〈夜間授業〉 第8回・石原慎太郎

昨夜、池上彰さんの〈夜間授業〉 第8回・石原慎太郎へ行ってきました。

このところ、「市長選挙」の応援で駅頭に立ったり、挨拶回りに同行したり、ポスター貼り等でせわしなく動いていましたので、少し気分を変えるため出かけました。
それにしても、ほとんど選挙準備が出来ていない中で本当に大丈夫かなと心配ですが、ぐすぐず言ってもしょうがないので「やるしかないな」という感じです。

「石原慎太郎」といえば、浮かんでくるのは作家としての慎太郎と参議院・衆議院議員としての顔、そして東京都知事時代の取り組みです。

「太陽の季節」が芥川賞を受賞(1956・昭和31)。

経済白書が「もはや戦後ではない」と、復興が終わり日本経済は自立し高度成長へ向かって行く時代。高校生の無軌道ぶりを描いた作品は映画化され、弟の裕次郎が俳優デビューし、トップスターへの道を歩むきっかけとなりました。

石原慎太郎さんの本は、2016年(平成28)に田中角栄について一人称で書いた長編小説『天才』以外読んだことはありません。映画も見ていません。『天才』は、角栄の実像とは少し違うのではないかという印象を持ちました。

「慎太郎」という名を初めて耳にしたのは、小学生の時です。相撲大会に出た時、「慎太郎刈り、ガンバレ」という声援を受け、その後、石原慎太郎という作家がいることを知りました。

芥川賞の他、文學界新人賞、文藝春秋読者賞、芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞等を受賞していますので、戦後の文学界に影響を与えた一人であったことは間違いないようです。

国会議員時代は、中川一郎、渡辺美智雄などと旗揚げした「青嵐会」で31人の血判状を作成(1973・昭和48)し、自民党内で暴れていたような記憶があります。なにをやったのかははっきりと覚えていませんが、相当世間を騒がせていました。

私も当時、「我々も青嵐会のように、暴れなくてはいけない」と、同期(百貨店時代)の集まりでと言っていたと思います。

東京都知事時代には、話題性のあることをいろいろやっていたと思います。功罪ありますが、最大の功は「環境対策」に取り組んだことです。

ディーゼル車から排出された粉じんを「ペットボトル」で見せ、規制の必要性を訴えたディーゼル車の排ガス規制です。国に先駆けて行った規制は、国の規制へとつながりました。
都民マラソンも成功例だと思います。

失敗したのは、「外形標準課税」導入、都立大学を「首都大学東京」にしたこと、「新銀行東京」の設立です。

銀行から新たな税金を得ようとした外形標準課税は、都民の拍手喝采を受けましたが、実施後、裁判に負け実現出来ませんでした。

4つの都立大学を首都大学東京にしましたが、来年から「都立大学」に戻るようです。

中小企業に、無担保・無保証で積極的に融資する銀行として「新銀行東京」を作り1000億円出しましたが、経営は悪化。1000億円の赤字となり、きらぼし銀行に救済されることに。

築地市場の豊洲移転は、どこまで関わっていたのか分かりませんが、どちらになるのでしょうか。

「石原慎太郎」最大の失敗は、尖閣諸島購入を提起し、日中関係の緊張を高めたことだと思います。東京都が14億を集め、島の所有者(埼玉在住)から購入をしようとしたことを受け、民主党野田政権が20億円で購入したことで、現在の状況が生まれています。

日中国交正常化の時、尖閣諸島の帰属問題を取り上げれば交渉はまとまらず決裂する。この問題については、「今の我々はそれを解決する知恵がない。次の時代の人達に委ねよう」と、日中でそっとしておくことにしたことを『揺り起こして』しまいました。

世の中には、はっきりさせない方が良いこともあります。国と国との関係でも、触れないことで対立が起きないこともあります。環境がある程度整って初めて、懸案の解決へ向けた話し合いが出来ると思います。企業でも、「対応しない対応」もあります。あえて、解決しないことです。

今、海上保安庁は本当に大変です。漁業に携わる方も同じです。困ったことです。

「石原慎太郎」は、豪放磊落のようで小心者の側面があります。
天真爛漫な所があり、野心・野望を隠すことなく弱い所を見せません。

相手のことは考えず、思ったことをすぐ口に出し、批判されるとすぐに取り消したりごまかすこともありました。「ばばあ」や「三国人」、東日本大震災時の「天罰」発言等数えきれません。

神奈川県立湘南中学(現県立湘南高等学校)で、学年が一つ下で同級(石原が1年間休学したため)だった江藤淳は、「石原慎太郎」のことを『無意識過剰の人』と言いましたが、分かります。

『素晴らしい国家像に向かって頑張っている自分は、かっこ良くスゴイ。』という姿を見せたかった人ではないでしょうか。

それは他人だけでなく自分に対し、「見せていた」ように感じます。