辞世の句

「散る桜 残る桜も 散る桜」、良寛の辞世の句と言われています。

古くから「桜」の木は日本中に見られ、身分に関わりなく親しまれてきた「花」だと思います。

「稲作」とも深い関わりがありました。 桜の「開花」は、種もみを苗代に撒く「種まき」や「田植え」の時期を知らせる役目を果たしていました。暦の上だけではなく、地中の温度や水温を桜の開花と結び付けて判断していたと考えられます。

早い春を迎えるのか遅い春になるのかは、その年によって異なります。 今でも各地に、『種まき桜』や『田植え桜』が見られるのはその名残です。

この句は、太平洋戦争の時、特攻隊員の遺書にも引用されました。桜の花が散る様子を当時、「いさぎよく」死ぬことを美徳とした日本人の「死生観」と一致すると考えたのかも知れません。

良寛は「生まれたからには死ぬ」という意味で詠んだようです。 また、死期の近い良寛がつぶやいたと言われる、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」は愛唱の句で、「思い残すことはない」「死ぬのも生きるのも運命」との考えを表したもので、「いさぎよく」死ぬ、という事ではなかったように思います。

義父は軍艦に乗っていました。

私が預かった海軍士官短剣は全長38㎝、刃渡りは19.5㎝のものです。戦後、刃をグラインダーで削り、切れない短剣にしています(少し縮んだように見えます)。

握る所に2か所、「桜の花びら」が付いています。 何十年ぶりで、手にしました。

*良寛和尚(曹洞宗僧侶): 江戸時代後期、越後の国出雲崎で名主兼神職の長男として生まれ、18歳の頃出家。円通寺(岡山県・倉敷)で12年修業の後、放浪の旅へ。40歳の頃越後へ戻り、粗末な草庵に住み、生命のある全ての自然と子どもを愛し、遊び、書を書き、托鉢で暮らす。多くの和歌(1300)・俳句(100)・漢詩(600)を残した。書の達人(号は大愚)。和歌では、【この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし】等。