せともの

日本中で、「せともの」と言っていたのかどうかは知りませんが、東京では、「焼き物(陶磁器)」の総称として「せともの」と呼んでいたと思います。どこの町にも「せともの屋」はありました。

店の看板には「せともの」と書かれていました。茶わんや急須、花瓶に火鉢そして湯たんぽ等、家庭で使う実用陶器は皆、「せともの」と言っていました。 私の中学時代までは、駅弁と一緒に売っていた「お茶」も容器は焼き物でした。

『瀬戸(愛知県)』が代表的な製陶の中心地であり、いかに『瀬戸』の陶磁器が東日本で広く流通していたかが分かります。

日本での陶磁器の歴史は、中国や朝鮮と比べると数千年遅れて発展したと言います。縄文土器、弥生土器、須恵器の時代が長く、平安の後期から 、瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、備前で作られました。六古窯と言われています。

瀬戸の起源は、加藤四郎左衛門景正による中国製陶法の招来とされています。道元禅師が貞応2年(1223年)宋に渡った時、従者として渡宋し、禅修業の傍ら製陶の修業をし安貞2年(1228年)帰国後、瀬戸(尾張)に窯を築き、中国風の陶器を焼きはじめたのが起源とされます。

美濃、唐津、萩、京、伊万里、色鍋島、古九谷等は室町・桃山時代後半からです。美濃では、志野、黄瀬戸、織部、古伊賀等、京では仁清、乾山等です。信長や秀吉そして千利休が茶会を催していた時代です。

利休七哲の中で、異色の存在が古田織部。信長・秀吉に従って戦い、戦功によって三万五千石の大名になった武士です。利休について茶道を学び、極意を伝授されました。利休の死後、茶の湯の名人とよばれ、家康や二代将軍とも交流がありましたが、大阪夏の陣・冬の陣で豊臣側に内通した疑いで切腹となりました。

織部焼は斬新でデザイン性、創造性に富んだ焼き物です。形、文様とも自由で独創的で、今見てもモダンでアートだと思います。丸・三角・線の幾何学的図形の大胆な組み合わせの文様、型にとらわれない造形、濃い緑、信じられない程です。織部は、千利休の『侘び・寂び』とは対照的な世界のように感じますが、時の権力者によって「切腹」となったのは何とも不思議な事です。

志野、黄瀬戸とともに「織部」は好きな焼き物の一つです。

それにしても、相当前から「せともの屋」さんを見かけません。いつ頃から無くなってしまったのでしょうか。