“異常気象”という言葉が使われてから、相当な年月がたっています。
今年も、九州北部の記録的大雨をはじめ秋田県雄物川の氾濫、新潟でも局地的な「集中豪雨」で大きな被害が出ています。 都内でも、かつてないような大粒の「雹(ひょう)」が降りました。
『何十年ここで生活しているが初めてのことだ』『ただ、途方に暮れる』と話される方ばかりです。多くの人は、「日常」は続くと思っています。健康や災害による禍は、自身に降りかかってその恐ろしさに気づきます。また、他人の痛みや苦しみを理解し、共有するのはむずかしいことだと思います。
議員として、いろいろな問題に取り組んできました。困り果て苦しんでいる人の状況と、少し離れた人が感じる『思い』を『温度差』等という薄っぺらな言葉で表せるものではありません。
梅雨明け前から「台風」が接近したり、梅雨なのに雨が降らず真夏日が続きました。「季節」の区切りななくなってきたように感じます。これだけ“おかしなこと”が長い間続いていると、こうしたことが“異常”とは言えなくなってきました。
先日、衆議院・参議院で行われた加計学園問題の集中審議をテレビで見ていました。 加計学園もそうですが、森友学園、テロ準備罪(共謀罪)、安全保障関連法案等不十分な審議が続きました。おかしなことです。
温暖化による異常気象については、『いつでもどこでも起こりうること』と考え、備えをし心構えが出来ます。 しかし政治の異常な状況を、当たり前な「日常」として受け入れるには無理があります。 『異常なことは異常であり、おかしなことはおかしい』と思います。
皆、今の“異常気象”や“政治状況”の原因については分かっています。どうしたらよいのかも。
でも、それが出来ない・をやらない理由は、同じところにあると思います。