東日本大震災そして福島第一原子力発電所の事故から6年を迎えました。
18,000人を超える死者・行方不明者を出し、福島・宮城・岩手の町が壊滅的な被害を受けました。
今なお、仮設住宅に暮らす方やふるさとを離れて避難生活を送っている方々がいます。
災害に強い街をめざし、100年に一度の巨大津波を想定した巨大な防潮堤の建設・かさ上げ工事をはじめ、盛り土工事や住宅の高台移転を進めています。
おそらく、道路や橋、港の岩壁の補修も進み、漁港に係わる
製氷や冷蔵・冷凍施設、加工場等の建設が終わり、一歩づつ復興が進んでいると思います。
見た目には大きく変わっている様に思いますが、ここ数日のテレビやラジオそして新聞等の報道からは、被災者の中には、「何も変わっていない」と感じている方がいるようです。その方々の悲しみ、苦しみが伝わってきます。当事者でなければ分からない悲惨の大きさに、言葉がありません。
とりわけ、福島から避難をされている方々からは、「避難解除」が出されても、どうすべきか悩み、もがき苦しんでいる状況が伝わってきます。
一昨年の5月、いわき市の先にある広野町・楢葉町・富岡町へ行きました。被災地スタディツアーで、地元の議員に案内をしていただきました。
海に近い所から内陸(山)へ入るほど、所々に設置されたモニタリングポストの数値は上り、マイクロバスの車内に持ち込んだ線量計は激しく鳴り響いていました。住宅の除染は進んでいましたが、家と家の間にある雑木林や空き地の線量は高く、戻ってもとても生活出来る状況ではないと感じました。
5年前、2週間程、宮城・岩手の被災地に行きました。海の近くの街はどこも家がなく、地盤沈下により水が溜まり草が生い茂っていました。亘理から名取、多賀城、塩竈、松島、石巻、本吉、気仙沼、陸前高田、釜石、大槌、山田です。
たまに、お風呂の浴槽や門柱に埋め込まれた標札があり、住居があったことをうかがわせていました。
海岸の松林も、この世とは思えないような光景で、一本だけ残った木が印象的でした。あちらこちらに、『がれき』が積まれていました。木材・コンクリート・鉄・プラスチック類、車とオートバイ等。そして、まだ分けられていない『がれき』の山もありました。
高台へ移転した市や町のプレハブ庁舎へ行き、復興計画を中心に話を聞きました。都市計画関係の部署には、東京や関西、全国の市から応援に来ている職員が目立ちました。
電車が止まっている区間は臨時バスやタクシーで移動し、町の中は徒歩か自転車で一日中動きまわっていました。
ホテル・旅館は満杯で、風呂もない民宿のような旅館にも泊まりました。お陰で、銭湯の中や食堂で夕食を取りながら、津波か来た時のことやその後のことを聞くことが出来ました。
仮設住宅へも行きましたが、地震や津波のことはあまり話しませんでした。「話したくない」ように感じました。
地震が来る前の生活や町の様子、そして今の生活について話しを聞きました。
石巻だったか、釜石だったか?(釜石だったと思います。)どこの宿も取れず、風呂の無い宿に泊まりました。埼玉県川口から来ている親子と一緒でした。娘さんと父親の二人でした。美しいハーフの娘さんと風采の上がらない父親でした。私が『風呂に入れないのは困りましたね』というと、親父さんが、『1日位なんでもありませんよ。皆さんのことを思えば』と言われました。美しい娘さんは黙って微笑んでいました。
私は、なぜこの親子はここに来ているのだろうかと考えました。おそらく、未曽有の大災害の現実を娘さんに見せたかった、感じさせたかったのだろうと思います。人間の『生きる』ということを見せたかったのだと思います。
現在進められている自然災害に対する備え、まちづくりの復興計画・事業について、私は別の考え方を持っています。
簡単に言えば、『自然を受け入れたまちづくり』です。
今進められている100年に一度の災害に、巨大な防潮堤を作って防ぐという考え方には賛同できません。
知恵を使えば、もっと安く・早く・生活に便利な復興は出来ると思っています。
どの市・町でも、『もともと、特に若い人の流失が激しい人口減少地域。この地震・津波でさらに流失が加速している。』、『働く所はあるが、若い人が働きたいと思う仕事がない。』と一様に言われました。
これまでの復興を見ると、最も根本的な人口減少・流失に対する政策・取り組みがないと感じます。
高台移転や盛り土をしても、次に続く働き手がそこに住まなければ、子どもたちの声が聞こえなければ、町の復興・発展には繋がらないと思います。
今進められている復興計画・事業に満足するのは、土建・建設業者と中央の官僚、政治家だけかも知れません。