災害と生活

西日本豪雨から1週間が過ぎました。

死者は200人を超え、行方不明者も50人に上り、その多くは60歳以上の高齢者です。 被害の全容はまだ明らかではありませんが、被害家屋は3万棟を超え、避難生活を送っている方は5,809人と言います。

特に、広島・岡山・愛媛で大きな被害が見られます。 道路が寸断され物流への影響が出ていますが、全面復旧のメドは立っていません。電気・ガスが復旧しつつある中、断水が続いています。断水は日常生活をはじめ、医療機関での診療、復旧作業にも影響を与えています。

酷暑の中での避難生活や復旧作業は本当に大変だと思います。

このような中、天皇・皇后が、「静養を取りやめる」との発表がされた一方、安倍総理を中心に40人の国会議員が懇談の酒席を開いていたことが「危機管理意識がない」と批判を浴びています。11万人への避難指示が出された5日夜、懇談会での集合写真をツィツターに載せたことが発端のようです。

病気や事故等と同じように、「災害」もまた実際に経験しなければ、その痛みは分からないと思います。 しかし、「自分が同じ状況だったら」と思いをめぐらすことは出来ます。その中で、「何が出来るのか」、「どう寄り添って行くのか」を考え、行動できるかどうかだと思います。

世界中で戦争や紛争、災害が起こっています。続いています。病気や傷ついた子ども、難民を助けられない現実があります。貧困にあえぐ国や地域もあります。だからと言って、全財産を投げ出し、仕事を辞めて支援に行くことは出来ません。

皆がそうしたら、その国は潰れてしまいます。今度は自分たちが援助を受ける立場になってしまいます。 平和の中で働き、食べていける人達はその生活を続けなれればなりません。「どのような支援をどの位するのか」は、それぞれの個人が考え決めることです。国もまた同じです。お金以外の知識や知恵、経験を生かしてもらう貢献もありますが、富は必要です。富を生み出すには、安全・安定した社会での経済活動が前提です。

苦しんでいる人がいるから、相撲やプロ野球の観戦はしません。外食は控え、夏の家族旅行へは行きません。花火大会は中止、夏祭りどころではありません等々、皆が萎縮した生活をしたら、新たに困る人達が生まれます。いろいろな形の支援、貢献が出来ることは、東日本大震災で実証されています。

3.11の1年後、被災地を回りました。鉄道も道路も寸断され無くなってしまった町々をひたすら歩き、仮設の住宅・庁舎で話を聞きました。釜石だったと思いますが、風呂が使えない宿に泊まりました。

新日鉄の事業所のそばにある銭湯へ行った帰り、食事をしました。そこの主人が、『川を挟んでこちら側はほとんど被害が無かったんです。海に近い街では、家も家族も失い、大変な状況でした。』『何か申し訳ない気持ちで生活していました』と。そんな中で、支え合っていたことを伺いました。

国は【国土強靭化計画】の中で、「国土保全・環境・交通・物流分野」についても推進方針を示し、アクションプラン2018では、『水害対策や土砂災害対策の推進』を拡充・改善事項の一つに掲げています。

しかし、「自然」はそれをあざ笑うかのように、私たちに厳しい「試練」を次々と課してきます。 反面、人として生きる上で「何が大切なのか」、「幸福とは」を考えることを教えているように思います。

人間の歴史は、飢餓や天変地異の苦しみの中でも「ひたすら」生きてきたのだと思います。

外からは「祭囃子」が聞こえてきます。 議員になって11年目、初めてのことですが、今年は祭りの2日間、「ビラ配り」はしません。