7月の末、岩手県雫石にある小岩井農場へ行ってきました。
百貨店で食品担当をしていた頃から一度は訪ねてみたい所でした。
小岩井の「乳製品詰め合わせ」は、お歳暮で取り扱いをしていました。当時はまだクール宅急便が無く、お中元での扱いはありませんでした。
キリンビールの代理店である明治屋の口座を使っていたように思います。
訪れたのは、小岩井農場「まきば園」です。
小岩井農場は盛岡市の北西12㎞の岩手山南麓に位置し、総面積3,000haの生産農場として農林畜産業を中心にした事業を展開。基幹事業は酪農ですが、約630haの牧草地で飼料を作り、2,300頭以上の牛を飼育しています。また鶏卵生産者向けに、「小岩井ひよこ」の生産・販売。さらに2,000haの山林を長期にわたり健全に育成している山林事業も。この他、生乳を使用した低温殺菌牛乳やナチュラルチーズ、菓子等の生産をしている食品事業。首都圏では、レストラン事業を展開。環境緑化事業では、ビルの高層緑化や河川の水辺緑化も行っています。
農場の中央エリアは「まきば園」として、生産の営みを産業観光として紹介しています。農場内の歴史的建造物21棟が国の重要文化財に指定されていますが、園内でその一部が公開されています。明治時代から昭和の初めにつくられた一号サイロ・二号サイロや牛舎、秤量剪蹄室等を見ることが出来ます。
私が最も驚いたのは、小岩井農場を作った創業者の思いと130年にわたり努力を続けてきた人達の歴史です。
明治21年(1888年)6月12日。東北本線工事の視察のため盛岡を訪れていた鉄道庁長官、井上勝が岩手山南麓に広がる不毛の原野を前にして決意したことです。「これまで鉄道開発のため失われてきた、たくさんの美田良圃。その埋め合わせに、この荒野を開墾し農地に変えたい」と。
井上勝はこの構想を大野義眞(三菱の代理人・日本鉄道会社)に打ち明け、助力を依頼。小野は、井上と岩崎彌之助(岩崎彌太郎の実弟・三菱の二代社長)を引き合わせたところ、井上の高邁な願いに岩崎は感銘し、その場で出資を快諾したという。
明治24年1月1日、井上が場主となり小岩井農場を開設。小岩井という名前は、小野・岩崎・井上、3人の名字から1字ずつ取って付けられました。
火山灰土と湿地の痩せた土地での農場経営はなかなか軌道に乗らず、明治32年岩崎彌之助が経営を引き継ぎ、防風林の植林や土地改良、排水網の整備等を実施。また、イギリス・オランダ・スイスから選び抜かれた牛を輸入し繁殖させ販売。牛乳やバターの製造技術を確立。明治32年には、牛乳の市販を開始し、明治35年には「小岩井純良バター」を販売。
働く人全員が農場に住み、制服姿で作業し、生活を共にしていたと言います。近くに学校がないため、子ども達の学校も場内に作り、皆で得意の分野を教えていたそうです。開拓団の「新しい村」のようです。
奥羽山脈から吹き下ろす冷たい西風の中で、木もまばらな不毛の原野で大農場を拓く夢を、一歩づつ実現してきた人達の努力と苦労は想像を絶しますが、サイロや牛舎のたたずまいから少し分かるように感じました。将来の農場を想像し、今、自分達が何をどこまでやるのかを理解し計画的に進めてきたことがうかがえます。
明治・大正・昭和を生き抜いてきた人達の力は、やはりスゴイと思います。
そして、小岩井農場の礎を築いた岩崎彌之助が「日本人を欧米人のような立派な体格にしたい」と考えていたと言います。
日本と日本人の将来を見据えた事業として取り組んでいたことに、ただの「政商」ではないと改めて思います。
*8/7日追記 : ホテルへ向かう時と小岩井農場「まきば園」への行き帰り、タクシーの運転手さんから聞いた話です。
①牛乳というとホルシュタイン種(白に黒の柄)を思い浮かべるが、それは昔、小岩井農場に連れてきた乳牛の中でホルシュタイン種が一番この土地になじみ、お乳が良く出たから。②小岩井農場に隣接した土地に戦後、開拓のために移住してきた人達がいる。だからその地区にはいろんな名前の人がいる。荒れた土地なので、それぞれ広い土地をもらって開拓をしてきた。今のようになるまでには大変だった。③かつては冬に、-17度くらいまで下がることがあった。しばらく前からそんなことは無くなった。