先週に書いた “浮世絵”に魅せられた「職人」。テレビを見終わって、真っ先に浮かんだのが「竹鶴 政孝」のことです。
ニッカウヰスキーの創業者。 NHKの朝ドラ、「マッサン」の主人公となった人です。
広島県竹原町(現在竹原市)の「つくり酒屋」の三男として生まれ、家業を継ぐため大阪工業高校(現大阪大学)醸造科に入り、ウイスキーに魅せられ、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きた人です。 日経の、「私の履歴書」に自らそのように書いています。
私は35年位前、百貨店で「酒」の担当になった時、ニッカウヰスキーの営業マンから、「ウイスキーと私 竹鶴 政孝 」という本を頂き、竹鶴 政孝の半生、ニッカウヰスキーという会社の歴史を知りました。 読み終わって、いずれ「竹鶴 政孝」について映画やテレビで取りあげられると思っていました。しかし、これ程長くかかるとは思いませんでした。
彼はウイスキーづくりの「職人」であり、有能な「プレンダー」、「研究者・学者」、「経営者」そして妻、「リタ」の良き夫でした。
本格的なウイスキーを造るため大正7年3月、摂津酒造㈱からウイスキーの勉強にイギリスへ渡り、グラスゴー大学に入学(応用化学科)。教授の尽力でスコッチウイスキー工場で働き、醸造だけでなく、蒸留に使うポット・スチル(単式蒸留機)、樽等ウイスキーづくりに必要な技術、経験とカンを身に付けてきました。
人の嫌がる蒸留を終えた釜の清掃も進んで買って出る等、その仕事ぶりから、他の職人がいない深夜にこっそりとカフェ式連続蒸留機のバルブの加減、コツを夜通し教えてくれた職人(モルトマン)もいたようです。
大正10年9月、帰国しましたが摂津酒造㈱での洋酒製造計画が消えた為退社しています。 その後、㈱壽屋(サントリー)へ10年契約で入社し日本で初めての本格的ウイスキー工場(山崎)を立ち上げ、ウイスキー製造に従事していました。 サントリーもニッカも大元は一緒です。「竹鶴」がイギリスで学んできたスコッチウイスキーづくりの「技術」です。 現在、日本のウイスキーは国際的に高い評価を受けていますが、「竹鶴 政孝」がいなければ、あり得なかったと思います。
昭和44年、イギリスのデイリー・エキスプレスが『日本、スコッチの市場に侵入』という見出で大きな記事を掲載しました。
ニューヨークタイムスにのった「ニッカ」の公告を見てエキスプレスの記者たちが、「ニッカ」と「スコッチ」ウイスキーの最高級もの数本を目隠しテストで飲み比べたところ、これが日本製だろうと皆が選んだウイスキーは、悲しいことにスコッチでも最高の12年ものだった。 “英国がもっていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は英国のもっとも神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた”という記事です。
「竹鶴 政孝」は本当に嬉しかったと思います。
昭和9年、「竹鶴」は北海道余市に、大日本果汁㈱を創立しウイスキーの製造をはじめました。ウイスキーは作ってすぐに売れるものではないので、余市で採れる「りんご」をつかった*“アップルジュース”を製造・販売し、ウイスキーづくりを進めて行きました。*(アップルワインと書いていましたが、正しくはアップルジュースです。6/7訂正)
「ニッカ」という名前は大日本果汁から(ニッポンカジュウなのでニッカ)とっています。ニッカウヰスキー、ニッカブランデーの販売は昭和15年、ニッカウヰスキーに社名変更したのは、昭和27年8月です。 現在はアサヒビールのグループ会社となっています。
「竹鶴」が学んだスコッチウイスキーは、スコットランド。ハイランド地方とローランド地方で造られています。ハイランドがモルトウイスキー、ローランドがグレーン・ウイスキーの主産地です。 ニッカの余市工場はモルトウイスキー、仙台工場ではグレーン・ウイスキーを造って(多分)います。余市はハイランド地方、 仙台はローランドに近い土地のようです。
私も いつか、「ニッカ」の余市と仙台工場を見て、「竹鶴 政孝」が学んだスコットランドのハイランド、ローランド地方へ行こうと思います。
酒担当時代から、ウイスキーは「ニッカ」と決めています。