「夏の空」でした。

山では、下山途中に大きな木がそよぎます。そんな時、『地球』は生きていると感じます。

ボブディランが「風に吹かれて」を歌い、五木寛之は「風に吹かれて」を書きました。私が最も好きな「風」は、川上澄生の「初夏の風」です。 版画に詩が彫られています。ご紹介します。

     「初夏の風」    

かぜとなりたや    はつなつのかぜとなりたや    かのひとのまえにはだかり    かのひとのうしろよりふく    はつなつのかぜとなりたや    はつなつのかぜとなりたや

出来ることなら、生きたいる間、「風を感じられる」人でありたいと思っています。

*更新が遅れました。申し訳ありません

春です

寒い日が続いていますが、日一日と春めいてきました。

6時前には明るくなり、夕闇の訪れも延びてきました。一日の時間が長く感じられます。

今朝は、5時半に起き6時10分前に家を出ました。吉川橋を渡り越谷レイクタウンの調節池を2周した後、いつもの場所で体操をしました。途中、昨日の朝まで降った雨で道路のくぼみの水が凍り、枯れた芝生には霜が降り輝いていました。

朝日を浴びながらの体操は気分のいいものです。調節池の周囲の道路や休憩スペースからは、池とマンション・戸建てが見えます。私はいつも、池を挟んで駅周辺のマンションの方を向いて体操をしています。

調節池の遊歩道には、ウオーキングや犬の散歩をする人がいます。今日は、マラソンをしている方が多いように思いました。

間もなく啓蟄です。やはり、春の訪れを「身体」が感じているのかも知れません。虫も人も動き始める季節です。

議会の方も昨日から始まりました。市長の「施政方針演説」があり、議案が上程されました。

第12号議案は、「吉川市における幸福実感向上を目指したまちづくりのための産業振興基本条例」ですが、条文の中に『事業者、勤労者及び市民の幸福実感向上を目指したまちづくりを推進する』とあります。

私には、産業振興基本条例の中に『幸福実感向上』を盛り込む理由がよく分かりません。

『幸福』に対する「思い」や「幸福感」は、人により異なり、他人が「とやかく」言えるようなものではない思います。

 

 

「腸内フローラ」に感謝

一昨日の深夜2時、目が覚めました。就寝してから突然の腹痛で、1時間足らずで起きてしまいました。

最近は風邪をひくこともなく、腹痛も5年位はなかったと思います。

トイレの中で30分程痛みに耐えていました。冷や汗か脂汗か分かりませんが、顔からも体中から汗が出ました。

途中、妻を起こして救急車を呼んでもらおうかとも考えました。「深夜なので、マンション内に入ったらサイレンは鳴らさないようにお願いしよう。吐き気もあったので、下痢と吐き気で熱が出ないとなれば、今年のインフルエンザの一つの方と一致する」等と思っていました。

幸いにして、30分程で治まりました。 妻を起こさないように静かに着替えをして、再度床に就きました。

日頃、家族をはじめ身近な人に、『予防接種はしない方が良い。免疫力を高めるようにしていれば大丈夫』と言っているので、インフルエンザだったら『嫌だな』と思っているうちに寝てしまった。 これまで救急車に乗ったことはありませんが、お世話にならずに済んで良かったと思います。

以前から、「腸内細菌」には気を付けています。出来るだけ善玉菌を優勢にしておこうと、食事に注意を払っています。 野菜や発酵食品を食べ、善玉菌の代表であるビフィズス菌を多く取るようにしています。ヨーグルトやヤクルトもいいと思いますが、日本人には植物性の乳酸菌が身体にあっていると思い、カゴメの「ラブレ」を毎日飲んでいます。

いずれにしても、健康と若さのためには腸内の善玉菌を多くしておくことだと思っています。

腸内には1,000種類、100兆個を超える菌がおり、発ガンや各種疾病に関係し免疫能の促進、抑制に作用しています。 人の「健康と病気」に深く関係しています。

 「腸内細菌」は、善玉菌(20%)、悪玉菌(10%)、日和見菌(70%)の3グループに分けられ、常に勢力争いを繰り広げせめぎ合っています。日和見菌はいつも、どちらか強い方の味方になっています。

私たちの社会もよく似ています。 多くの人は、強い方の味方をします。まわりの人と異なる言動を慎み、敵ではないと装います。 おだやかに生きていくための知恵かも知れません。

議会も似ています。 どちらの側を善玉、悪玉とするかは、見ている人によって違います。

自分は、善玉か悪玉かは分かりませんが、「日和見」でないことだけは確かだと思います。

*当日は、朝からまた元気に仕事が出来ました。腸内フローラに感謝しています。