お別れ会

先日、浅草ビューホテルで開かれた「お別れ会」へ行ってきました。
大学の1年先輩、Sさんの「お別れ会」です。

7月に亡くなり家族葬は済ませたたそうですが、地域や一緒に活動をしていた方々が発起人となり、会を開きました。
受付と会場内には同じはっぴを着た20人程がお手伝いをしていました。

Sさんとは同じサークルで出会い、卒業後もお世話になりました。浅草松屋に隣接したご両親が経営する店(花川戸)には、学生の頃から出入りしていました。

彼は学生の時から浅草の「まちおこし」の活動をしていました。昭和40年代、内山栄一さんが台東区長になった後、隅田川花火大会の復活や浅草サンバカーニバル、そして墨田川を遊覧船で浜離宮へ行く水上バス就航等を区長とともに活動していた様子をよく聞きました。

私は卒業後、上野駅前のデパートに勤めていました。上野や浅草でよく酒を飲み深夜、彼のマンションに行き泊めてもらいました。墨田川に面したマンションでは三社祭や花火大会の時、サークルの仲間が家族とともに集まり、昔話と近況を伝えあいました。

昭和30年代から40年代、浅草の街は寂しい状況でした。渋谷・新宿・池袋へ人が集まるようになり、繁華街としても興行の街としても活気が無くなりつつありました。夜は早々に店が閉まり、雷門あたりでも人がまばらでした。神谷バーやアサヒのビヤホールも静かでした。

浅草(台東区)では、少子高齢化と人口減少が進み、全国に先駆け小・中学校の統廃合が取りざたされていた時期だったと思います。お店を経営されている方にも夜は浅草を離れて暮らす人がいました。

台東区長や都議会議員、衆・参議院議員の挨拶の中で、彼が三社祭りの宮出し・宮入の改善や子ども歌舞伎の復活、また地方都市の「まちづくり」や「祭り」にも係わってきたことが分かりました。参加者は浅草・上野を中心に青森から熊本まで広くから来ていました。

ずば抜けた行動力と企画・提案力で神出鬼没に行動していた様子は学生時代と変わりません。サークル活動の中で、都内の観光バス会社と折衝することがありました。バス会社の担当者に、彼のことを「あの方は本当に学生ですか」と聞かれたことがあります。

内山学校の中で「最も忠実に教えを実行した人」と言われますが、内山区長の「知恵袋」として区長を支えた一人だと思っています。

年末年始、ゴールデンウイークそしてインバウンドが話題になる時、人であふれた「雷門」の様子が伝えられます。それらを目にすると、彼の「不断の努力」を思います。